泥濘の春



泥濘の春10

 ソファで転寝をしていると、何処からともなく嗅いだ事のある食事の香りが鼻腔を擽り目を覚ました。キッチンで物音がするから
、きっとデイビットが夕食の支度をしているのだろう。
 肌を重ねてから1週間程度経ったが疑念が晴れる事は無く膨らみ続ける私に、彼が気付いた様子は見られない。
 いつも通りの日常が何処か歪んでいると思い始めて尚、私は「いつも通り」を演じる事が出来ていた。

 デイビットが食事を運んできて私に声を掛ける。ソファから降りて彼に寄り配膳を手伝う私に軽くキスをして「おまえは眠るのが好きなんだな。」と言う彼の暖かい目もいつも通り。

 メインは大きな牛肉が入ったビーフシチューだった。

「私、これ大好き。」
「知っている。だから作ったんだよ。」

 シルバーのスプーンで香辛料の香りがするスープを掬い、口元へ運ぶ。濃厚な味と牛肉の香りが口いっぱいに広がり、とても美味だった。

「おいしい。」

 微笑む私を見て彼も嬉しそうに笑う。これは演技ではなく、本当に美味しいと感じたし、自然に漏れた笑みだった。二口目は牛肉を。よく煮込まれた肉は口に入れた瞬間に筋繊維が綻び、まるで解ける様な食感だ。

「口の中で解けるみたい。」
『口の中で解けるみたい。』

 私の声が脳内でリフレインする。過った映像はあるアパートメントの一室で、私とデイビットがテーブルを挟んで食事をしている光景だった。中央にはバットに入ったビーフシチュー。ボウルに入ったシチューを食べて私は喜んでいる。美味しい美味しいと繰り返す私を彼が愛おしそうに眺めている。そして、徐に私は立ち上がり何故かバスルームの前まで視界が移動していた。バスルームの中からは水が流れる音がする。磨りガラスの向こう側は薄らと桃色に色づいている様に見える。そして、脱衣所に漂うのは鉄錆と潮の匂い。
 私の手は浴室の扉を掴んでいる。
 きっと扉を開けたら元には戻れない。そう予感しながらも私はバスルームの扉を開いた。

「どうかしたか。」

 デイビットの声に意識が呼び戻され、我に帰る。不思議そうに私を見た彼の姿が二重になって、残像は全く別の男を映し出す。
 私は残像の名を知っている。彼は、私の同僚で、あの日を最後に二度と会えない人となったハロルドだ。
 彼の姿がきっかけになって、鍵が掛かっていた記憶が激流となって流れ込んでくる。
 隣人だったデイビット。彼が殺した友人たち。私に食べさせた肉の事。監禁初日の会話。そして、一度思い出しかけて彼に気づかれ、また振り出しに戻った事。

「…ううん。まだ少し眠いだけ。」

 慌てて取り繕い、誤魔化した。私はこの秘密を守らなくてはならない。私が全てを思い出した事を。恋人の夢から覚めてしまった事実を。

 食事を終え、シャワーもその後の時間もいつも通りに過ごす事が出来たと思う。「ここから抜け出す」という目的を持った今、私は今までで一番冷静でいられる。本来の私は、恋人に甘え、依存し、監禁されることを良しとする女では無かった。人肌は好きだったが、依存などしない。母国を離れ、語学力と知能を武器に1人で戦ってきた。

 あの頃の私は生きていた。

 このベッドに寝そべり、あの男と過ごした時間を思い出す度吐き気がする。私を殺しておきながら私を愛していると宣ったあの男。私を洗脳し、まやかしの安寧という毒に漬け込んだ卑劣な男から逃げ出さなくてはならない。
 計画など無い。ただ好機が来るのを待つだけだ。

 そしてその日は静かに訪れた。
 眠る時間になったのに何時になってもベッドルームに現れないあの男を訝しみ、家中を見て回ったがその姿はどこにも無い。声をかけても反応は無かった。
 隠れて私の様子を伺っている可能性を考え、静かに玄関口へ向かいドアを確認すると施錠は全て内鍵で、全てを外してノブを回せばそれは驚く程あっさりと開いた。
 肌に触れる外気は冷たく、吸い込めば肺が凍え、私の目を覚まさせる。
 私は走り出していた。夜闇の中を必死で駆ける最中に気づいたのは、此処はロンドンだという事。そして私が監禁されていたのは人通りは少ないながらに市街に近いマンションだったという事。
 夜着のまま息を切らして走る私を、通行人達は怪訝に眺めている。それでも走り続け、助けを求めて駆け込んだ警察署で保護された事により、やっと私は救われた。

 私が伝えた場所に行ったヤードによれば、家の中には男性の遺体があったそうだ。首を自身で裂いていたその遺体の確認に行った時、それは見知った服装と髪色をしていたから犯人で間違い無いと証言した。彼は私なしでは生きられないと言っていたから、逃げ出したことに気付き失意の末に自ら命を絶ったのだろう。

 そして気付いたのは、私を監禁していた男の顔が思い出せないという事だ。
 彼が私にしてきた事は鮮明に思い出せるのに、何故か顔や声、仕草等彼を特定する情報が一切抜け落ちてしまっている。
 ヤードに勧められて後日受診した精神科医が言うには、ストレスが大きいと記憶障害を起こすことがあるらしい。身体が、忘れたいと言っているのだそうだ。
 本件は監禁事件として取り扱われたが、私以外に被害者がいない事、また犯人が自宅で死亡していた為特定の手間が省け、捜査や取り調べは形式的な物のみとなった。ごたついた身の回りはすぐに落ち着いた。そして私はというと、犯人の名前も顔も忘れている事が幸いし、犯人もこの世にはいないので怯えてロンドンを離れる事なく幸せな生活を送っている。
 以前の職場は除籍となり、当然の様に自宅も引き払われていたから全てが再スタートとなったが、結果的には良かったのかもしれない。

 そして新しい人生を歩み始めたと同時に、私は新たな命を授かった。
 この子は愛する夫との子供だ。
 夫は、コーヒーショップで私がコーヒーをぶつけてしまった事がきっかけで知り合った男性で、何度かデートを重ねた後に彼が求婚してくれたのだ。
 私は彼を愛していたから返事に迷うことは無かった。
 夫は研究職に付いているが毎晩決まった時間に帰ってきては私を労り慈しむ。彼の希望で、私は仕事をせず所謂専業主婦として家を守り、帰宅した彼を出迎えた。
 子供の頃に描いた人生とは少しだけ違ってしまったが、今の生活は夢見る幼い頃の私に恥じない姿であると思っている。暖かい家も、優しい夫も、まだ見ぬ可愛い我が子も、全てが私を心地良さで包んでくれた。

 今日のロンドンは青空だ。花々が咲き乱れ、街路樹が青々と天に向って葉を広げる春が過ぎ、夏が始まろうとしている。まだ暑くはないが日射しが強い為、黒髪の私は後頭部がじんわりと暖かくなる様を楽しみながら街を歩いている。
 買い物ついでに手に入れた紅茶とガナッシュを休日で家にいる彼はきっと気に入ってくれるだろう。
 軽い足取りでマンションのエントランスを抜け、郵便受けのあるコーナーに入ると、整然と並ぶポストの前に一通の封筒が落ちている事に気がついた。
 郵便係が入れ損ねたか、住人が気づかず取り落としたか。どちらにせよ此のままにはして置けないので、床に落ちた其れを拾い上げ宛名に目をやった。

 真白い簡素な封筒にはDaybit Sem Voidの名が綴られている。

 何故、此の封筒が落ちていたのかは分からない。
 名を見た瞬間に、麗かな陽気であるのに背筋が酷く凍える感覚を覚えた。
 
 其れもそうだ。
 夫宛の郵便物が誰が通るとも分からないロビーに落ちていたのだ。どんな個人情報が入っているかもわからない物を公共の場に落としておくなんて狼の縄張りに裸で寝転ぶ様なものなのだから。しかし偶然見つけたのが私で良かったと、封筒の表面を軽く払ってから鞄にしまい、夫であるデイビットが待つ我が家へと続くエレベーターに乗り込んだ。

 今日も良い日になりそうだ。



Machiavéliste 終話

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