カレイドスコープ
「死ねばいい」
ネオン街の灯りがスモークガラス越しに差し込む車内にて。或る女を視線で追っていた春千夜が唇から紫煙と共に吐き出した言葉に、同じく女を眺めていた私は視線を隣に腰掛ける彼の顔へと移す。こちらに向ける彼の瞳は涼やかな色をしているのに碧の虹彩は爛々と光って見えた。
「って言ってたよな」
「何十回も言った」
「なんで生かしとくの?」
「殺す意味ないから」
「…生かしとくにしてもさァ、もっとヤベーことさせた方がおもしれーだろ」
「充分面白いよ。だってあいつ、もう詰んでるでしょ」
私達の視線の先にいた華美で下品な服を身に纏い安っぽいハイヒールでふらふらと夜の街を彷徨う女は、街灯に誘われる蛾の様だ。誰もが羨む生活を奪われ、奪われたとも気付かずに蔑んでいた女に与えられた甘い虚構に惑い地の底へと落ち続ける。最早這い上がる事は叶わない。
私がそれを許さないから。
高校を卒業し四年制の私立大学を出た後上場企業の商社にて俗に言う受付嬢として働き始めた私は順風満帆な生活を送っていた。
働き口としてこの企業を選んだのは特筆すべき理由があった訳でもなく言ってしまえば有名企業のブランドと企業の顔とも呼べる受付嬢というラベル、そして上場企業だからそう簡単には潰れないだろうという何とも安直な考えからである。
実際、今の私は一等地のオフィス街にハイヒールの音を響かせながら通勤し、お昼は職場近くのレストランで一食五千円のランチを楽しみながら同僚達と職場の噂話だとか恋人の話に花を咲かせるという、側から見れば都会的で洗練され恨めしい程に輝いて見える日常を送っている。
しかし裏を捲れば、其処には課内の派閥だの恋人のスペックでマウントを取り合うなどといった低レベルの諍いが女の園には渦巻いていた。
ブランド物で持ち物を固め派閥のトップを褒めそやし行きたくもない高級なランチに付き合い上部だけの賞賛を口々に並べて自分の居場所を死守する下らない毎日。
本心では、休日に海外に行こうが彼氏が金持ちだろうが留学経験があろうがその服がどこのブランドだろうが赤の他人である私には一切関係のないことであるし興味も無いのに、周囲はそういった下賤な話題で沸き立つのだから其れに合わせなくてはこの社内では生き残ることは出来ない。
とはいえ、そんな環境は意外にも私の肌に良くあっていた。元来年上には気に入られやすい質であったからお局に取り入るのも容易く、お局のお気に入りには誰も怖くて手が出せない。適当に仕事を熟して適当に人間関係を育めば良い理想的な生活。
温室のような生温さを保つこの箱庭は私にとっては心地よく非常に生きやすい世界だ。
「此方、大学時代のサークル仲間の小鳥遊さんです。今は××法律事務所で先生をしていらっしゃいます」
薄暗い室内に橙の照明がぼんやりと光る雰囲気の良いワインバーは私達の狩場だ。
終業後に都合のつく同僚が集まり、そこそこの男を釣り上げて弄び日々のストレスを発散させているのだ。
ただ今夜ここに集まったのは狩りの為ではない。
私が掌で示した男を品定めして居た彼女達先生という単語に「へぇ、弁護士先生なんですね」などと平静を装って居たが、目の色が明らかに変わったのを私は見逃さなかった。
数週間前から企画されて居た此度の宴会はスペックの高い男性を持ち寄り品定めする品評会のような意味があり、あわよくば好条件の物件を持ち帰る合コンのような役割をも担っている。
此処でレベルの低い男を連れてこようものならグループ内での地位が下がるどころか属す事すらも許されず惨めに退職する他無いだろう。
今夜私が連れてきた男は皆にとって“当たり”だったようで、何かと世話を焼かれ質問責めにあっていた。
その中でも食いつきが良かったのが私の同期である佐倉という女だ。先輩方を差し置いて彼の隣に陣取り、自慢の胸を惜しみなく強調し恥を捨てて彼女達の非難の目など気にする事なく誘惑している。
「え、小鳥遊さん彼女居ないんですか?こんなに素敵なのに!」
「つい最近別れてしまいました。仕事が忙しくて寂しい思いをさせてしまったようで」
「私なら気にしないかなぁ。たしかに寂しいかもだけどお仕事なら仕方がないし、久しぶりに会えた時の嬉しさがおっきくなるじゃないですか」
話を聞き相手を肯定しながら今流行りの可愛らしい顔を紅潮させさりげなく体に触れる完璧な売女の振る舞いに感服せざるを得ない。ワイングラスを傾けながら小鳥遊に視線をやれば、彼はひくりと肩を跳ねた後笑顔を作り佐倉に何かを囁いた。
彼女は桃色に色付いた唇の端を上げ、スマホを取り出して小鳥遊のスマホに翳している。そして不意に此方を向いたかと思えば得意げに笑って見せた。
その後は特に盛り上がりもなく宴は解散となる。小鳥遊と佐倉以外にもちらほらとペアが出来ており、きっと各々二次会へと向かうのだろう。私も二名に「二人きりで」と誘われたが丁重に断り、同僚達に挨拶をして帰路についた。
夜道を女が一人で歩くのは褒められた事ではない。アルコールで正常な判断が出来ない奴や素面なのに異常な奴が蔓延る金曜日の夜の街は安全とは言い難い。
大通りから一本入ると途端に人通りは少なくなり暗澹としている。飲み屋の裏口で喚きながら吐いてる奴とか電柱の下に屯したよく分からない若者連中などは絶対に絡まれたくない人種の人間だ。
踵がアスファルトを叩く音が響く。大して飲んでも居ないのに気分が良い。あまり酒に強くない為少しの量でも酔えるのは利点か欠点かは分からない。
「あれ、お姉さん一人?良かったら飲み行こうよ」
夜道を一人で歩くとこういう目にあう。気分良く夜風を切って歩いていたというのに軽々しく話しかけてきた男は私よりも少し若いか同じくらいの年齢の見た目をしていた。
警戒心の薄い酔った女と判断して誘ったのだろう。
「いや、飲んで帰るとこなんで」
「まだ十一時だよ?これからこれから。良い居酒屋知ってるからさ」
「本当間に合ってますから」
「いいじゃん、ほらこっちに」
「あれ〜名前ちゃん?」
背後から私の名を呼ぶ声に深く溜息が漏れた。この程度で出てこなくて良いのに。
エンジン音が徐々に近付き、私と男の脇に黒塗りのベンツが停車した。開け放たれた後部座席の窓から肘を出し「何してんの?」などと白々しい演技をする。
「何も?帰る途中だけど」
「そっちのおにーさんは知り合い?」
「全然。ちょっと話しかけられただけ。ですよね?」
「は、はい。寂しそうだったんで話しかけただけで…すいません」
「あ、そうなんだ。じゃあもう用はねェよな」
さっきまでの威勢はどこに行ってしまったのか、明らかに堅気ではない男の登場に面白いくらい動揺し膝が震えて今すぐにでもこの場を去りたいと顔に書いてある。
「ないない。じゃあ私帰るので。さようなら」
可哀想になってきたのでこの場を切り上げる為に車に近付き、怯え切った男に手を振れば弾かれたように駆け出した。
私も知り合いでは無かったらこんな見た目の男に話しかけられたく無いだろうし関わる事すらしたく無いので彼の行動はよく理解できた。
窓が開いている方とは反対側に周りドアを開け乗り込んだ車内は、煙草と香水のような芳香剤の香りで満ちている。
シートベルトを締めたと同時に動き出した車は、私の家の方向へと進んでいた。
「おかえり」
「…出てこなくて良いし迎えにも来なくていいのに」
「オレが来なかったらアレどうやって追っ払うつもりだったんだよ」
「適当に」
「そういう所すげー心配。つか何あのLINE?歩きたいから着いてこいって。意味わかんねェ」
「そのままの意味。歩きたかったんだよ」
春千夜がポケットからソフトのマルボロを取り出し一本咥えたのを見て、私もバッグからヒートスティックと本体を取り出してスイッチを入れる。
同僚達は私が喫煙していることを知らないし知られたくも無いので酒の席でも此れを出す事はしなかったから、肺に満ちる紫煙にこの上ない満足感を覚えた。
「んで、首尾は」
「上々かな」
「ヘえ、やるじゃん」
「春千夜のお陰。我儘聞いてくれてありがとう」
私の言葉に紫煙を細く吐き出しながら笑う春千夜は学生時代から何も変わってはいない。彼は今でも私の可愛い働き蟻だ。
正直、就職してからも春千夜との関係が続くとは思っていなかった。
学生の内であれば暴走族という組織に名を連ね暴力で他者を捩じ伏せて畏怖の対象となった彼は何かと使える便利な道具であったが、社会に出た後は如何だろう。
もし彼がベンチャー企業の社長だとか芸能人のような、ある程度金がありそれなりの地位がある職業につくのであれば別だが彼は会社経営に興味は無さそうだし頭の良さやそのルックスを生かした職業につくとは思えなかった。かといって会社員勤めが出来る柄ではないだろう。
大人になってもロクに働きもせず学生時代の栄光にしがみつき華々しい思い出を手放す事が出来ず世間の汚れとして煙たがられる存在では私の道具には相応しくない。
卒業後もそれとなく付き合いを続けて関係を繋ぎつつ別の働き蟻を探そうと思っていたのだが、なんの因果か彼は変わらず私の側に居る。
私が春千夜を手放さなかったのは、社長でも芸能人でも無いが彼は金も地位も持っている私の道具に相応しい人間であり続けたからだ。
春千夜は東京卍會が解散した後もマイキーの下にいたらしく、時が経つにつれて規模が膨れた組織は暴走族等という子供の遊びの域を超えヤクザも恐れる程に強大で凶悪な日本の暗部に君臨する犯罪集団にまでのし上がった。
詐欺や売春、殺人などに必ずと言って良いほど関与している非道な組織の頂点に座しているのはあの無敵のマイキーであり、そこに至るまでさして時間も掛からなかったので、私が彼を手放す決断をするよりも早く春千夜は次点にまで上り詰めた。
財力も有り、警察も不用意に手を出せない組織で二番の地位についた春千夜以上に使える蟻など見つかる筈も無い。
とはいえ私と居る時の彼に変化があったかと言えば、見た目以外には変わった事は特に無く未だに私を名前ちゃんと呼び犬の様に擦り寄ってくる。
私の考えとしては企業に勤める一般人と犯罪組織の幹部ではあまり大っぴらに関わらないのが理想である。それを説明した上で距離を取ると提案した私に彼が言い放ったのは「別に問題ねェだろ」という、なんともシンプルな答えだった。
「だって春千夜、私に組織の情報ぺらぺら話すじゃん。もし何処かから漏れたら私が真っ先に疑われるでしょ。そしたら春千夜だって責任とらされるよ」
「それが分かってる名前ちゃんがオレを裏切る訳ねーじゃん。何、漏らす予定あんの?」
「無いよ。でも」
「あ"ーもーやめやめ。名前ちゃんと会うのとやかく言う奴がいたらオレが殺す。情報漏れて名前ちゃんが疑われたらオレが犯人捕まえて殺す。オレや梵天に恨みがあって名前ちゃんを利用しようとした奴もオレが殺す。これで心配ねェ」
私は自分の保身しか考えていない春千夜がどうなろうと知った事ではないが、梵天にとって私は一切価値のない人間であるからすぐに始末されるだろう。
その状況を危惧しての提案であったのに、春千夜はその上を行くやや乱暴に聞こえるが彼なら実行可能で有効な良案を提示したのだ。
車は十分程都内を走って停車した。
スモークガラスの外を見やれば見慣れた私の巣があり、運転手に礼を言い降車する。春千夜も一言二言運転手に指示を出して車を降り、私の横に並んでマンションへと歩き出した。
私の巣は安価なボロアパートでもタワーマンションの様な上等な物でもなく、成人女性が一人で暮らす分には可も無く不可もないそれなりのマンションだ。私が木造の安いアパートに住居を決めようとしていたところに春千夜が持ってきたのが此処だったというだけで別に拘りなどは無い。
煌々と灯のついたエントランスを抜けエレベーターに乗って自室のある四階に上がる。
ハイヒールと革靴がコンクリートを打つ不規則な音をフロアに響かせ、辿り着いたドアの鍵を開けノブをひねる。
嗅ぎ慣れた梔子の香りに満ちた玄関に靴を脱ぎ捨てれば纏足の如く圧迫されていた足先に血が通い、何とも言い難い解放感に安堵した。
「猫〜居る〜?」
「居なきゃ困る。ソクラテスただいま」
短い廊下を抜けてリビングに通じる扉を開き電気をつけると、ソファの上で寛いでいた愛猫が眩しそうに目を細めて欠伸をしながら長い鳴き声をあげた。
「猫寝てたか」
「触る前に手洗ってよ」
「うん」
口では「うん」と言いながらも彼が向かうのは洗面台ではなくソクラテスがいるソファの方で、何故か懸命に毛繕いを始めた彼を無理矢理仰向けに伸ばして自身のネクタイを緩めその腹に顔を埋めていた。
「元気だったか?」
「先週も来たでしょ」
「まァそうだけど。あー、名前ちゃんと猫の匂いが混ざってる。落ち着く…」
「気持ち悪」
「けむくじゃらの名前ちゃん…」
「ほんと気持ち悪いからやめて」
上等なスーツに毛が付く事を一切厭わず猫をいじくり回し気味の悪い台詞を吐く春千夜に若干の嫌悪を抱きつつ煎茶を出しやり隣に腰掛ければ、彼はあっさりとソクラテスを解放して座り直し顔についた毛を払ってから湯呑みに手を伸ばす。
ソクラテスはよっぽど嫌だったのか、彼の手が離れた途端に物凄いスピードで寝室へと駆けて行った。
「計画の全容聞いてねェけど、最終的にどうすんの?」
「特に何も。もう釣れたから、あとはバイトの手腕次第かな」
「じゃあ取り敢えず付き合ってやれって指示で良いわけ?」
「うん、そうして」
湯呑みを片手にスマホを何度かタップした後で用済みと言わんばかりにスマホと湯呑みをテーブルに戻し、私の肩へ頭を預ける。
ゆったりとした動きではあったが片方にそれなりの重量が突然掛かった為手元が狂い口元に添えていた湯呑みから煎茶が溢れ胸元をしっとりと濡らしていった。
「あっ、ちょっと!こぼれた」
「いいじゃん。別に熱くねぇだろ。黒い服だからシミにもなんねェよ」
「この服幾らしたと思ってんの」
「三万くらい。オレがあげたやつじゃん」
確かにこれは春千夜から貰った服だし、この服より遥かに高価であろうスーツで猫と戯れる彼に服の値段どうこう言うのはみっともない気がしてそれ以上は何も言えなかった。
「そういや今日の飲み、合コンだったんだろ?定期的に行ってんの?」
「職場の仲間内でたまにね。別に今は彼氏要らないし私は付き合いで行ってるだけ」
「ふーん」
「何」
「今はって、名前ちゃんが男と付き合ってんの中学以来見たことねェんだけど」
「まあ、興味ないしそれどころじゃないから。春千夜がいるから寂しくないしね」
「何それ。かわいい」
私の手から湯呑みを抜き取ってテーブルに置き、私の頭を抱きこんで髪の毛を混ぜる。
彼は昔から私をかわいいと褒めそやすが、正直全く理解ができない。
春千夜は容姿が飛び抜けて整っているから、きっと見目良い女性に声をかけられることもあっただろう。私はといえば、醜くはないものの美しくもない見た目に可愛げのない性格。ただ幼い頃から共に過ごし、親しくしているだけの女の何処が可愛いのだろうか。
「春千夜もかわいいよ」
「それ嬉しくねェよ…」
「あそ。でもかわいい」
不服を示す様に髪を混ぜる手付きが荒くなりいい加減鬱陶しくて彼の胸を押し距離を取れば彼は「髪ぼさぼさ」と笑う。
その笑顔に、ふと疑問が浮かんだ。
私にとって彼が可愛い番犬なら、彼にとっての私は何なのだろう。彼には飼われている自覚はない。気取られないよう細心の注意を払い利用してきたのだ。私は彼に飼い主だと認識されてはいけない。
友人ではあるが、男女の友人同士がこうしてスキンシップを取るだろうか。
恋人では無い。そういった触れ合いは今まで一切無かった。
改めて考えてみれば私達の関係は多面体の様だ。私から見た彼、傍から見た私達、そして彼から見た私。矢印の向きが変われば関係も変わる。
疑問には思いつつ不思議と知りたいとは思わなかった。彼にとって私がどんな存在なのかを知ったところで利は無さそうだし、知らなくても不便はない。
何にせよ、彼が私に依存している事実は変わらない。私はそれを利用しているだけだ。
今迄も、これからも。