暖かい闇

 窓枠に切り取られた空は太陽の残り香を残した夕闇に染まっていた。陽が落ちて随分経っているにも拘らず硝子一枚隔てた向こう側の気温は依然として三十五度以上を保っているらしい。夕食を摂りながら眺めていたテレビのキャスターは、酷暑にも関わらず絶えず笑顔を見せ「今夜も熱帯夜となるでしょう」と、暑さを微塵も感じさせ無い落ち着いた声で告げていた。
 家の中でも、エアコンが効いている箇所以外は湿気が篭り少し出ただけで肌に汗が滲む。
 湯上がりで温まった身体であれば尚更だ。汗を流したばかりであるのに拭いたそばから汗でベタつく身体に辟易しながらリビングの扉を開くと、鼻をつく異臭。そして猫のトイレの前にしゃがみ込む春千夜の姿。

「名前ちゃん、猫クソしてる!」

 子供が虫の交尾を見つけた時の様な嬉々とした声を上げる彼に軽く返事をして其方を見やれば確かに猫は自身の排泄を間近で観察する春千夜を目線だけで気にしながらもトイレに腰を落として踏ん張っている最中だった。
 糞を片付けるには彼の排泄の完了を待つ必要があるので、髪の先から滴る水滴を受け止めしっとりと濡れたバスタオルを頭に巻きつけ、キッチンの引き出しからビニール袋を一枚を取り出し少し離れたところで猫の排泄完了を待つ。

「かわいー顔して凄ェクソするよなお前」

 暫くして前足で砂を掻く音が聞こえ、振り向けばソクラテスは既にトイレの外で毛繕いをしており、春千夜といえばスコップでトイレを穿り糞をつついている。
 肉球についた砂が僅かに散っている箇所を避けて近寄れば確かに立派な糞が横たわっていた。
 依然として糞を弄っている春千夜を退かしてスコップを受け取り処理をしビニールをゴミ箱に放る間、愛猫は我関せずと尻尾を揺らしてソファに寝そべり、春千夜を警戒している。

「猫って毎日同じ時間にクソすんの?オレ毎回こいつのクソ見てる気がする」
「ソクラテスは春千夜が好きだから安心して糞すんの。春千夜が来るたび糞見てるのはそういう事」
「どういう理屈だよそれ」
「怖い時とか知らない人がいる所で用足せないでしょ?」
「先週シメた奴は命乞いしながらクソ漏らしてたけど」
「…あ、それ半グレジョーク?」
「半グレジョーク」
「まあいいや。私もう寝るから勝手にお風呂入って勝手に寝てね」
「はァ?冷た。せめて出るまで待ってろよ」
「待ってろよ?」
「待っててください」
「四十分ね。上がる前に湯船に浸かって十数えるんだよ」
「…かあちゃんかよ」

 ぶつぶつと文句を垂れながら浴室へ向かう春千夜を横目に、テーブルの上に置きっぱなしにしていた読みかけの本を手にとり約束の四十分が来るまでソファの上でページを繰る。
 この本は世間が傑作だともて囃し本屋も「注目の新作」として大々的にポップを掲げていたので購入したのだが、個人的には大して面白味を感じられない。まだ話の中盤であるからそうなのかもしれないが、正直飽きが来ていた。友人や恋人に振り回される人生を送っていた優柔不断な主人公がある男との出会いをきっかけに変わりはじめ、という典型的なシンデレラストーリーが合わないのかもしれない。
 主人公は確かに可哀想ではある。友人だと思っていた人間に騙され、恋人である男に裏切られ、赤の他人に影響されて二十代半ばになっても本当の自分がどんな人間であるのか見つけられずにいるなど私には到底耐えられないだろう。抜け出す策を考えるでもなく只流れに身を任せ、結果が悪ければ被害者ぶる、良くも悪くも他人に左右され、目標も信念も無い人生。果たしてそれは自分の人生と言えるのだろうか。読んでいて酷い嫌悪がこみ上げる。
 主人公がキーマンによって美しく変貌を遂げ、過去に裏切った男を後悔させるといったありきたりでくだらない流れに差し掛かった辺りでリビングの扉が開く音がした。
 文字を追っていた視線をそちらに向ければ、ダークグレーのボクサーパンツのみを身に着け、水滴の滴る派手な頭にタオルを乗せた春千夜が暑さにうんざりとした表情を浮かべて立っている。だらりと横にぶらついている手にはドライヤーとスウェットが握られていた。

「…四十分経った?」
「え?あー、たぶん。ごめん見てなかった」
「はー?クソ急いで出たんだけど」
「ちゃんと洗った?てか服着てよ」
「あちィもん。オレ今日このまま寝る」
「じゃあソファで寝てよ。そんな格好の男と一緒に寝たくない」
「わかったわかった。着りゃいンだろ」
「着りゃいいんだよ」

 “もぞもぞ”という擬音がまさしく当て嵌る怠そうな動作で、握っていたスウェットを履き始める。本を閉じてテーブルに置き、髪を乾かしてくれと迫ってきた上裸の彼を躱して起床時のまま乱れたベッドを整える為寝室へと向かった。
 リビングに比べれば手狭に見える六畳の洋室にはクイーンサイズのベッドはあまりに大きすぎる。一人と一匹の住まいに見合っていないこのベッドを購入したのは他でもない、今現在ドライヤーで髪を乾かしながら適当な発音で洋楽を熱唱しているあの男だ。
 彼の勧めで決めたこの物件に越した初日、引っ越し祝いと称してフレームからマットレス、羽毛布団にタオルケットや枕と一式が送られてきた際の私の感情は落胆と怒りが大半を占めていた。シーツやカバーの洗濯をするのは私だし、一人で眠っている時に過剰にスペースが余るのも居心地が悪い。それにこれを置くとすると、予てより考えていた寝室のレイアウトを大幅に変更しなくてはならなくなる。
 しかし当初は本気で送り返してやろうかと考えていたこのベッドであるが、今となってはソクラテスが非常に気に入っており春千夜も頻繁に泊まりに来る為意外と重宝していた。
 これを見越しての贈り物であったのなら、彼の周到さには感嘆せざるを得ない。
 皺の寄ったシーツを手で伸ばしタオルケットと枕を敷いて、整ったベッドに身体を横たえる。ヘッドボードの電源に挿しっぱなしにしているコードをスマホにつなげ、ドライヤーの音が消えたリビングに向かって声をかければ、リビングの電気が消え重い足音と共に彼も寝室へやって来た。彼は私の隣に寝そべり暫くスマホを弄っていたが、リビングからこちらにむかってくる小さな足音が聞こえるとピタリと動きを止め全神経をそちらに集中させ、誰も何も言っていないにも拘らず「シッ!静かに…」等と言っている。さして興味も無くSNSを眺めていると「ぐぇ、」という春千夜の苦しげな声と共にソクラテスがベッドに上がってきた。鳩尾のあたりを擦る様子から察するに床から跳躍し春千夜の腹の上に着地したのだろう。

「やっぱこいつオレの事嫌いだろ」
「んー…そんなことないよォ」
「その裏声、猫の声?」
「そうだよォ」
「可愛くねェんだけど」
「は?じゃあオマエなんか嫌いだよ」
「それ地声じゃん」

 私と自分の間に丸くなっているソクラテスを抱き上げて足元へ移動させ再度身体を横たえ、依然としてスマホを眺めている私にぴたりと寄り添い液晶を盗み見ようとする。見られて困るものは特に無いが気分が良いものでは無いので、端末を握っていない方の手で間近に迫っていた顔を押すも、掌で鼻を潰されながら覗こうとしていた。
 いい加減に鬱陶しいので諦めてスマホをヘッドボードに置けば、彼は満足したのか表情を綻ばせながらリモコンで照明を落とす。南の窓のカーテン越しにぼんやりと青白い月光が照る。
 左腕を頭の下に敷いて横を向き彼に背を向けると、春千夜はさも当然という様に私の背にぴたりと密着し表皮の冷えた腕を腹に回して抱き込んだ。そして甘える様に私の後頭部に鼻を擦り付け、ついでに匂いを嗅ぐ。
 
「なーなー聞いてくれよォ」
「なに」
「灰谷マジでクソ。特に弟。今日の幹部会でオレをコケにしやがった。マジいつかぶっ殺してやる」
「この間は兄が特にムカつくって言ってたのに」
「どっちもクソなんだよ。アイツらグルになって面倒事全部オレに押し付けようとすンだぜ…マジでやってらんねェ」
「…なんか、中間管理職の苦悩って感じだね」
「どういう意味だよ」
「上のお世話も下のお世話もしなきゃいけない辛い役職ってこと」
「下のお世話って…下ネタ?」
「キモい。離れて」
「やだァ!名前ちゃん、あのクソ兄弟怒ってよ〜!」

 所謂半グレは義理や仁義といった極道の流儀など持ち合わせていない。利と合理性、そして組織の威厳を保つ為どんな非道な手段も厭わない狼の様な集団だ。
 しかしてその実、組織内はよくある会社組織と同じく階級が設けられており、上になる程責任も増していく。厳しい縦社会である暴走族上りの春千夜は梵天次席である自身に馴れ馴れしい灰谷兄弟を酷く嫌っているようだった。嫌悪してはいるものの灰谷兄弟は幹部であり紛れもなく首領である佐野万次郎の利となる存在である。その手前、身勝手に処分もできず非常に歯痒い思いをしているのだろう。

「怒るって何よ。私の幼馴染虐めないでよ〜とか言えばいいの?普通に殺されそう」
「やっぱやだ…アイツらに会わせたくねェ。かわいーからマワされる」

 段々と解けていく彼の声から察するに、相当疲弊しているのだろう。髪の毛に埋められた唇からはしきりに溜息が溢れている。

「疲れてるならわざわざ私の家来ないで自分の家に帰れば良いのに。良いトコ住んでるんでしょ?」
「自分ち帰ったって名前ちゃん居ねェじゃん。名前ちゃんに会ってこうやって触れ合って匂い嗅いで一緒に飯食って寝んのがオレのストレス解消法なんだよ」
「あそ」

 淡白に短い返事を返しながらも私は愉悦していた。調教の甲斐あって、春千夜は私を親愛の対象として見ている。暗がりで同じ寝具に沈もうと幾ら肌に触れようが、一切性的な接触をしてこないのがその証拠で、私は性対象でも恋愛対象でも無く、敬愛し庇護すべき信仰対象であると意識に刷り込む事が出来ているのだ。
 徐に身体を反転させ彼を向けば、涼やかな月光に照らされた美しい顔が私を捕らえる。

「ね、春千夜。あの人何処から見つけてきたの?」

 眠気のせいかやや細められた瞼の隙間から見える碧が揺らぎ、隙間なく生え揃った睫毛が徐々に持ち上がる。“あの人”というワードで脳が覚醒したのだろう。

「ん…ああ。アイツは落ちこぼれのホスト。二百万カケしてた客に飛ばれてケツ持ちから逃げてるとこを拾ったんだよ」
「ヤクザ絡んでる人雇って大丈夫?」
「顔も変えてるし問題無ェよ」
「お金掛かったでしょ。ごめんね」
「名前ちゃんはンなもん気にしなくて良いンだよ。オレが勝手に首突っ込んだんだし。…どうした、急に。アイツが何かやらかしたのかよ」

 力の篭った文末から彼の緊張が読み取れた。あの人が下手をこいたとなればそれは春千夜の失態とイコールだと理解しているからだろう。手を加え派遣した者の責任が自身にあると弁えているのは裏社会でなくとも組織に属している人間であれば誰しもが持つ感覚だ。
 それに今回は梵天自体が動くのでは無く、あくまで春千夜個人が自身のコネと金を使って私のお願いを叶えているに他ならず、修正箇所が増える程彼と私の首を絞める事になる。
 故に彼は本件についての私の発言に敏感なのだ。

「ううん。良くやってくれてるみたい。紹介してからずっと彼の話してるから」
「そうかよ。でもさァ、ロクにしちまった方が簡単じゃねェ?」
「わざわざそんな手間かける必要ないって。それに、身の回りで失踪者が出ると私が困る。まだあの職場を辞める気はないから。あいつには探そうと思えば案外簡単に見つかる場所に居て貰わないと」
「そーかよ。んじゃ今のところはお姫サマ扱いで良ンだな」
「うん。私が良いって言うまで沢山甘やかしてあげて」
「りょーかい」

 終話を悟ったのだろう彼はゆっくりと瞼を閉じ、小さく「おやすみ」を言う。
 私としてももう用は無いので「おやすみ」を返してから同様に瞼を閉じた。
 こんなにも広いベッドなのに、こんなにも暑い夏なのに、何故私達は狭苦しく身を寄せ合っているんだろう。
 ふと浮かんだ疑問はエアコンの稼働音と遠くに聞こえる救急車のサイレン、そして足元で愛猫が漏らす寝言を背景に迫り来る睡魔によって意識の彼方へと消えていく。

 品評会の日から数週間ほど経ったある夜の話だ。