あやし夜半の星

 前後不覚の圧倒的な闇の中に名前は居た。
 漆黒の中に浮かぶのは浴室のドアだけで、その周囲は夜よりも濃い黒に包まれ何も感知する事はできない。
 そのドアを“浴室のドア”と認識しているのであれば、白い枠のモザイクガラスには清廉な浴室の白が映るはずだった。しかし、名前の眼前には、形を成さない鮮烈な赤とピンクの模様が広がっている。
 ドアの内側から聞こえる水の流れ落ちるくぐもった音は、鉄錆と潮の匂いと共に脱衣所に充満していた。
 不思議と名前は恐れを感じなかった。それどころか、中の惨状を確認しなくてはならないという衝動に駆られていた。
 ひやりとするドアに、伸ばした手をかけた刹那、背後から自分の名を呼ぶ声がした。
 振り返った瞬間に暗闇がすべてを飲み込む。仄かに発光していたドアも消えた漆黒の中、紫色の双眸が鬼火の様に宙に浮いていた。
 単なる紫色の光であったそれを双眸だと直感した理由は分からない。

 レースのカーテンを透過して差し込む日光が、室内を柔らかな乳白色に満たしている。
 微かに香るピローミストの清潔な匂いに瞼を上げた名前は、瞳に映る見慣れた目覚めの光景に、恐怖で警鐘が如く激しく打つ胸を撫で下ろした。
 無垢な白の天井から隣に視線を移せば、デイビットが静かに眠りについている。癖のない艷やかな金髪は光の糸束のように淡く輝き、作り物のように整ったその寝顔は、聖域に佇む天使の様な神々しさがあった。
 壁掛け時計を確認すれば、針は午前六時を指している。休日の朝にしては早い起床だが、目が冴えていた名前に、もう一度横になる気は無い。
 そっとベッドを抜け出し一度振り返ると、デイビットは僅かに身じろぎしたがその眠りは深くまた規則正しく呼吸を始めた。
 静かに扉を押し開き寝室を抜け出せば、廊下にはひんやりとした空気が漂っている。磨かれた階段のステップを音を立てずに降りていくと、リビングに近付くにつれ小さなテレビの音声が耳に届き始めた。
 階下のリビングは全てのカーテンが既に開け放たれており、大きな窓から差し込む陽光が満たす室内には、朝特有の清澄さが満ちていた。
 ソファの上には、小さな背中を丸めて熱心にテレビ画面に見入るマリアの姿があった。サバンナの動物を映した画面と解説のナレーションが入った動画は、録画していたお気に入りの動物番組だろう。
 名前が声をかけると、画面に釘付けだったマリアが、ふと顔を上げた。眠気など微塵も感じさせない溌溂とした笑みを浮かべている。

「おはよう、ママ」

 張りのある高い声が朝の静けさに心地よく響く。薔薇色の頬も、朝の光を吸い込みひと際輝くヴァイオレットの瞳も、母への愛おしさを一切恥じずに直球で伝える素直さも、何もかもが愛らしい子供だ。名前は笑みを返しマリアの柔らかな髪に指を通す。
 カウンターキッチンに向かい朝食の準備を始めると、作業の気配を感じたのかマリアが傍へとやって来た。ぺたぺたと小さな足がフローリングを歩む音すらも愛おしい。
 毎週の休日、マリアは食事の支度を良く手伝った。それはデイビットが食事を用意する場合でも同じであったが、どちらかと言えば名前がキッチンに立っている時の方が意欲的である。
 スイッチを入れたコーヒーメーカーが水音を立て始めると同時に部屋中に香ばしい匂いが立ち込める。名前がベーコンと卵を焼いている最中に、マリアがキッチンの隅から硬そうなバゲットを抱えるようにして持ってきた。そしてお気に入りの小さな踏み台に立ち、引き出しから取り出したブレッドナイフ慎重に手に取った。小さな手でバゲットを抑え、不器用に刃を当てても、切り口からぼろぼろと屑を散らすだけで母のように上手くは切れない。

「ママ、パン切れないよ」
 
 マリアはナイフを持ったまま名前を見上げた。その表情には、何故刃が立たないのか分からないといった疑問と不服が混合している。 悪戦苦闘する娘を察知した名前は、彼女がナイフを手にしているのを認めて火を止め、マリアを驚かせない様に近付いた。
 
「マリア、危ないからママがやるよ」
「一緒にやりたい!」

 期待に満ちた瞳で名前を見上げる。名前は一瞬躊躇したが、マリアの意欲を頭ごなしに否定するのは本意ではない。小さく息をついてから背後に回り、ブレッドナイフを握るマリアの小さな手に自身の手を優しく重ねてバゲットへと導いた。

「パンのナイフはね、押すときに切れるの。だからこうやってゆっくり、まっすぐ力を入れると……」
「ほんとだ……!」
「うん、上手」
 
 歓喜しながら見上げるマリアへ微笑みを返した瞬間、突如視界が大きく揺らぎ、名前の身体と思考は硬直した。
 重ねた手に伝わる温もりとバゲットの香ばしい匂いの中、自分が口にした台詞が耳の奥で反響する。手には無意識に力が籠り、マリアが痛がる声を上げた途端に漸く我に返り慌てて手を離した。

「ごめん、」
「ううん、大丈夫。どうしたの?ママ」

 不思議そうにマリアが顔を覗き込む。その純粋な視線に、名前は慌てて内心の動揺を隠した。まだ心臓が少し速く打っているが、努めて母親の笑顔を取り繕った。
 
「……マリア。前にもこんな事、あったかな」
「こんな事って?」
「マリアの手を取って、パンを切った事」

 記憶の淵を手探りするような戸惑いを隠せない名前の問いかけに、マリアは真剣な表情で宙を見つめ記憶を辿るような仕草を見せた。やがて答えに行き着いた彼女はその長い睫毛を上下させてから首を横に振った。

「ううん、初めてだよ」
「……そう、そうだね」

 確信を持った娘の言葉に、名前は力なく返すのが精一杯だった。自分の記憶の方が曖昧なのだと強引に納得しようとするが、先程の既視感は未だ胸の奥で微かな疼きとして残っている。
 胸を押さえて息を吐き平静を装うとする名前を、マリアは感情を削ぎ落とした空虚な瞳で観察していた。それは母の様子を心配する娘の視線では到底無く、研究対象を観察する科学者のそれに似ていた。
 
「おはよう。なんだ、随分静かだな」

 静寂を破ったのは、知らぬ間にリビングへと降りてきていたデイビットだった。その姿は寸分の隙もなく、既にシンプルなブラックの薄手のセーターとスラックスに身を包み、髪も完璧に整えられている。
 彼は二人を窺いながらも特に言及することは無く、食器棚からカップを二つ取り出してコーヒーを注いだ。
 マリアはきらりと光るナイフを手放し、父の行動を確認した後、何事もなかったかのように軽い足取りで踏み台から降りてデイビットにオレンジジュースを強請る。
 数枚を切り取られたバゲットを前に、放心した様子でデイビットとマリアの様子を眺めていた名前を訝しんだデイビットが問うた。

「名前?このパンは焼くのか?」
「えっ、あ、うん」
「……オレがやる。座っていろ」

 妻を気遣いながらも有無を言わせない響きを持つ声に、名前は小さく頷くことしかできなかった。
 デイビットが用意したコーヒーを手に、力なくダイニングチェアに腰を下ろす。背後では手際よくフライパンを扱い始める音が聞こえ出し、香ばしい匂いが再びキッチンに満ちていく。不思議なことに、彼の落ち着いた気配を感じているうちに、胸の戦慄きが凪いでいくのを感じた。
 マリアもまた、デイビットに注いでもらったオレンジジュースを少しずつ飲みながら、向い側に座る名前の様子を窺っていたが、その瞳には先程の冷酷さは無く純粋に母を心配する娘の眼差しをしていた。
 やがて、完璧に焼き上げられたベーコンエッグとトーストされたバゲットがテーブルに並び、三人の朝食が始まる。
 キッチンカウンターでの出来事など無かったかのように、食卓にはいつも通りの休日の空気が戻っていた。
 名前はマリアと動物番組についての話をしたり、バレエの発表会の演目の話など、話題をころころと変えながら会話を楽しんでいたが、デイビットは珈琲が注がれたマグカップを傾けながら名前の様子を黙って見つめるのみだった。
 
 やがて家族三人での穏やかな朝食が終わり、書斎にてデイビットは自身の研究に没頭していた。
 窓際に背を向けて設えたデスクにて書物を並べ、時折キーボードを打つ音が響く厳かな雰囲気の空間に、マリアはごく自然に存在している。
 父の邪魔にならないよう、部屋の隅に持ち込んだ自分のクッションに座り込み、分厚い一冊の本を眺めていた。
 サンルームに洗濯を干しに向かう途中で、通り掛かった書斎のドアが僅かに開いているのに気が付いた名前は、中の気配に惹かれるように名前は中の様子を覗き見る。
 父と娘はそれぞれの世界に深く没頭しており一切の会話はなく、その静寂には神聖さがあった。
 マリアが熱心に追うのは“例の古書”だった。“例の古書”とはデイビットが書斎の奥深くにある鍵付きの保管している年代不詳の書物であり、彼曰く最重要研究対象らしい。
 考古学者である彼の研究対象という事は、何らかの歴史的価値のある遺物という事だ。その様な重要な品を何故マリアが自由に手に出来るのか、何故デイビットが許しているのか、名前には理解が及ばない。
 “例の本”の表紙に文字は無く、ただ金のインクで描かれた緻密で複雑な幾何学模様が、見る角度によって妖しく光っていた。それは整然とした美しさを持ち、見ているだけで不安を掻き立てる不思議な力を持つ模様だった。
 マリアは重厚な本を慣れた手つきで膝の上に広げ、小さな指でページを辿っている。名前もドアの隙間から、娘が見つめるページを凝視する。
 そこに描かれているのは、子供の読書とは到底思えない、難解な図形や数式の連なりだった。高等数学のようでもあり、図式のようでもある頁の雰囲気は、人間の感情や常識といったものは一切感じられず温かみが感じられない。しかしマリアはまるで絵本でも読むかのように食い入るようにその難解なページを見つめ、時折小さな指で図形の中の特定の線や数式の繋がりを辿っていく。その表情は真剣そのもので、子供らしい無邪気さはどこにもなく、記されている内容を完全に解き明かしているかのように迷いなく。時折、マリアがふと顔を上げ、何かを確かめるようにデスクの父を一瞥することがある。デイビットは資料から視線を上げずに、小さく頷いたり微かに口角を上げたりするだけだが、二人の間には名前の窺い知ることのできない、言葉を超えた意思の疎通が存在しているように見えた。
 以前名前が“例の本”の内容を尋ねた時の、マリアの答えが脳裏に蘇る。
 あの時のマリアは、名前の問いかけに対し僅かに間を置いてから答えた。
 
「見てるとね、頭の中がね、こう……パチパチってなって、スッキリする感じがして見ていると気持ちがいいの。綺麗な線がいっぱいあるでしょ?」
 
 当時の名前は、内容は理解せずとも子供らしい独特な感性で何か惹かれるものがあるのだろうと、それ以上深くは追求しなかった。しかし問うた切っ掛けである、図形の脇にびっしりと書き込まれた古代の特殊な記号か言語のような注釈を指で追いながら小さな声で紡いでいた不可解な呟きを思い出し、名前の胸には言い様の無い不安が過った。あの声には子供らしい響きとはかけ離れた、何かを確信したような響きがあったからだ。
 デイビットとマリアの間には、自分には計り知れない特別な世界があるのだろうし、彼女はデイビットに似て博識で、理解力も高く賢明であると理解はしていた。ただもう少しだけ、子供らしい時間を過ごしてほしいという母親としての細やかな思いもある。娘が熱中しているアレは一体何であるのか、夫はそれをどう見守っているのか、疑念は残るが、静かな書斎の空気を壊さないようにそっとドアを閉めた。

 
 柔らかな間接照明が、寝室を橙色に染めている。窓の外の街並みは夜に沈み、家々の光も減りつつある。僅かに残った灯りや音は厚手の遮光カーテンに遮断され、室内には名前とデイビットが出す生活音のみが響いていた。
 先にベッドへ入っていたデイビットは枕に背を預け、ハードカバーの本を開いている。その傍らに腰を下ろして端末を弄っているふりをしていた名前は、昼間の書斎での出来事を思い出していた。
 細やかな躊躇いが言葉を唇の手前で堰き止める。未だ確信が持てず、杞憂に収まる段階の悩みを、隣で静かにページを繰る夫に話すべきなのだろうか。
 彼を前にすると小さな胸のつかえを打ち明けたいという気持ちが、花々の蕾のように膨らんでいく。
 意を決して小さく呼びかける声は、夜の静けさに吸い込まれるように微かだった。
 デイビットは読んでいた本からゆっくりと顔を上げ、穏やかな視線を名前へ向ける。ヴァイオレットの瞳は室内の淡い光を受け、深い湖面のように静かに揺らめいていた。

「マリアは……今日も、書斎で古い本を読んでいたみたいだけど」
「ああ、熱心だっただろう」

 デイビットはごく自然に柔和な笑みを見せた。その笑みには、自身の書斎で時間を共にする娘の姿を思い返して慈しむ穏やかさがある。彼にとっては、“例の本”をマリアが手に取るというのは取り立てて問題視する事もない日常に過ぎないのだろう。
 予想し得なかったその反応に、名前は戸惑いを露わにした。

「あの子に触らせていい物なの?内容も理解して読んでるのか……前に聞いたら抽象的な感想しか出なかったし、何か、少し心配で」

 慎重に言葉を選びながらも、自分の声が不安に震え語気が失われていくが分かった。端末を握り込んだ指先が酷く冷えている。そこに柔らかな体温を齎したのは、デイビットの大きな掌だった。愛おしそうに緩慢と彼女の手を擦る表情は優しく、名前の不安を溶かすようだった。

「名前。あの子の知的好奇心と探求心には目を見張る物がある。それにあの古書は古代の知恵、宇宙や人間の法則を研究した記録だ。君が思うような歴史的価値の在る重要遺物ではないし、何よりそう怪しいものでもない」
「でも、」

 デイビットは名前を静止する様に、眺めていた本をサイドテーブルに置き彼女のすぐ傍に身を寄せた。薄い夜着越しに彼の体温が滲む。真摯な眼差しで、彼女の瞳を覗き込むのは宵の空を溶かした様な神秘の輝きだった。この瞳を見つめていると、名前は自身の憂いの些末さに我に返ってしまう。

「マリアは君に似て聡明だ。成長の早い子供が他とは違うものに惹かれるのは正常だろう。あの子があの古書に興味を持ったのはオレの職業が原因で、偶々この家にあれがあったからだ。それ以上の理由はない」
「……あの子はあなたに似てる。貴方が考古学に惹かれるように、あの子もオカルトチックな趣味に没頭したらと思うと不安」
「不安になる必要はない。あの子は自分で考え、選択し行動する事が出来るだろう。ヘロディアの娘とは違う」
「ヘロディアの娘?」
「そうか、サロメの話をしたのはマリアだったな。……無理に取り上げるより、彼女の世界を尊重してやろう。オレ達があの子を見守っていれば、道を踏み外したりはしない」

 重ねた掌を引き寄せ、抱えた不安ごと受容する暖かい抱擁に、名前はこの上ない安堵を覚え彼の広い胸へと顔をうずめた。規則正しい心臓の鼓動と微かなボディソープの香り。この場所は彼女にとって何よりの安寧だ。
 その熱に身を委ねながらも、心の奥底はさざ波のような騒めきが消えずに残っている。彼の言葉はいつも論理的で説得力があったが、その完璧すぎる理屈の中に何か大きなものが隠されていて、名前は「自分は彼に丸め込まれているだけなのでは無いか」と錯覚する事があった。
 夜は静かに更けていく。壊れ物を扱う様な丁重な手付きで髪を撫でられ、その心地よさにゆっくりと瞼を下ろした。
 視界の端から迫る闇の中で彼女の白く小さな耳殻を擽る繊細な囁きは、風鳴りにも、祈りにも似ていた。