1話

 早朝。しっとりと濡れた中庭の片隅に鎮座する椿が、その肉厚で濃厚な緑の葉を朝露に濡らし一層彩りを湛えて眠りにつく、酷く冷えるが清清しい朝の事。
護廷十三隊十三番隊隊舎では、大勢の隊士達が既に身支度を整え各々の業務を開始している。三席に座す小椿仙太郎も例に漏れず、玉露の注がれた湯飲みを乗せた小盆を手に、もう一人の三席よりも早く執務室へ向かうべくよく磨かれた隊舎の廊下を急いでいた。

「浮竹隊長!おはようございます!!」

執務室の前でひとつ深く息をつき、笑顔を作って障子戸を開くと、そこには敬愛して止まない隊長は居らず、もう一人の三席 虎鉄清音が顔を顰めて小椿を顧た。

「朝からうるっさい!なににやにやしてんのよ」
「挨拶は笑顔が大切だろ!隊長にお茶をお持ちしたんだ!お前に用はねえ!…む、しまった、雨乾堂にいらっしゃるのか…?」

 怒鳴り散らしたかと思えばぶつぶつと何かを考え込み百面相をする小椿を、清音は気味悪そうに眺めながら小盆の上の湯飲みを引っ手繰って中身を自身の湯飲みにあけ、それを咎める彼に対して得意げな顔をして立ち上がり、人差し指を突き立てて高らかに言う。

「馬鹿ね。浮竹隊長は今日休暇をとってらっしゃるのよ」
「あっ、」
「あーらぁ?忘れてたの?私の方が隊長を尊敬している証拠ね!だって私は!隊長の予定を!きちんと把握しているんだから!!」
「くっっそ腹立つ!!」

 ぎゃあぎゃあと騒がしいのはいつもの事だが、隊長がいない分遠慮がないのか競り合いはいつもより苛烈を極め、書類を届けに来た四番隊副隊長虎鉄勇音に止められるまで続いた。

 十三番隊隊舎の喧騒からうってかわって、池の鯉すら眠りに落ちる早朝の静謐を保つ浮竹邸では家長の浮竹十四郎が顔を包む凍てつく冷気に瞼を震わせ目を覚ました。微睡の中、障子戸で閉ざされしんと静まり返る薄暗い八畳の寝室を見渡してから、はた、と自身の布団の異常な暖かさに気がつき、十四郎は「またか。」とため息を吐く。そして、ゆっくりと上掛けをめくりあげ、暗がりに見える艶めく頭髪に向かって乾いた口で声をかけた。

「名前」
「ン、寒い…」
「またこっちに来ていたのか」
「だって、たまらなく寒くて眠れなかったんですもの」

 十四郎の声に揺り起こされもぞもぞと身じろぎした女は彼の妻で、名前を名前といった。眠い目を瞬かせながら布団で丸くなって自身を覗き込む彼の顔を見上げ、その姿を認めたのか僅かに笑み彼の寝巻をそっと掴み離さない。十四郎の隣に敷かれた一寸も乱れていない布団は、「たまらなく寒かった」などと言うのが狂言である事を裏付けていて、いつものように彼女が真っ直ぐこの布団にもぐりこんで来た事が愛おしく、また視線を戻して顔を綻ばせ深く息をつき静かな声音を発す。

「そんな事をいうが君は冬でも夏でも俺の懐に潜り込んでくるじゃないか」
「…今日は十四郎さんがお風邪を召されないよう私なりに」
「わかったわかった。ほら、日が昇ったぞ。そろそろ起きよう」
「何かご予定が?」
「いや、特には」
「もう少しだけこうしていたいです」
「全く…。それなら俺は本を読むことにするから、飽きたら教えてくれ」

羽織を開き潜り込んで腰に手を回して胸元に顔を押し付ける彼女を無碍にもできず、仕方が無しに、昨晩就寝前に読んでいた詩集を枕元から手に取るとあいていた左の手を布団の中に入れ名前の頭に置いて、古書の香りがする頁へと視線を落とす。ひとつ、またひとつと詩歌を読み進めていく毎に胸にきつく押し付けられる彼女の額と鼻が、夜着の合わせ目を崩し筋肉質で分厚い胸板の素肌に少し冷たい張りのある鼻先と呼気が触れ、その艶めきが酷くむず痒い。

「こら」
「貴方の良い香りがします」
「やめろったら、擽ったいだろ」
「…私に触れられるのはご迷惑ですか」

腰に回していた手を解いて掛布を持ち上げ覗かせた、知的に切れた瞼に沈む瑪瑙の瞳は、薄暗い部屋と困った顔をした十四郎を写して湖面の如く揺らめく。小さく漏らした声音とその色はどこか寂しげで十四郎の胸を締め付けた。
十四郎と名前の出会いは見合いであった。それから10年弱共にある。持病のある十四郎との結婚は順風満帆とはいかずとも、名前にとってはこの上なく幸せで、不満など無かった。尸魂界の秩序と均衡を保ち守護する警邏団 護廷十三隊の隊長の妻となるとはどう言う事なのかも、確りと理解していたつもりだった。しかし、夫の業務は予想以上に過酷で量も多く、帰宅は毎夜更けてからで、出迎える名前を気遣い常に笑顔を見せてはいるが、その顔には疲労が浮かび、痛々しく、彼女を不安にさせていたのだ。
十四郎は妻の不安の全てを理解したわけでは無かったが、堪らず、詩集を閉じて掛布を頭まで被って、潜り込んでいた名前を覆うように抱きしめて顔を寄せ、彼女の冷たい唇を一度吸う。2人の体温により温められた布団の中は、暗さも相まって母の胎のように心地よく微睡みを誘った。

「…少し照れ臭かっただけで、あんな顔をさせたかったんじゃないんだ、すまん。自分の妻に触れられて、迷惑な訳ないだろ」

もう少し、こうしていよう。
十四郎のとろける声音が髪の隙間から覗いていた耳介を撫ぜて名前の全身に蜜のように染み入り、鼓動が高鳴る。幾度となく唇を重ねても毎度が特別で同じものなど一つとして無く、唇が重なる瞬間に、2人は出会った頃を思い出すのだ。

「十四郎様、私は貴方を何よりも愛しています。恋慕で身が焦がれる程に…ですから、貴方も私を愛していると言ってくださいませ。お前が必要だと、お前が愛おしいと、貴方の声で」

「おいおい、どうして泣くんだ。それ程不安か?俺は君を愛しているし、何よりも大切に思っているぞ。婚礼の儀で、君が白無垢を纏い恥ずかしそうに俺の手を取った瞬間から、君は、俺が一番愛し、守りたい人になったんだ」
「…はい」
「それは、例え離れていても、この身が朽ちたとしても変わらない。君には笑っていて欲しいよ。名前の笑顔は、疲れも病も忘れさせてくれるからな」
十四郎の大きく熱い手が名前の漆黒の髪を撫ぜ、凛々しく上がった目尻には薄く柔らかい唇が何度も口づけを施し涙の跡を崩してゆく。ふたりは抱き合ったまま、時計の短針と太陽が真上に上がる頃まで眠った。布団に潜ったままで息苦しくあったが、名前にとっては幸福で、十四郎もそれは同じであった。