禍つ泥



禍つ泥
 切っ掛けが何だったのかはわからない。彼が読んでいたフィリップKディックの小説に其れを煽る描写があったのかもしれないし、今日の夜着の裾から見える私の腿が誘ったのかもしれない。
 デイビットは日常的に私に触れる。ふとした瞬間に私の肌に彼の肌が触れている。食事の時間以外はいつだって有り得るのだ。しかし其れは愛情表現の一つであって、子供にキスをしたり、飼い猫の顎下を撫でたりするのと同じであり、その時の瞳は慈愛に満ちている筈だった。
 彼との生活で「そういう気分」になった事が無いと言えば嘘になる。何度かそれとなく誘ってみた事はあったが彼は其れを然りげ無く拒否した。私達は恋人同士で、そういった行為をするのは疚しい事では無い筈であるのに、彼が手を出すことは無かった。

 一切の衣類を纏わずシーツに沈む姿はまるで波に打ち寄せられた海獣の様だと、我ながらに思う。彼によって取り払われた夜着も下着も全てはベッドの下に追いやられ、情事を望んでいたとはいえ、露わになった身体を凝視されては気恥ずかしい。
 名を呼べば、彼はうっとりと微笑み自身の着衣を脱ぎ捨ててから私に手を伸ばす。自らも白い波に膝を立て、私の足先から脹脛、腿、臀部、腰、其処までなぞった暖かい手はするりと離れて代わりに私の顔の横を行き場にした。常夜灯に濡れ、煌々と輝く彼の髪が星の帳の様であった。
 腕の筋肉の隆起に触れながら視線は彼の瞳だけを見つめ、口元は弧を描いて彼が何か言うのを待つ。其れに気付いたのか、デイビットは私を真似て口角を上げ肘を折って顔を近づけて私の耳元に唇を寄せた。

「これから何が始まるのか分かっているだろう。」
「私結構待ってたのに、どうして突然その気になったの?」
「オレは時期が来るのを待っていたんだ。」
「時期?」
「おまえがオレを心から愛していると確証を持てる時期だよ。」

 デイビットは偶に、私が理解できない話をする。私達は愛し合っているからこそ生活を共にしているのだし、触れ合うのだ。

「変なの。私、出会った瞬間から貴方の事愛してるのに。」
「オレもだよ。」

 私の言葉に息を吐き、耳元から離れた唇を私の唇に重ねる。下唇を食み、薄く開いた隙間に舌が滑り込んできた。舌先で上顎の歯列をなぞられると、首の後ろが甘く痺れる。口付けを交わしながら触れられる首筋や鎖骨、肩が熱を帯びた。
 鼻から抜けるくぐもった声。粘膜が触れる湿った音。この部屋に聞こえるのは私達がたてる音だけである。
 唇は顎から首筋とどんどん降下していった。そしてささやかな膨らみに、はしたなく立ち上がった頂点を避けて口付け、片手は私の脇腹と腰の間を行き来している。
 声にもならない音が私の口や鼻から漏れ出す度に、伏せていて見えない筈のデイビットの顔が満足気に綻んでいる様な気がした。
 そうして十分に火照った私に、彼は脚を開く様言って聞かせた。
 薄暗いとはいえ常夜灯が付いている中で、自身の秘部を曝け出すのには抵抗があったが、待ち焦がれた刺激が待っていると思うと、意志に反して私の膝はそろそろと外側へ動いていた。
 空気に触れた粘膜がひやりとしたが、内腿に緩く添えられた手の熱さを意識してしまい気にならなかった。
 彼の舌先が、一番外側の肉の膨らみに触れ、緩く舐られる。時折軽く吸ったり唇で食んだりしながら、舌先は内側の粘膜のヒダに移動していて、触れた瞬間に腹の底に熱が溜まる感覚を覚えた。
 彼の吐息と共に膣口の側から陰核にかけて細やかに舌が触れ、訪れた快感に爪先を丸め、掌でシーツを掴み必死で耐える。浅ましく蜜を垂れ流す膣口に、舌は這わせたままそっと侵入してきた指を、膣壁は離すまいと食いついている。それがまた恥ずかしくて頬が熱い。

「声は聞かせてくれないのか?」

 唇を噛み、はっきりと出てしまいそうな声を押し殺す私に、指の動きを止めずに彼が問いかける。軽口に付き合える程、私に余裕は無かった。入り口を解す様に緩やかに指が行き来する。わざとらしく音を立てる事もなく、乱暴に抜き差しすることもなく彼は念入りに窄みをかき回した。

「ゆび、もういい。
「…慣らさず痛い思いをするのはおまえだぞ。」
「いい…はやく。」

 私の声にゆっくりと引き抜いた愛液に濡れててらてらと光る指に舌を這わせたデイビットは酷く煽情的であった。この肉体に、この男に組み敷かれ、骨の髄まで溶かされてしまうのだと思うと身体中が戦慄く。
 彼の掌が膝裏を抑え、腰が少し浮く。そしてつるりとした熱い肉の感触がして、少しずつ体内に埋まっていくのが分かった。
 経験した誰よりも大きいそれは、私の膣壁を擦りながら奥を目指し進み続ける。シーツを掴んだ手は無意識に彼の腕を掴み、迫りくる快楽の波に流されない様に耐えていた。
 肌と肌を重ね、同じ悦に浸り溺れる事のなんと心地よいものか。これほどの充足感を感じた事は今までで一度もなかった気がする。今までに身体を重ねたどの男性よりも彼は素晴らしかった。そう、どの男性よりも。…そういえば、私はデイビット以外と交際していた記憶がないのに、一体誰と比べているのだろう。どの男性って、どの男性?

「ぅンッ、くるしい…。」
「奥まで入った。…動いても?」
「ゆっくり、」

 触れる肌は汗でしっとりしている。抽送を始めた其れが、奥に触れる度に快感で身体が引きつり内壁は更に収縮した。締め付けが苦しいのか、彼も汗を浮かべながら苦しそうに顔を歪めている。次第に早まる律動と共に纏わり付く様な粘性の高い水音が結合する箇所から聞こえ、視覚的にも聴覚的にも、触覚的にも羞恥を煽られている様であった。

「ひっ、あぁッ、奥だめっ、」
「その割に存外良さそうだが?」
「ばかっ、はぁッ…ぅんんッ」
「心外だな。」
「だめだってば、あンッ、」

 彼は上体を私の身体に密着させ、より強く腰を打ち付け子宮口を何度も叩く。耳元で聞こえる呼吸は野を駆けた野犬の様に荒々しく、今の彼は獣そのもので、そんな彼の背に手を回し爪を立て、片手で金の髪を掴んで彼を求め続ける私もまた獣だ。
 腹に溜まった熱がせり上がり、彼の先端があるところに触れた瞬間に弾けて露となりシーツの上に滴り落ちる。彼は息だけで笑いながら腰を止める事は無く、膨らみ切った杭を何度も繰り返し私に突き立てた。

「イってるからぁッ、ちょ、っとまって…ッまって!」
「はっ、あ…おまえの中は心地良いな…ッ、このまま、オレも、」
「やだッ、またイっちゃう、」

 一番深く強く打ち付けた後で、埋まった物が脈打ち膣内に体液が広がる感覚がしたと同時にグラインドは緩やかになり、膨張も落ちついた様に感じた。
 彼は肘を付いて肌を離し、私に何度も口付ける。吐息を交換しながら、疲弊した私を見て行為を始める前の様にうっとりと微笑んでいた。しかしその表情には劣情と愛欲は無く、愉悦一色に染まっている。

「やっとおまえを手に入れる事が出来たんだな。」
「どうしたの…?」
「オレを愛しているか?」
「…愛してる。」
「オレを置いて行かないでくれ。」
「此処を離れて何処に行くっていうの。」

 私の言葉に彼は安堵とも取れる穏やかな顔を見せ、私の上から退いて側に横たわった。私は彼の胸に頬を寄せ、慰める様に肩を摩る。彼の体温を感じながら瞳を閉じると、行為の最中に浮かんだ疑念が頭をよぎる。
 私は以前にも男性と触れ合った記憶があるのに、その相手が一体誰なのか全く思い出せないのだ。そして其れに連鎖する様に浮き出た疑問は、彼と私の以前の接点である。私と彼は何時何処で出会い、何に惹かれて交際するに至ったのか。何故同棲しているのか。愛し合っているからだと思っていたが、では何故彼を好きになったのだろう。恋人同士の出会いというのは大切な記憶である。其れ以外にも幾つか、まるで記憶に鍵が掛かっているかの様に、どう頑張っても到達できない記憶があるのだ。
 理由は分からない。いつか思い出せるかどうかも分からない。
 此の疑念が膿となり皮下に留まって膨れ上がり、私達の関係にどう影響を及ぼすのか。
 ただ一つ分かっている事は、違和感を抱き始めているという事実は私を抱き込み寝息を立てる彼には絶対に悟られてはならないという事だ。


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