そして少女は森へ
私と春千夜は二十一年前の桜散る晩春に出会った。今思えばこの出会いは人生が狂い始めたきっかけだったのだ。
あの時私が泣かなければ。あの時私が手を取らなければ。
悔いても遅いのは理解している。けれどそう思わずにはいられない。
輝かしいはずだった未来が壊れ始めたあの春を私は一生忘れないだろう。
四歳の頃、父の転勤の為生まれてから長らく過ごした東北のある町を離れ東京へと越してきた。
田舎で生まれ育った私の眼には東京の全てが新鮮で洗練されたものに見え、母と買い物に出ただけで彼方此方に興味が移りその度に質問責めにしていたのを覚えている。
事あるごとに足を止める娘に一日中引っ張り回され酷く苦労したと後に母は笑いながら語った。
そんな日々も私が幼稚園へ編入した事により落ち着く事となる。
母に手を引かれ、初めての制服に着られながら未知の場へと足を踏み入れたのは桜が舞い落ちる晩春の候。
春風が糊の効いたスカートを持ち上げ春の香りが鼻をくすぐる中、私は新たな出会いに胸を膨らませていた。
そこからの記憶は曖昧で、母が居なくなり幼稚園の先生に連れられて皆の前で自己紹介をしたような気がする。
新しく友達が出来て数週間程は楽しく生活していたのだが、ほんの下らない理由で除け者にされ始めた。
例えば、グループの女の子たちが熱を上げている女児アニメの最新話を見ていなかったり、そのアニメのキャラクターが付けている髪飾りを模倣したヘアゴムをお揃いで買ってもらわなかったり。
大人から見れば本当に下らない理由だが、彼女達から見れば私のそれは友人の和を乱す行為だったのだろう。
鬼ごっこに入れてくれなくなったり、アニメのごっこ遊びに混ぜてもらえなかったり様々な嫌がらせが続いたがまだその位なら「寂しい」程度で済んでいた。
ある日、通園バスを降りて園庭を歩いていると私のズック袋と同じ物が砂埃に塗れて放置されていた。自分の物と同じ柄だったし、落としてしまった子がいるなら先生に届けなくてはという使命感が働きそれを手にとって払いて見れば私の名前が書いてある。
目を疑った。こんな所に落ちているはずがないのだ。昨日の帰りに園帽を取った時には衣紋掛けにきちんとこれが下がっているのを見たのだから。
頭が真っ白になってふと顔を上げれば、廊下の窓からにやにやと意地の悪い笑みを浮かべる嘗て友達だったあの子達がいた。
幼い私でもあの子達が悪意を持ってやった事なのだと理解でき、同時に母が作ってくれた物を粗末に扱われた事に対する憎悪が腹の底で燃え上がる。
溢れる涙を拭っても拭った側から頬が濡れ、制服の袖の色が濃くなっていく。何度も何度も拭っていると、しとどに濡れた腕が真横に引かれて空を切った。
驚いて顔を上げれば、そこには私とさして変わらない身長の男の子が立っていて私の腕を掴んだままじっとこちらを凝視していた。
「な、なに」
「そんなに擦ると赤くなるよ。ていうか赤くなってる」
酷く美しい子だった。
色素の薄い髪の毛がはらはらと風に揺れ、翡翠色の瞳も相まって春の妖精の様だ。
そんな彼の容姿に見惚れていたのも束の間で、泣き顔を見られるのは幼心にも恥を感じ、掴む手を振り払って顔をついと背ける。しかし心配してくれた人を残して逃げ出すのはいけない気がしてその場に留まっていると、名前も知らない彼が私の耳元まで口を寄せて囁いた。
「ふくしゅう、してあげよっか」
「…え?」
「それ、アイツらにやられたんだろ?オレが代わりにふくしゅうしてやるよ」
「ふくしゅうって何?」
「仕返し」
正直、酷い事をされたからと言ってやり返すのは母の教えに反していたので気が進まなかつまた。しかし、だからといって何もしないでは気が収まらない。
未発達の脳味噌で悩んで悩んで出た答えは、後で怒られても全部この男の子のせいにしてしまえばいいという悪知恵であった。
顔を持ち上げ彼を見れば、答えを悟った彼は朗らかに笑い手を差し出す。
「オレ、三途春千夜」
「…名字名前。ねえ、ふくしゅうって何するの?あの子達のズック袋捨てちゃうとか?」
「あははッ!そんなつまんねぇ事しないし!良いからオレに任せてよ」
私は眩しい笑顔を残し何事も無かったかのように園舎へと入っていく春千夜の背をただ眺める事しか出来なかった。
一体彼はどんなふくしゅうを企てているのかと心を踊らせて待っては見たが、待てども彼女達が酷い目にあった様子は無くいつも通りに一日中過ぎて行った。
揶揄われただけなのだろうかと不貞腐れて家に帰ったその日の夜。我が家に一本の電話が入った。電話を取ったのは食器の後片付けをしていた母で、通話が終わるなり神妙な顔つきで私のそばに寄った顔と思えば無理な笑顔を作って「明日は幼稚園おやすみになったからお母さんとお家にいようね」と言ったのだ。
理由を尋ねても、母は作り笑いで「先生が風邪ひいちゃったんだって」と明らかな嘘をつくばかり。
何があったのか分からないまま、次に登園したのは三日後の朝だった。
「名前ちゃん、ゆーちゃん達と仲良しでしょ?」
久しぶりの教室でいの一番に話しかけてきたのはそれ程仲良くも無かった女の子で、確か名前はりーちゃんだったかみーちゃんだったか。彼女がいうゆーちゃん達とは私のズック袋を園庭に捨てて笑っていたあの子達の事である。
仲良しかと言われれば仲良しだったのは初めの数週間だけだったので肯定できずに答えあぐねていれば痺れを切らせたりーちゃん(みーちゃん)は「ゆーちゃん達大丈夫?」と、さして心配もしていなさそうな顔で言うではないか。
「大丈夫って…ゆーちゃん達どうかしたの?」
「え!?名前ちゃん知らないの?」
「ゆーちゃん達に聞けばいいじゃん。まだ来てないの?」
「ゆーちゃん達、公園でおじさんのふしんしゃに襲われて入院してるんだよ!幼稚園おやすみになったのもふしんしゃが捕まってなかったからだよ!」
声を大きくして話す彼女は、きっと自分が得た情報を披露するターゲットを探していたのだろう。その証拠に瞳には恐怖や不安が微塵も見られず、非日常に対する期待と興奮で輝いている。そして持ち得た物の他に情報を聞き出せないかと、そのターゲットに私を選んだのだ。
何も知らなかったと言えば彼女は「ふーん。そっか」とだけ残して仲良しグループの輪に戻っていった。
ふしんしゃは恐ろしいがあの子達が居ない生活は穏やかだった。ゆーちゃん達の目が無いので他の子達も私を遊びに誘ってくれたし、何よりこそこそと陰口を言われているのでは無いかという居心地の悪さを感じずに済む。
ゆーちゃん達とうまくいかなくなり始めてからたった数週間しか経っていないのに、長い間耐えてきた様な錯覚をしていた。
幼い私にはその位苦痛だったのだ。
給食の後の休み時間に園庭でかくれんぼをする事になり、私は物置の裏で息を潜めていた。各々遊ぶ園児達のはしゃぐ声を掻き消す様に木々が頭上でざわめいている。
「さっちゃんみーっけ!」
「もー、はやいよ!」
どうやらさっちゃんが見つかったらしい。しかしそのやりとりは遠くの方から聞こえてきたのでここがばれるのはまだ先だろう。
じっとしているのに飽き出した頃、ふと足元に視線を落とせば蟻が何かを運んでいるのが目についた。
よく見ればそれは小さな幼虫であり、自分の体の三倍はあるであろうそれをせっせと巣穴まで引き摺っている。
以前図鑑で読んだ事がある。蟻の中には働き蟻と女王蟻がいて、働き蟻は母であり主君である女王蟻の為に働き続けるのだそうだ。
つまりこの幼虫も女王蟻の元へ献上される貢物という訳だ。重い獲物を一生懸命運んでも独り占め出来る訳では無くて、理由も分からないまま自分以外の個体の為に働く蟻のなんと哀れな事だろう。
指先が黒と白の点に触れる。地面と皮膚の間にころころとした異物が挟まって、終いにはぷつりという感覚を残して平らになる。指先を回転させて圧をかけ持ち上げれば、そこには砂と体液に汚れて団子の様になった幼虫と蟻の混ぜ物があった。
「わーりィんだ、わーりィんだ」
耳元で聞こえた声に身体が跳ね上がり勢いよく振り返ると、意地悪な笑顔を浮かべた春千夜の顔が間近に迫っていた。
春千夜は、振り返ると同時に体制を崩して尻餅をついた私に手を差し出して引っ張り上げスカートのお尻のあたりについたであろう砂埃を払ってくれた。
「蟻殺してたでしょ」
「…うん。先生には言わないでね」
「言わない。…そんな事よりどうだった?」
「どうだったって?」
「もう忘れたの?オレにふくしゅう頼んだだろ」
「あ、そうだった。でも春千夜君ふくしゅうしてくれなかったじゃん。私楽しみにしてたのに」
「は?ちゃんとやったよ。誰かから聞いてないの?」
不機嫌な顔で声を低くした彼の台詞にこの三日間を思い返しては見たが、ふくしゅうの話など誰からも聞いていないしそもそもふくしゅうの話が彼以外の口から私の耳に届くのはふくしゅう計画が漏れていると言う事なので非常に不味い。幾ら考えても答えが出なかったので、なんだか私も不機嫌になってきた。
「分かんないよ。どんなふくしゅうしたの?」
「名前ちゃんがオレにふくしゅうしてって頼んだ日の夕方に」
「うん」
「公園で遊んでたアイツらをボコボコにしてやった」
「…え?」
「だぁかぁらぁ!アイツらぶん殴って暫く幼稚園来られない様にしてやったの!」
「…うそだぁ。ゆーちゃん達はふしんしゃに襲われて入院してるんだもん」
「そのふしんしゃがオレなの」
「おじさんだったって言ってたよ」
「そうやって言わないとまた同じ目に合わせるってオレがアイツらに言ったからだよ。多分鼻と腕の骨折れてるから二ヶ月位は来られないんじゃないかな。…ね、安心して。もういじめられないよ」
嬉しい?と、飼い主に褒められる事を翹望する犬の様に此方を覗き込む彼を私は疑っていた。
きっと私と同じ様に誰かから噂を聞いて、自分がやったと言える様にほんの僅かな脚色をして嘯いているのだろうと。
「あ、名前ちゃんみっけ!…と春千夜君もみっけ…?」
私を探しにきた鬼の子が春千夜を見て「かくれんぼしてたっけ?」と言う疑問を孕んだ不安そうな声を上げる。
彼も彼で「あーあ見つかっちゃった」なんて言うものだからその子はさらに混乱して足早にその場を去ってしまった。
鬼の子が消えていった方向を眺めていると取り残された私の真横に春千夜が立ち、背に手が添えられる。私も一緒に走って逃げれば良かったと後悔した。
「で?すっきりした?」
「…うん。ありがとう」
「喜んでくれてよかった!」
春千夜の言う通り二ヶ月程経った頃にゆーちゃん達が幼稚園に来た。皆彼女達を取り囲んで媚びる様に口々に安否を気遣う。
ゆーちゃん達はにこにこしていたけど、少し離れたところで輪を眺めていた私に気付くなり表情を強張らせ何かに怯えている顔をしてトイレに逃げていってしまった。
それを見た皆はびっくりしてまた「大丈夫?」と彼女達を心配してトイレまで追いかけて行ったが私だけはゆーちゃん達と同じ顔をしていたと思う。
彼女達が私を見て怯えると言う事は春千夜の言葉が真実だったという裏付けになるからだ。
「名前ちゃーん」
私以外の女の子が皆居なくなった教室にあの男の声が響く。
見れば、教室の入り口に鞄も園帽も身につけたままの春千夜が立っていて私に向かって手招きをしていた。
教室に残っていた男の子達が私を見ていたので無視するわけにもいかず、気は進まなかったが重い足を引き摺って彼の元へと寄った。
「おはよう!」
「お、はよ。ねえ、あれ本当だったの…?」
「ふくしゅうの事?なーんだ、やっぱり疑ってたんだ。酷いなぁ」
彼は非道な行いの影など噯に出さず、この上なく晴れやかな顔を見せている。
「そのお礼にオレも名前ちゃんにお願いがあるんだけど」
窓から吹き込む風の音に掻き消えそうな静かな声だったが、私の耳には嫌にはっきりと聞こえた。
腹の底の見えない男が私に一体何を要求するのか全く予想が付かない。
そんな憂慮を他所に春千夜は、強く握り込み重力に従ってだらりと下がった私の汗ばむ拳を柔い掌で包み、思いがけない言葉を吐いた。
「オレと友達になってよ」
柔和な笑みを浮かべる春千夜は、第一印象と変わらず幸福を齎す春の妖精の様だ。
同じ年頃の女の子に大怪我を負わせて平然としているこの男はどう考えても異常だが、それを自分の為ではなく他でもない私の為に行ったというのは気分が良い。その見返りも然り。
手綱をしっかり握ってさえいれば彼は有能な働き蟻になる、という我ながら幼児とは思えない酷く狡猾で打算的な理由で私はその要求を飲んだのだ。
それ以降はゆーちゃん達による不快な嫌がらせは一切止み、春千夜も特に問題は起こさず平穏な幼稚園生活を謳歌した後に私達は卒園を迎え小学生になった。
春千夜も同じ学校ではあったがクラスは別。しかし疎遠になる事もなく幼稚園の頃と変わらず彼は私に構い、番犬の様に側にくっついてまわった。
低学年、中学年と穏やかに過ぎていき、このまま何もなく小学校も卒業出来ると思い込んでいた五年生の夏に事件が起こる。