2話

「名前、見てみろ。雪が降ってるぞ。」

 隊舎に向かう時間となり、身支度を済ませていざ出立と木枯らしに揺れて小さく鳴る扉を寒さに悴む指先で引き外を見た十四郎は、昨夜までとは違う様子に思わず声を漏らし、玄関先で自身を見送らんと上り框にて待つ妻に思わず声をかけた。

「本当。昨晩は酷く冷え込みましたもの。」

 どこか嬉しそうに声音を弾ませて言う彼に、名前は呼ばれるままに下駄をつっかけ、真白の牡丹雪がはらはらと舞う様を見て穏やかに笑う夫の傍に寄り、声を漏らすたびに漏れ、緩やかに宙に溶け出して消えていく白い吐息を愛おしんだ。十四郎が出た後も、すっかり姿が見えなくなるまで見送る為にじっとその背中を見ていたが、見かねた彼が少し歩いたあたりで「はやく家に入りなさい。」と苦笑いで言うものだから、仕方がなく最後に一度だけ大きく手を振って玄関の戸を引いた。家屋の中に入ってしまえば身を切る寒風が遮られ外よりは幾分か暖かく感じられる。火鉢を焚いている室内なら尚の事、冷えた耳介が寒暖差にひりつきじくじくと痛み、柔い掌で包みながら、食卓の上に並んだ空の食器の片付けに取り掛かった。十四郎は、何を出してもすっかり食べてしまうものだから食事の支度は名前の楽しみになっていた。
 汲み上げた井戸水は酷く冷たく、彼女の少し荒れたか細い手を針のごとく突き刺して真っ赤に染め上げる。このままでは油汚れは落ちないから後程湯をかけて洗ってしまうし、ほかの食器も軽くすすいだ後で盥の中に水と湯を混ぜたぬるま湯を作ってそこで
洗うのだが、やはり濯ぎの冷水が肌に痛く、冬場の水仕事にはため息が漏れる。

 洗濯や掃除が粗方片付いて、手に香油を塗し擦り込みながら、名前はふと昨晩の事を思い出した。昨晩は、夕食を外で済ませてくるので先に休んでいるようにと十四郎より連絡を受け、湯浴みを済ませて直ぐに床についたのだ。とはいえ眠りに落ちる訳でもなく、寝室の暗闇の中、体温で温められた布団にもぐって眠気を待っていた。
 どのくらい経ったか、足音がこちらに近づき、いよいよ寝室の襖を引き足を踏み入れ、隣に敷いた布団までやってきた。どうにも咳が止まらないようで、きりなくゲホゲホと急き込んでは苦しそうに息をついている。溜まらず声をかけたのだが、咳で会話が途切れてしまい、薬を取る為布団から出ようとする名前に「もう飲んだから眠ってくれ」という夫に対して、何も出来ない自分が歯痒くてならなかった。病状が安定しないながらも、秋の暮れまではそこそこに落ち着いていたのだから発作的な咳は恐らく寒さからくるものなのだろう。
今夜は帰ってくると聞いている。今日の夕餉は久しぶりに桜鍋でも食べようと、香油の瓶を仕舞って鏡台を閉じ、箪笥から、香を焚きしめておいた羽織を取り出して外へと繰り出した。
 下駄で外に出てみれば、雪は止んでいたが、見ない間に随分降ったのか路面は濡れそぼって泥濘になっている。着物に跳ねないようそろそろと過ぎて砂利道へ上がったのだが若干の泥汚れが付いてしまい、名前はうんざりして天を仰ぐ。
 街は、寒空であるのに人の声に賑わっていた。とは言っても、瀞霊廷内に住まう住人達は、死神も貴族も皆この市に買い物に来るのだからそこに気温など関係はないのだが。雲が被膜の様に覆う空の下、悴む手を摩りながらカラコロと下駄を鳴らして往来を眺めながら歩く彼女を、どこからか呼ぶ声が聞こえてきて、名前ははたと立ち止まってそちらを振り向く。

「あら、京楽さん。」

 そこは絶品の団子を振る舞うと評判の茶屋の前で、店先の長椅子に腰かけて湯呑を傾け彼女を呼び止めたのは、夫の友人で同僚である京楽春水であった。京楽は、薄く笑んで立ち止まる名前を呼び寄せ、たっぷりのみたらし餡と胡麻餡がのった六連の団子の皿を差し出して食べるように勧め、売り子を呼び止め、彼女の分の茶を頼んだ。

「一人でどうしたの。お買い物?」

「ええ、夕餉の鍋の材料を買いに。」

「鍋、いいなあ。すっかり冬だから。」

「木枯らしが肌に沁みますわ。こんな日に外でお茶なんて、風流ですね。お休みですか?」

「僕が休日に隊長羽織着てると思う?仕事の合間にちょーっと雪を見に来ただけだよ。」

 手にしていた餡団子を咥えて串を横に引き、残っていた三つを一気に頬張って笑う京楽は名前よりも随分年上であったが、笑顔は少年のように悪戯でいじらしい。その気さくさは、名前を聞かなければあの京楽家の次男だとは誰も気が付かないだろう。運ばれて来た湯呑を手に小さく笑う名前に、京楽は「そうそう。」と切り出した。

「浮竹ね、最近調子が良さそうじゃないか。雨乾堂で寝込んだりもしてないし。」

「…咳は頻繁ですわ。昨晩も酷い発作で、」

「実はさ、昨日食事をしたとき浮竹が言ってたんだ。酷い咳をすると、見ている名前ちゃんの方が辛そうで胸が痛む。心配ばかりかけて申し訳ないって。彼奴は、病よりも自分のせいで君の表情が曇る方がきっと辛いと思うよ。」

「見つけましたよ隊長。」

 京楽の言葉に何も返せないでいた名前に意図せず助け船を出したのは、分厚い鬼道の書物を小脇に携え二人の前に仁王立ちして京楽を見下ろす、八番隊副隊長 伊勢七緒であった。眼鏡の銀縁をきらりと光らせ、黒々とした利発的な瞳で睨めつける様は、夜の森で獲物を捕らえた木兎にも似ていた。

「何してるんですか?」

「七緒ちゃん。迎えに来てくれたの?」

「連れ戻しに来たんです。」

「こんにちは伊勢さん。」

 呑気に声を上げる京楽に対して若干の苛立ちを隠そうともせず口元をひくりと痙攣させる七緒であったが、名前の声を聴いた途端に我に返り彼女の方へ向き直り、仁王立ちで開いた足を即座に閉じて声音を高くした。

「ア、奥様。お久しぶりです…!お元気そうで。」

「奥様はやめてと言っているのに。」

「そうだよ七緒ちゃん。奥様なんて色っぽい呼び方はやめて名前で呼べばいいのに。」

 その言葉に、「そんな、」だとか「浮竹隊長の奥様ですし…」だとか尻すぼみに言い訳をしてから、本来の目的を思い出したのか眼鏡の弦を中指で引き上げ眼光をまた鋭く京楽に向き直り「隊長印が必要な書類が山積みな上に、今日は隊内定例会議の日です。さっさと戻って仕事してください。」と耳を掴んで半ば強引に京楽を連れ帰っていった。
 去りゆく二名に手を振りながら、名前は京楽の言葉を何度も咀嚼していた。
夫が病を患っている事、隊長の仕事、彼の命の危険等結婚する前から分かっていた事だ。しかしそれを仕方がない事だと受け入れられる程、名前は早熟していなかったのだ。彼に包まれている時でも、彼の死が頭を過り堪らなく胸を締め付け、笑顔を心掛けても彼がいない夜は涙をこぼしてしまう。
 また雪がちらつき始めた曇天は、すっかり冷めた番茶を飲み下しながら上を向いた彼女の瞳に淡く刺さって、瞼の裏に白い像を焼く。その白は彼女の夫の髪の毛に似ていたから、名前の息は、また切なく浅いものになっていった。


 食事の支度をしていると、十四郎が、外の香りをつれていつもより大分早く帰宅した。受け取った羽織はひやりと冷たく濡れていて、外はまだ雪が降っているようだった。夕食は、元来食事が好きな事とこの寒さもあり十四郎はいたく喜んだし、それを見た名前も幸福感で満たされ、久しぶりに共にとる夕食に満足していた。
 食事を終え、お互いに湯浴を済ませてから床につき、名前は微睡に包まれて眠りに落ちかけていた。半ば眠っていたのかもしれない。

「名前」

 名前を呼ばれて意識が浮上する。先ほどまで付いていた読書灯が消えていて、眼前には濃厚な夜の闇と障子を透けて淡く光る外の空の色が広がっていた。気のせいか、と身じろぎしてまた眠りにつこうとすると、今度ははっきりと「名前」と名を呼ばれ、彼女はそちらへ向き直る。

「じゅ、しろうさん…?」

「すまない。眠っていたか。」

「いえ…お具合でも悪いんですの?」

「…寒くて眠れそうにないんだ。そっちに行ってもいいか?」

 暗闇で顔は見えずとも、その声で彼がどんな表情をしているのかが容易に想像でき、名前はその愛おしさに微笑みながら、子に言い聞かせるように「どうぞいらっしゃい。」と声をかけた。返事を聞くや、十四郎はそろそろと彼女の布団に潜り込み、掛布を捲り上げた拍子に流れ込んだ冷気を彼女の肌に触れさせまいと、くたりと横たわる彼女をすぐに抱き込み、花の芳香を放つ冷えた髪の毛に唇を寄せて目を閉じた。

「今日、京楽に会ったんだって?君の話をしたんだ。」

「私も、貴方のお話をしたのよ。」

「君は本当に心配性だな。可愛らしいが哀れにもなる。俺の体調次第で気分が落ち込み、心の中は夏の天気みたいに激しく変わるんだろ?」

「…私は、貴方を失うのが恐ろしいの。いつか、夜が太陽を奪うように死が貴方を連れて行ってしまう時が来るのが堪らなく辛い。」

「あぁ。どうして…どうして君は」

 そんなに俺を愛してくれるんだ。
 囁きと共に彼の吐息が髪の毛に籠って熱を持ち、じわりと頭の中に溶け込むような錯覚をする。骨を伝わる鼓動も波打つ血潮も十四郎の「生」を裏付け、名前は、抱える不安も死の恐怖も、一時少しでも隅に追いやる事ができた。

 死ぬのならこのまま一緒に死んでしまいたいと、夫の胸元を濡らす彼女を笑いながら夜は更け、また朝が来る。