春の終わり
12月のロンドン。激しい雷雨の晩にマリア・ヴォイドは誕生した。
陣痛から20時間の分娩、出生体重は2,600gとやや小柄ながらも産声は力強く、その健やかな誕生に両親は感謝し歓喜した。
マリアはごく一般的な家庭に産まれた。考古学者の父と専業主婦の母がおり、兄弟姉妹(きょうだい)はいない。父と母は、ひとり娘に一心に愛情を注いだ。発達も申し分なく発語が周りよりやや早かったが、我儘を言って両親を困らせ、夜闇を恐れて泣くような一般的な子供だ。
4歳の夏までをロンドンで過ごし、父の仕事の都合で母の祖国である日本へ移住した。マリアの両親は英語と日本語の両方を用いてマリアを教育していたので、日本の幼稚園へ転入しても語学の面で困る事は無かった。
マリアは非常に容姿に恵まれていた。乳(にゅう)の様な白い肌にさらさらと流れる栗色の髪の毛。つんと先が尖った小さな鼻に薄い珊瑚の唇。そして何より、長い睫毛に縁取られたアメジストの瞳は見る者すべてを魅了した。
この稀少な瞳の色は父に依る物だ。瞳に限らず、彼女の容姿の殆どが父譲りと言っても過言ではない。父のはっきりとしたパーツに母の東洋人の遺伝子が丸みを与え、マリアの完璧なまでの容姿を形成していた。
周囲がマリアを褒めそやしても彼女は決して驕る事は無く、同輩には快活に、両親以外の大人に向けては背伸びをして淑やかに、と至って一般的な子供らしい態度で振舞った。誰にでも分け隔てなく接する純真で無邪気な子供を妬む者はおらず、小学校に進学した後もマリアは常に人の輪の中に暖かく迎え入れられた。
母が好き。母の声が好き。花が好き。父も好きだが父より母に甘える事が多い。母の視線が自身へ向いていると堪らなく嬉しくなってしまう。母を何よりも愛する。そんな子供だ。
「マリアちゃん、お迎え来てないの?」
真昼の太陽が差しこむ待合室。サックスブルーのレオタードにミモザカラーのカーディガンを羽織り、ベンチに腰かけて本を読んでいたマリアは、受付の女性に声を掛けられ徐に文字を追っていた視線を持ち上げた。共に受講していた生徒達もまだ残ってはいるが、いつもであればレッスン後すぐに迎えが来ている筈のマリアがまだ残っていることを不思議に思い声をかけたのだろう。
正直読書の邪魔をされるのは気分が悪かったが、大人に対して無礼な態度をとってはいけないと教育されている彼女は至って愛想よく当たり障りのない返答をした。
「はい、でももうすぐ来ると思います」
「そう…それ、何読んでるの?」
「お父さんに借りた本です」
にこりと微笑みながらも簡素に答え、視線はまた文字を追う。受付の女性基佐藤はマリアに対していくつかの疑問を抱いていた。それはいつも送迎をしている母親と彼女があまり似ていない事だ。よく見る彼女の母親はありふれた容姿をしたごく普通の日本人であるのに、彼女は目鼻立ちがはっきりしており、その上珍しい色の瞳を持っている。佐藤は自身の人生の中で紫の瞳を持つ人間に出会ったことが無かったので初めてマリアを見た時は心底驚いた。数年間このバレエ教室に勤めているが、マリアの容姿は数多くの生徒の中でも抜きん出ている。長い四肢に愛らしい顔が乗ったビスクドールの様に繊細な造りをした少女は、まさに天使と言うに相応しいとさえ思った。そんな娘があの母親から生まれると言うことが不思議でならなかったのだ。
マリアを注視していると入り口の扉に設えたベルが軽快に鳴り響き来客を知らせた。いつも通りに其方に顔を向け挨拶の声を上げれば、体格の良い金髪の男が、見た目にそぐわない可愛らしい鞄を持って立っていた。
見覚えのない男に動揺しつつ何用かと声をかければ男はヴォイドと名乗る。厭に美しい男だった。
「えー、お父さんかぁ」
いつの間にか本とリボンがあしらわれたベージュのシューズバッグを手に入り口までやって来ていたマリアの言葉に佐藤は驚き、そして納得した。マリアの名字はヴォイドだった。この美しい男は彼女の父親であの女性の夫なのだ、と。眉の形、鼻の造形、まつ毛の長さ、ヴァイオレットの瞳はやはり父親似だったのだ。
マリアはあからさまにがっかりとした顔を見せ男から鞄を受け取る。男は顔色ひとつ変えずぶっきらぼうな口調で返事をした。
「なんだ、不満か」
「ママが良いのに」
「名前はランチを作ってる。おまえがリクエストしたんだろう」
「そうですぅ、でもお迎えもママがよかったんですぅ」
「着替えはどうした」
「お茶溢しちゃったから冷たくて着られないの」
脇で聞き耳を立てていた佐藤は、自分に対する受け答えと父親に対する態度の差に微笑ましさを覚えた。
小学1年生とは思えない受け答えをしていた彼女も、やはり家族の前では普通の子供なのだろうと、心のどこで安心したのだ。
「先生。さようなら」
「あっ…はい、さようなら」
自身の、いや、父の様子を盗み見ていた佐藤をマリアは冷ややかに一瞥し、簡素に挨拶をして教室を後にした。父と共に出歩く際に受ける視線には慣れているが、母と訪れるこの場所に常駐する人間が父にそういった興味を示すことをマリアは良しとしない。それによって母が思い悩んだり、悲しむことが何よりも許せないからだ。
近くの駐車場に止めていたラングラーもマリアは好きではなかった。小柄なマリアは乗車を1人で行うことが出来ず、決まって父のデイビットに手助けしてもらう必要がある。今回も例に漏れず後部座席のジュニアシートに抱き上げて座らさせれ、不服そうにシートベルトを締めた。
そして出発した車内で本を開きぱらぱらとページを繰れば、それに気が付いたデイビットは眉を潜めバックミラー越しに声を上げる。
「マリア、それはオレの本に見えるが気のせいか」
「ううん、お父さんの本」
「また書斎に入ったのか。危険だから入るなと言った筈だが」
「本しか触ってないよ。それにお父さんのお仕事の道具は見てるだけだから、お部屋に入っちゃダメって言わないで。お願い」
「…要検討だな。知的好奇心は満たしてやりたいがおまえが書斎に入ると名前もあまり良い顔をしない」
考古学者であるデイビットの書斎には研究資料や趣味の採掘道具が幾つもあり、名前は刃物や先端の鋭い道具に触れて娘が怪我をすることを恐れているのだが、当のマリアは見た事のない道具や資料、また父の豊富な蔵書に非日常性を感じ書斎を気に入って忍び込むことがあった。
デイビットとしては自身の書斎に娘が入る事も蔵書を持ち出す事も特に問題視しておらず、寧ろ自身の研究分野や趣味に興味を持っている事に良い気さえしていたし、見分が広がり将来の役に立つやも知れないとまで考えていたが、妻の言い分も尤もであるので妻と娘の妥協案を定めるまではどちら付かずの返事をする他無かった。
「何を持ってきたんだ?」
「新やくせい書」
「内容を理解して読んでいるのか」
「あんまりわかんないけど、前に見たお話が載ってるかなと思って。面白いお話だったんだ。へロディアのむすめとヨハネのお話知ってる?」
へロディアの娘とヨハネの話は、後年にオスカーワイルドによって戯曲となり「サロメ」として世間に知られている話だ。
――へロディアは洗礼者ヨハネに憎しみを抱いていた。本来であれば夫ヘロデの弟と結婚する筈を反故にしてヘロデと結婚したことをヨハネに批判されたからだ。ヨハネを疎ましく思い始末してしまいたかったが、夫ヘロデは洗礼者ヨハネを聖なる人だと信じ、恐れていた。それ故にへロディアはヨハネを殺せない。
ヘロデが誕生日に宴を催した。大勢の客を招いた盛大な宴の場。そこにへロディアの前の夫との娘がやって来て、見事な舞を披露する。ヘロデはその舞に魅了され、悦び、娘に「なんでもほしいものを与えよう。欲しいのならこの国の半分を与えてもいい」と言った。そこで娘はへロディアの元へ行き何を願えば良いか尋ねる。へロディアはこれ幸いと「バプテスマのヨハネの首を」と答えた。娘はヘロデに「バプテスマのヨハネの首を盆に乗せて頂きとうございます」と願う。ヘロデは困ったが、客の手前、願いを叶えてやる他無かった。――
デイビットは、6歳の娘が聖書の内容を1節でも覚えている事に驚き、同時にこの救いようのない話を知った切欠と原典を追うまでに気に入っているという理由が気になった。オスカー・ワイルドのサロメを知っている人間であればこの話に興味を寄せるのは理解できるが、マリアはサロメなど読んだ事は無い筈だ。
「何故、この話が好きなんだ」
「マリアもね、ママにお願いされたら同じことをすると思う。ママが欲しいものは何でもあげたいしかなえてあげたい。それにヨハネはママの悪口をいったでしょ。しょうがないでしょ」
「名前はへロディアとは違う。自分が出来ない事をおまえに望まないし、娘の手柄を自分の為に使う愚かしい人間ではない。おまえもへロディアの娘とは違うだろう。自分で考え、自分で行動が出来る女性だ」
「…わかってますぅ。でもお父さんもそうでしょ?ママの為なら何でもしてあげたいし、なんでもかなえてあげるでしょ?」
その問いにデイビットは答えず視線だけを送る。同じ輝きを持つ瞳は鏡面越しに克ち合い、その意図を汲み取れなかったマリアは小首を傾げ、また頁に視線を落とした。
概ね彼女の言う事には同意であったが、デイビットには名前がいくら望もうとも叶えられない願いがある。それは不可能という意味ではなく、明確にデイビットの意志で「叶えない」願いだった。この理想的で幸福な生活を維持する為には、名前が願うことも許容しない禁忌だ。
それから2人は一言も交わさず、10分ほど車を走らせ自宅へ到着した。ガレージに入りエンジンが切れた瞬間に、マリアはデイビットの手は借りずに車から飛び降り家内へ続く扉を開け放つ。ふわりと香る食事の匂いに表情を緩ませ、源にいるであろう存在へ駆け出した。
「ただいまー!」
階段を駆け上り声を上げれば、アイランドキッチンにて作業をしている母名前が笑顔で出迎える。手元を覗き込むと、小さなプレートに盛り付けられたオムライスにケチャップでマリアが好きな豚を描いている最中だった。名前は絵が得意では無かったがマリアは必ずモチーフを言い当て、味のある温かい母の絵を気に入っていた。
「ぶたさん!」
「おかえり、丁度できたよ。あれ、なんでレオタードのままなの?」
「お茶こぼしちゃったの」
「あ、そうなの。じゃあ洗濯機に入れておいてね。ご飯食べるから着替えと手洗いうがいしておいで」
「ママ、ぶたさんの隣にチューリップも描いてね」
カーディガンを脱ぎながら洗面台へ向かうマリアと入れ替わる様にキッチンにやってきたデイビットは、マリアと同じく名前の手元を覗き込んでから、一瞥した妻の頬に口付けを落とす。名前は唇の触れた頬をさらりと指でなぞり恥じらいを誤魔化すように微笑んで見せた。
「おかえりなさい。お迎えありがとう」
「オレが昼食を作るべきだった。マリアに文句を言われたよ」
「そう?さっきはご機嫌だったけど」
「だろうな、君に迎えに来てもらいたかったそうだ。嫌われたものだ」
「そんな事無いって分かってて言ってるでしょ」
デイビットは吐息だけで笑み、マリアが車内に置き去りにしていったベビーブルーの鞄をカウンターに置いてから自身も洗面台へと向かった。
その後ろ姿を見送った後で、名前はマリアのリクエスト通り卵の面積目いっぱいに描いた豚の端に申し訳程度のチューリップを足し、デイビットと自身の分には何もせずスープと共にテーブルへ並べる。冷蔵庫からサラダを取り出したところで二人がリビングに戻ってきて、サラダとカトラリーの配膳を手伝った。
食事の用意が整って三人が食卓に腰を落ち着ける。デイビットとマリアが横並びに座り、デイビットの向かいに名前が座るのがこの家の定位置だった。マリアは何をするにも母と一緒を望んだが、食事と寝る前の読み聞かせだけは決まってデイビットを指名した。それは母の手を煩わせない為でもあり、違う理由も含んでいる。
賑やかな自分のオムライスを眺めすぐ隣の真っ新なオムライスに目を付けたマリアは、名前からケチャップを受け取り、デイビットの前から否応無く皿を引き寄せ得意気な顔を見せた。
「お父さんの、マリアがかいてあげる。なにかいたか当ててね」
「分かった」
「ママはもうかけちゃったからまた今度かいてあげるね」
「ありがとう」
こういった場合の夫妻はマリアの言いなりだ。娘の挑戦には口を出さない事に決めている。
ケチャップの容器を掴む両手は、その重さに僅かに震え、絞り出された赤はぎこちない線を描いていく。暫く引いては離しを繰り返し、満足げにこくりと頷いたかと思うと、筆を納めてデイビットを向いた。
絵が完成したのだと悟ったデイビットは、やけに芸術的な赤い模様を注視し熟考した。丸みを帯びた何かの周りに棒が数本生えているそれは、お世辞にも上手いと呼べるものでは無かったが、娘の年齢を考えれば致し方ないだろう。デイビットは、下手な答えでは娘の機嫌を損ねるだろうが分からない物は直感で答えるしか無いと何とか絞り出した。
「太陽か?」
「ちがいまーす!」
「降参だ」
「えーはやいよ。もうちょっと考えてよね。ママは?」
「んー…はりねずみ?」
「ちがうよ、2人ともなんでわかんないの」
自身にとっては完璧に描いたであろうそれを両親が出した答えが正解に掠りもしない事に頬を膨らませるマリアに、夫妻は顔を見合わせ困惑した。これ以上の答えを思いつかなかったのだ。
マリアは両親の様子を悟ったか、わざとらしく溜息をついて見せ渋々といった様子で答えを明かした。
「せいかいは、くじゃくです」
「ああ、この棒が羽でこれが顔か」
「それはくちだよ」
二人のやり取りを窺がっていた名前は、説明を受けても良く分からない太陽にも孔雀にも見えない形を暫く眺めた後大人しくオムライスを口に運び始めた夫の姿が何やら愉快でつい笑い声が漏れ出した。よく似た顔が、手料理を頬張って不思議そうに名前を見つめる。
愛にあふれた幸せな日常だ。
名前は昔から、温かい家庭で家を守る妻になりたかった。貞淑で優しい母になりたかった。陰惨な過去に寄り添い傷を癒し、そのどちらの願いも叶えてくれたデイビットを深く愛し感謝している。自身を慕い懐く美しく無垢な愛娘も同じように愛している。金銭的にも何一つ不自由なく不安も不満も無い隅々までが満たされた理想的な家庭だ。
しかし時折彼らのヴァイオレットを覗くと胸騒ぎを覚える。何か大切なことを忘れている時のような焦燥にも似た感覚だ。
母を見つめる天使の薄い唇が、形の良い眉が、全てが母への愛情を語っている。
甘く、丸みを帯びた温かい声が母を呼んでいる。
「ママ」
名前の人生は今、幸せに満ちている。