少女のための優しいお芝居
下校途中突然に降り出した神立から逃れる様に転がり込んだファストフード店にて。
雨に打たれ濡れた頭にタオルを載せた春千夜が零した言葉に、ペンを握る手がぴたりと止まった。
雨が止むまでここから離れられないのであればと宿題に伏せていた顔を上げれば、何処とも無しにぼんやりと窓の外を眺めながら私が注文したポテトを摘む彼は視線を此方に寄越したっぷりと睫毛の乗った瞼を伏せ一つ瞬きをして見せる。
「東卍ってあの東京卍會?前は“群れてしか暴れられねェ雑魚”って言ってたのに」
「この間駅裏でテキトーな奴ボコってたら丁度マイキーが通りかって声かけられたんだよ。憂さ晴らしの相手適当に探し回るより東卍の旗に群がってくるやつボコった方が効率良くねェ?」
「へえ。素直に言う事聞くなんて珍しいじゃん。本当は?」
「声掛けられて殴り掛かったら逆にボコられた」
「だろうね」
店内は私達と同じく雨の手から逃れた者達でごった返しており、それらの喧騒に紛れる私達の会話は他にはきっと聞こえていない。
東京卍會はこの辺りでは名の知れた暴走族だ。以前より血の気が多く喧嘩っ早い春千夜は東京卍會に主に悪い方に興味を持っており、遅かれ早かれ何かしらの接触はあるだろうと思っていたが、まさか総長のマイキーと接触しあれ程蔑んでいた族に即決で加入するとは予想外だった。
私としては兼ねてから春千夜が年少送りになるような事件を起こしかねないと危惧していたので、チームに所属する事で秩序と自制を覚えるならば良い事でしかなく特に異論はない。
ここ数年の春千夜の行動は目に余る物がある。無差別に喧嘩をふっかけては相手が降参しようとも気が済むまで拳を振るう姿は異常者其の物であり、いつも何かに怒っていて箍が外れた様に暴れまわり、それは周囲の人間が皆地に伏せるまで止まらない。
私ではそうなった彼を止める事が出来ないし、それ以前に「入ろうと思う」とは言いつつも彼の中では東卍への加入はもう決定事項なのだ。私がここで「やめた方がいい」と言ったところで意思を曲げたりはしないだろうし、それを言って二人の間に余計な不和が生まれるのは避けたい。
春千夜には私を信用し続けてもらわなくてはいけないのだから。
「そうしたいならそうすれば。私は止めないよ」
「薄情じゃん。普通心配すんだろ」
「今更でしょ。口の傷だってどこで付けてきたのか言わないし、私が何言ったって聞かないじゃん。それに春千夜が喧嘩で負けたとこ見た事ないしもう口出さない事にしたの。…まあ無敵のマイキーには敵わなかったみたいだけど」
態と嫌味臭く言ってやれば春千夜はあからさまに不機嫌な顔を見せ、私の手からポテトの赤い容器をふんだくって大口を開け残りを全て流し込みコーラと共に飲み下した。
直後、強烈な稲光と共に鳴った轟音に肩が跳ねたのを笑った彼の顔があまりにも憎たらしかったので、テーブルの下に伸びる長い足の脛をローファーで思い切り蹴飛ばしてやった。
私の思惑とは裏腹に彼は東卍に所属しても暫くは今まで通り好き勝手暴れ回っている様で、怪我が絶えなかった。何やらマイキー以外の言う事は一切聞かず問題ばかり起こしているらしい。
彼が嬉々として、時に憤りながら話す喧嘩のきっかけは、やれ「シマに入ってきたから」や「東卍ナメてる奴がいた」など独りの時とはまた違った物であったが、何方にせよ私からしたら下らない内容であり彼に相槌を打ちながらマイキーのカリスマ性への疑念を抱いた。
しかしその疑念は杞憂であったと知る事となる。
彼のマイキーへの忠誠は日に日に強くなり、今や心酔の域に達していた。
暫くして彼の口からは“隊長”なる人物の名も頻繁に出てくる様になった。顔を合わせれば毎日毎日東卍の話ばかり。
それはもう、うんざりする程に。
春千夜は私の予想以上に東卍にのめり込んでいった。
周りに影響されてなのか、いつの間にか四つもピアスを開けていたし無免許なのにバイクに乗る様になった。そして極め付けは見目良い顔の半分を黒いマスクで隠し始めた。
何でも傷のせいで人相が悪く見え余計な喧嘩を売られない様にと隊長がくれたのだという。
たかがマスクであるが、私には装飾が酷く憎らしく煩わしい。彼を見る度にその変化に独り取り残されている感覚になった。
私への依存よりもマイキーや隊長とやらへの忠誠が厚くなってしまうと都合が悪いのだが今更東卍を抜けろ等と言ってしまえば私に対する不信感を抱かせる事になる。
謂わば状況はどん詰まりだ。
「成ァる程な。最近忙しくて全然構ってやってねーから拗ねてんだろ」
春千夜が私の部屋に行きたいというので連れてきたが、やはり話す事といえば東卍の事ばかりで私は相槌を打ちながら辟易していた。
しかし今日は東卍の話をし出すと反応が悪くなる私に気が付いたのか、何故か得意気な顔で先程の見解を提示したのだ。
それはてんで見当違いで私の機嫌を更に損ねるには丁度良いものだった。
何故、私が拗ねると思うのだろう。
学校ではあまり関わらない様にしている。(とはいえ毎日彼が教室に迎えに来るから交友があることは知れてしまっているだろうが)それは私が彼の弱みにならない為だ。
別に春千夜にそう言われた訳では無いが、私にとって最良の結果を齎す“手段”である彼の足枷は少ない方が良いに決まっているし、私も彼に恨みを抱いている人間に逆恨みされたくは無かったから、そうするのは自然な事だった。
彼は不良、私は善良な一般生徒として別々の世界で生きている。其々に築いた人間関係があり、その世界の人間と仲良くするのは当然の事なのに、如何して其れに私が拗ねる必要があるというのか。
「一番かっけーのはマイキー、一番尊敬してんのは隊長。で、一番可愛いのは名前ちゃん。三人とも別ジャンルで一番なんだから文句無ェだろ」
「…もしかして喧嘩売ってる?」
「何?やんの?言っとくけど名前ちゃんなんて小指で倒せっから」
「うざ。そんなに言うなら小指出しなよ。倒される前に折ってやる」
「こわーい」
頬に手を当てて首を傾げ小馬鹿にする彼をひと睨みしてグラスを煽れば、表面を流れた結露が剥き出しの太腿にぽたりと溢れひくりと身体が跳ねた。それを見て春千夜がまた笑うものだからまた腹立たしい。
スカートのポケットから携帯を取り出し春千夜に背を向けて友人からのメールに返信を始めるとキレたという意思表示が通じたのか焦った様子で私の側に寄り、後ろから長い腕の中に私を閉じ込める。
中学に上がっても近過ぎる距離感は変わらないらしい。
高い鼻の先を耳に触れさせる際に時折掠める吐息がこそばゆく鬱陶しいので身を捩って逃げ出そうとしても彼の力が存外強くそれは叶わなかった。
「な、オレの話はもう良いだろ。名前ちゃんは?普段何してんの?」
「は?あんたと違ってちゃんと学校行ってるけど」
「いや、いっつも何の話してんのって事。つかオレも学校行ってっから」
「んー、部活の話とか恋バナとかかな。雑談ばっかりしてるよ」
「くだんねェ…」
「まあね。でも楽しいよ。試しに恋バナしてみる?」
「それで名前ちゃんの機嫌なおんなら」
春千夜はどうあっても私がマイキーや隊長に嫉妬している事にしたいようだ。
もう訂正するのも面倒だし訂正したところで堂々巡りなのも読めていたので、静かに深く息を吐き液晶に視線を落としたまま普段友人とする様な下らない話題を振ってみる。
「春千夜は好きな子いんの?」
「オレが好きなのは名前ちゃん」
「きも。そう言うの良いから」
「あ?じゃあ名前ちゃんは好きな奴いンのかよ」
「…ん」
春千夜は私が“好きな人なんていない”か自分と同じく巫山戯て“春千夜”と答えると思っていたのだろう。どっちともつかないはぐらかす様な返答を聞いた瞬間に肩に乗せていた頭を持ち上げ、僅かに見える私を眺め見る彼の視線が横顔に刺さった。
「は?誰?」
「春千夜と同じクラスの鹿野君」
「…誰だよ」
「クラスメイトなんだから名前くらいわかるでしょ。サッカー部の」
「知らね。クラスの奴とか興味ねーし」
「あそ。じゃあ恋バナ終わりね」
あまり展開しなかったくだらない会話を切り上げ、私はまた携帯のキーを押して文章を作る。
メールの相手である友人は今彼氏とクレープを食べているらしい。
春千夜は私から離れ少し離れたところに座り直し、汗をかいたグラスを持ち上げ中身のジュースを一気に煽る。
「なんでそいつの事好きなの?」
静寂に包まれた室内に春千夜の低い声が響く。
存外食いついて来た事に苦笑しながらもそれを悟られない様に平静を装い淡々と答えた。
「かっこいいから」
「顔かよ」
「顔は春千夜の方がかっこいいと思う」
「じゃあなんで」
「優しいの。話すの上手だし、ああいう人と付き合えたら幸せだろうなって」
彼はそれ以上何も聞かず私も何も答えない。無言のまま時間が過ぎて行ったが彼は取った距離を保ったまま何をするでもなくただその場に座り込み、私の母が帰宅するまで帰ろうとはしなかった。
「絶対名前の事好きだって!」
放課後、部活へ行く準備をしていた私の元に寄って来た友人が、教室の入り口にいる人物を見て興奮気味に叫ぶ。
彼女の言い分では教室の入り口にいる彼、鹿野君は特に用もないのに頻繁にこのクラスに来てはサッカー部の友人を呼び出して他愛もない会話をして行く。そしてその会話の最中に私の事をちらちらと横目に眺め見ているのだそうだ。
「その妄想聞くの10回目なんだけど。鹿野君にも私にも失礼だからほんとやめて」
「妄想じゃないから!鹿野君も名前も照れてないで早く告れば良いのに。ほら、また見てる」
彼女がついと指先を動かすから吊られて其方に視線を移せば、確かに鹿野君が此方を見ていたが目が合った瞬間に勢いよく逸らされてしまった。
「逸らされたんだけど」
「照れたんでしょ」
「私、貴女の常にプラス思考な所とっても尊敬する」
「馬鹿にしてんの?」
恋愛に強く憧れる彼女は恋の匂いがすれば自分の事でなくても見境なく首を突っ込み姦しく騒ぎ立てるのだが、単なる戯言だと理解しつつも私が鹿野君の事が好きなのは事実なので彼も私に好意を抱いているといった話をされるのは気分が良かった。
しかも彼女の言う事はあながち出鱈目でもなくて、今まで合同体育や部活中に窓の外を見下ろしてグラウンドでサッカーに励む彼を見るくらいであったのに、最近は彼が頻繁に教室に来る事もあり彼の姿を見る頻度も高くなりその上良く目が合う。
加えて両思いを仄めかす友人もいるのだから私まで勘違いしてしまいそうだった。
「良かったら、俺と付き合って下さい」
勘違いが真実になったのはあれからそう日も経たない激しい夕立の日だった。
同じクラスのサッカー部の男子に「悪ぃんだけど、今日の放課後視聴覚に行ってみてくんない?」と不可解な頼み事をされ、訝しみながらもその男子が悪い子では無い事は分かっていたので言う通りに視聴覚室へ足を運んだ。
ここは去年から鍵が壊れていて取手に手を掛ければ入り口の引き戸は容易に滑り、廊下には雨音と滑車の軽い音だけが響く。
整然と並べられた机達の中に居た人影は薄暗い教室内の窓辺で、曇天から差す仄かな灰色の光に照らされながら立っていた。
「鹿野君?」
戸が開いた音で誰かが入って来たと気付いても良さそうなものだが、私が声を掛けると鹿野君は大袈裟に身体を跳ね勢いよく私に向き直りぎこちなく笑ってみせた。
「鹿野君も佐藤君に呼ばれたの?」
「い、いや。俺が佐藤に名字さんを呼んでくれって頼んだんだ」
「…そうなの」
この状況、彼の様子を見れば呼び出された理由など分かりきっていたが、私はわざと何にも気付かない振りをする。
あからさまに喜んだり驚いたりといったリアクションを取るのは、私が彼に好意を持っていると知られてしまいそうで“ダサい”気がしたからだ。
薄い反応を見た彼は私の予想通り窓から離れ、不安気に近寄ってくる。
その表情は固く酷く緊張している様子で、浅くつく呼吸音が彼の焦燥を感じさせた。
ややあって、向き合う彼が唇を震わせながら紡いだ台詞は正しく私が望んでいたものだった。
彼との交際を始めた頃から春千夜は私を迎えに来なくなった。メールや通話はするけれど学校や放課後に会う機会はめっきり減り彼が学校に来ているのかすらも分からない程で、校内で偶然見かける事さえ無くなった。
今思えば春千夜は意図的に私を避けていたのだろう。
とはいえ春千夜が居なくても私の生活は変わらず。いや、変わらないどころか人生で一番と言っても過言では無い程に毎日が充実していた。
学年で一番人気のある男の子の彼女というステータスもあるが、何より彼は優しかった。朝は家に迎えに来て一緒に登校し、放課後に部活のある日は私の部室まで来て部活が終わるのを待ってくれる。部活のない日や休日はほぼ毎日遊びに連れて行ってくれたりと、少女漫画やケータイ小説の世界の様な甘い毎日で、何方とも無く繋いだ手も、階段の下で人目を忍んで重ねた唇も、何もかもが輝いていた。
しかしその幸せも、半年程度しか続かなかった。
彼の態度が変わってしまったのだ。
人目の多い場所では以前通りの優しい彼なのに、私がメールをしても返信は無く、迎えに来たりデートをする事さえしなくなった。
上手くいっていただけに覚えの無い拒絶に傷付き、彼を思って何度涙を流したか分からない。
友人に相談したかったが彼女も彼氏と破局したばかりであり、とても話せる状態ではなかった。
そんな中、ふと春千夜の存在を思い出す。そしてある策を思いついてしまった。
それは彼に相談しようとか慰めてもらおうなんていう可愛らしくてずるい中学生らしい考えではなく、春千夜を使って関係を修復するというなんとも悪辣で最低な手だった。
どんなシナリオが良いだろうか。春千夜の“友達”に彼を襲わせて、命の次に大切な足を奪ってしまおうか。サッカーが出来なくなって絶望する彼を慰めれば、また私を愛してくれるだろうか。なんて画策しながら春千夜の教室に向かったが彼の姿はなく、教室に残っていた女生徒に聞いてみると「学校には来てたけどさっきどっか行っちゃったよ」と言う。
席には春千夜の財布が無用心に置かれている(春千夜の財布から金を抜く命知らずはいないと思うが)のでまだ帰ってはいないのだろう。ついでに鹿野君も居なかったので此処に用はない。
ふらふらと春千夜を探して校舎内を歩き回るも一向に彼の姿は見当たらなかった。今日はテスト前なので全部活動が停止となっているので、運動部の掛け声も吹部の合奏も聞こえず校内は水を打ったように静かだった。上履きのゴムがリノリウムに擦れる嫌な音だけが鳴り響く。
いつまでも見つからない春千夜に嫌気がさして「もう電話でもいいか」と携帯を開いた瞬間、引き戸を思い切り開けた様な激しい打撃音が聞こえ危うく携帯を取り落としそうになった。
音は私が今立っている場所の真上、屋上へ続く階段の最上から聞こえて来た。
もしかしたら春千夜が屋上で喧嘩しているのかもしれない。
携帯をポケットに仕舞ってからなるべく音を立てない様に慎重に足を運び、屋上の入り口であるアルミ製の扉の前でそっと聞き耳を立ててみる。
「言ったよな、上手くやれって。何泣かしてんだよ。呼び出し無ェからってダレてんじゃねェぞ」
やはり屋上に居るのは春千夜の様だ。しかし喧嘩しているにしてはやけに静かな声音をしている。以前私と歩いている時に絡んできた不良を伸した時はゲラゲラと笑いながら半殺しにしていたと言うのに。
それにこの学校には春千夜に喧嘩を売る様な無謀な人間は居ない筈だ。
一体彼は誰と話しているのだろう。
「名前ちゃんはテメーと“恋人ごっこ”がしてェんだよ。手ェ繋いで帰って休みの日はデートして、お互いが好き合ってるって設定を守るだけの簡単なオシゴトだろーが」
「もう、もう良いだろ!?半年もお前らに付き合って来たんだ…もう許してくれよ!」
「は?誰に口きいてんだよ。オレに指図できる立場か?弁えろ」
声と内容で相手の正体は容易に分かった。
鹿野君だ。
春千夜が言う「オシゴト」とはつまり私との交際であり、鹿野君が彼に赦しを乞うのはその「オシゴト」は春千夜に拠って強要されたものだったと言う事で、端的に言えば私達の恋愛は春千夜に拠って作られた最低な出来の映画だったという訳だ。
思い返せば思い当たる節は幾つもあった。
付き合いが始まる前、私の教室へ足繁く通っていたのは春千夜に脅されていたからで、よく目が合ったのは私を恨んで睨め付けていたからだ。
お前のせいで、と。
告白の際に顔が強張っていたのは緊張などではなくて、言ってしまえば服従の日々が始まるという恐怖からだったのだ。
全てが繋がった今はっきりしているのは、鹿野君は私の事なんて少しも好きではなかったと言う事。
「使えねェな。マジで顔だけかよテメー」
そして春千夜はやはり優秀な働き蟻だと言う事だ。
鹿野君は何も悪くない。ただ見た目が良くて優しくて勉強も部活も一生懸命に熟し青春を謳歌していただけだ。
彼が悪かったとすればそれは運であり、名字名前という取り立てて特徴のない女生徒に好かれてしまい、名字名前が幼馴染に彼の話をしてしまったばっかりに順風満帆な学園生活から地獄へと叩き落とされてしまった。
この場合、私も可哀想なのだろうけど、彼が泣いて詫び春千夜に縋って許しを乞う声を聞いた私の心は仮初の愛に傷付くどころか途方も無い充足感に満たされていた。
鹿野君のことは確かに好きだった。彼の大きな手が遠慮がちに触れる度心が踊り、見つめ合う瞳に自分の姿が映る度に彼への想いが一層強くなった。
いつまでもこの時間が続けば良いと本気で思うくらいに彼の事が好きだった。
しかしそれがなんだと言うのか。
皆の憧れである彼は、脅されて好きでもない女と交際させられていた。更にはボロを出し端正な顔もめちゃくちゃにされて、苦痛と恐怖でプライドも捨てて泣きながら跪いているではないか。
百年の恋も冷めるとは正しくこの事だ。
美しい思い出すらも安物に見える、それ迄の男だったのだ。
そんな事よりもこれ程手間が掛かる仕事を私の為に遂行した春千夜の忠誠はマイキーや隊長へのそれよりも強いと確信できた事の方が重大である。
綻ぶ顔を両の掌で押さえながら、来た時と同じ様にゆっくりと階段を降りて自分の教室に戻る。そして携帯を取り出して電話帳の中から春千夜の名を探し出してコールした。
「春千夜、今日学校来てる?」
「何で」
「一緒帰ろ」
「…いーけど」
「ん、教室で待ってるから迎えに来て」
通話から程なくして教室の入り口に現れた春千夜は、暫く見ないうちに大分様変わりした様に見える。
元々男子にしては長めだった髪の毛はセミロングくらいに伸びていたし、身長も少し伸び、体格も僅かに男らしくなったと思う。それは並んで歩くとより顕著に感じられた。
「髪、伸びたね」
「まあな」
陽の光を受けてきらきらと光り輝く髪の毛に触れながら言えば、彼は素っ気なくも律儀に返事をする。ツンとしている理由は分からないけど何故かクールぶってる彼を「私の為に人一人の青春を潰してきたくせに」なんて茶化したりはしない。
「女の子みたいで可愛いよ」
「怒んぞ」
「私の事怒った事ないじゃん」
「オレが本気で怒ったら名前ちゃんが漏らすかもしんねーだろ」
「漏らさないし。泣きはするかもしれないけど」
「じゃあ怒んねーよ。つーか名前ちゃんから一緒に帰ろって誘ってくんの初めてじゃねェ?」
「いいでしょ。最近顔見てなかったし、今日は春千夜と帰りたい気分だったの」
「…そういやアイツはどうしたんだよ」
彼が指すアイツが鹿野君の事だとすぐに分かった。やはり春千夜は自分がしていた事を私に悟られていないと信じ切っているのだろう。
小学生の頃は自分の成果を嬉々として私に報告し褒めてもらいたがっていたのに、どうやらその辺りは思慮深く成長したらしい。
「最近うまく行ってなくて悩んでたんだけどね、鹿野君はもういいかなって」
「はァ?もー飽きたのかよ」
「私、やっぱり強い男が好きなのかも。だからみっともなく泣く男は無理」
全部聞く前に満足してあの場を離れたが、きっと春千夜は鹿野君に私が望む通りの優しくて彼女を大切にする恋人を演じる様要求したのだろう。
だからこそ、まさか私の口から鹿野君を切り捨てる台詞が出てくるとは思わなかったのかその眠たげな瞼を眼球がこぼれ落ちそうなほどに大きく見開いた後、今度は口を大きく開けて笑い出す。
「…あっはは!サイテー!」
「これからクレープ食べに行かない?友達が彼氏と行ってたお店、私も行きたい」
「夜までなら付き合ってやるよ」
「また走りに行くの?無免なのに」
「副隊長が集会ふける訳にいかねェし、免許持ってる奴より運転うめーからいンだよ」
「へー、副隊長に昇進したんだ。凄い?ね」
「思ってねェだろ」
「だって東卍の事よく知らないし。てか幾ら運転上手くても無免はダメでしょ」
「あー分かった分かった。今度後ろ乗せてやるから、免許持ってる奴とオレのどっちが運転うめーか判断してみろって」
「まだ死にたくないからいいや」
春千夜の手綱を握るこの手では恋人なんて手に余る存在だったのだ。
冗談の応酬の中にっこりと細められた目元はやはり鹿野君なんかよりずっと美しく、子供がするように無邪気に繋がれた手からは彼に触れられた時とは比べ物にならない程の安心感を齎した。
見た目の変化こそあれ春千夜は変わらず私の可愛い働き蟻で、手に馴染んだ非常に便利な道具だった。それも態々頼まずとも私の望みを何でも叶える魔法が掛かっている。
春千夜が私を“名前ちゃん”と呼ぶうちは、彼の信頼につけこんで甘い汁を吸い尽くし骨の髄まで利用させて貰う事にしよう。