Forth

 セベク・ジグボルトは自身が抱いている感情に困惑していた。先日、約束の時間よりも少し早く大食堂の扉を開けた時。ナマエがハーツラビュルの生徒と共に仲睦まじく菓子作りに勤しんでいる姿を見て、灼けるように熱く粘性のある何かが腹の底から湧き上がる感覚を覚えた。普段から大きいと言われる声は喉から放り出すのが精一杯で、それも告げるつもりの無かった言葉が無意識の内に転げ落ちていた。別段腹を立てる様な事ではなかった筈だ。予定が変わったのなら、踵を返して主君が待つ寮へ戻れば良いだけの話である。シルバーに抜け駆けされる事なくマレウスの世話が出来るのだから、喜びはすれど憤る要因は一つとして存在ない。
 セベクは約束を反故にされたと勘違いして気分を害していると思い込み、それこそ勘違いであるのに必死に弁解をした。両の眼孔に嵌った濃厚な黒に無表情の自分が写り込んでいる事を認め、此処で初めて自身の行動が愚かであったと悟ったのだ。

「トレイ君も味見してくれない?」

 料理の盛り付けがあるからとダイニングに追いやられた彼の耳に飛び込んできた言葉は、腹に渦巻く濁った感情を呼び覚ますに十分であった。あの日、自身の為だけに用意されたサンドウィッチを口にした瞬間に、今まで視界に留めようともしなかった厨房の女の存在が彼の中に深く刻み込まれ、その心を捕らえて離さないのだ。ナマエと出会って数日程度しか経っていないと言うのに、こんなにも執着する自分が理解出来ないでいた。それは、この後彼女とタルト作りをするだろう他寮の先輩を鋭く睨め付けてしまう程に強い感情である。
 自分以外には試作品を与えないで欲しいと告げた時、ナマエが見せたのは困惑に似た表情であった。「それを言う権利は無いと分かっている」と前置きはしたが、突然それを言われてもすぐには飲み込んでは貰えないだろうと、セベクは理解していたので理由を問われても動揺はしなかった。
 その問いには在るが儘に、包み隠さず答えた。結果として濁した言葉になったのは、その感情が如何云った物であるのか彼の中で答えが出ていなかったからである。彼女の反応はやはり鈍い。セベクの言葉を咀嚼して喉の奥に押し込もうと苦心している様にも見えたが、結局は彼の“願い”を聞き入れる事にしたらしい。驚き、嬉々としてナマエの瞳を覗き込めば、彼女は“ふい”と顔を逸らして表情を隠してしまった。仄かに色付くその頬が何を意味しているのか分からない程セベクは純朴では無かったし、彼もまた自身に都合の良い方へ解釈していたのだ。
 慌てて駆けていく彼女の華奢な背から視線を逸らせぬまま、彼は長い睫毛を何度も上下させて静寂の廊下に立ち尽くしていた。

「是非、御意見を頂きたいのです。」
「そんなもん、わしは知らん。」

 ディアソムニア寮 談話室。寮服である大きな上着に両手を仕舞い込み、両足をソファに乗せて唇を突き出すリリア・ヴァンルージュは可愛い後輩が漏らした「悩み」について意見を求められ溜息を吐いていた。
 確かにセベクは可愛い後輩で、彼が困っていると言うのなら最大限の協力を惜しむつもりは無い。けれどもその悩みというのがリリアにも良く解らぬ「恋」とやらだと察した時点で、話を聞く気を削がれてしまったのだ。御意見を、と言われても彼自身色恋には興味が無い。上手く答えられない物は下手に口出しせず「知らない」と切り捨ててしまった方が面倒にならずに済むと判断し、彼はセベクに向かって「知らん。」と回答したのだ。

「そもそも、お前の気持ちをお前以上にわしが理解している訳がなかろうよ。それは自分の中で決着をつけるべき問題じゃろうて。」
「それが分からないからリリア様に助言をお願いしているのです!」
「お前は本当に声が大きいのう…何時だと思っとるんじゃ。静かにせんか。」
「…僕はどうしたら良いのでしょうか。ナマエさんが他の男と並んでいるのを見て、こう…おかしな気持ちになってしまうのです。」
「ほぉ…。」
「大食堂での業務に関しては彼女の仕事ですから何とも思わないのですが、僕の為に作る夜の食事については“僕だけ”の為に作って欲しいと言いますか…。」
「ふーん…。」
「こんな感情は初めてで、せめて何という気持ちなのかだけでも知りたいのです。」

 大きな体躯を僅かに前屈させ悩ましげに紡がれたその言葉に、今まで気の無い返事ばかりしていたリリアも流石に可哀想になり、再度大きく溜息を吐いて答えてやった。

「…嫉妬、じゃろう。」
「嫉妬…?」
「お前の預かり知らぬ所でシルバーがマレウスに褒められたと聞いたらどう感じる?」
「シルバーより先に若様に褒められる行動を取れなかった自分を情けなく思います。」
「ああそう…。それなら、試験でシルバーの方が良い点数を取ったと聞いたらどうじゃ?」
「シルバーより点数の低い自分を不甲斐なく思います。」
「駄目じゃこやつ。自分に厳しすぎる。」
「何故此処でシルバーが出てくるのですか!」

 嫉妬した事が無い人間など居ないと考え、彼が今までに嫉妬を抱きそうな場面を想像して幾つか上げてみるも、セベクはシルバーに嫉妬するどころか自身の力不足を呪うと答えた為今のやりとりが全くの無駄になってしまった事に加えセベクの声が大きい事をリリアは憂いた。これ以上濁してもセベクは納得しないだろう。

「ナマエが他の男と並んでいるのを見て気分が悪くなるか?」
「…はい。」
「ではナマエが他の男に触れられているのを見たら腹が立つと思うか?」
「はい。」
「ナマエを自分の側に置いておきたいと思うか?」
「…はい。」
「では答えは出ている。お前が抱く腹の底に蠢く淀みは“嫉妬”であり、嫉妬する原因はお前がナマエに好意を寄せているからじゃ。」
「好意を…?確かに彼女は優しく慈悲深い素晴らしい女性ですが…。それを言うなら僕はリリア様にも好意を抱いていますよ。」
「違う。そういうんじゃない。良い人だと思う感情と手元に置いておきたいという感情は全くの別物じゃろう?お前はわしを手元に置いておきたいのか?」
「そんな!恐れ多い。」
「じゃろ?簡単に言うと、お前のナマエに対しての好意は“恋”と呼ばれる感情じゃよ。」

 察しの悪い後輩の相手に疲れを感じ始めたリリアは、簡潔に答えだけを突きつける。対してセベクは、彼の「恋」と言う言葉を何度も反芻し凛々しい眉を寄せて何やら考え込んだと思えば途端に白い頬を紅潮させ談話室どころか寝室まで響き渡る程の大きな声で喚き始めた。

「いえっ、恋なんてそんな!僕はその…!!リリア様!また僕を騙すおつもりですね!?」
「そんな訳あるか。もう夜も遅いからの、わしは寝るぞ。」
「ええ!?そんなー!」

 リリアは、吊り目がちの瞳を見開き引き留めるセベクの声を無視してさっさと談話室を出て行った。恋心を自覚したセベクがこれから先どうアクションを取るのかは彼次第である。人生経験としては振られるも良し、結ばれれば尚良しである。この世界では10に満たない年の差などあってないような物だ。魔物が麗若い女を娶る事も珍しくはないしその逆も然りである。

「それはそうと、あの女子はナマエと言うのか。」

 寝巻きに着替えて柔らかいベッドに身を沈めたリリアは自身でも「今更かよ」と思える台詞を一人ごち、大きな血の色をした瞳を閉じて深い黒に意識を任せた。

 尊敬するリリアに助言を求めて漸く自覚した恋心を、セベクは未だに受け止め切る事が出来ないでいた。食事の時間になれば否が応でも彼女が勤める大食堂へ赴かなくてはならないのだが、カウンターに立つ際に視界に入る奥でフライパンを振るう彼女の姿を認める度、彼の顔は強張って周りが心配する程に赤く染まり上がる。頼まれた“試作品の試食”の時間も、ナマエの顔は一切見る事が出来ず一心に手製の料理を口に運ぶしかない。
 美味しいと告げた後の笑顔も、懸命に職務に打ち込む横顔も、寮へ戻る廊下を歩む際に見せる僅かに不安気な表情も、全てがセベクの胸中に“愛おしい”という感情を齎した。年上の女性に“愛おしい”というのは失礼だという自覚がありつつ、彼はその気持ちを抑える事が出来ないでいた。
 彼女の唇から自身の名が紡がれる度に心拍が高まり、少し荒れたか細い手で作り上げられた料理が舌の上を転がり血と肉となると思うと自分でも呆れる程に気分が高揚するのを感じていた。
 こんなにも浅ましく俗的な感情を抱く自身に半ば嫌悪し、どんな顔でナマエに接したら良いのかすら分からなくなってしまった頃、騒動は起きた。
 その日もセベクは彼女との約束の為、マレウスに断りを入れて大食堂へ向かっていた。こんな夜半に校内を歩き回る生徒は殆ど居らず、廊下の壁には彼の靴底が床を打つ音のみが響いている。今日も彼女は自分の為に手を煩わせ、その到着を待っているのだと思うと自然と頬が緩み体温が高くなった。重厚な大食堂のドアに設えられた真鍮のノブに手をかけ、入る前に表情を引き締めて一拍置きいつも通りにゆっくりとドアを開き足を踏み入れる。視線の先に居るのは皿に盛り付けられた美味なる食事と彼が腰掛けるであろう席の脇に座し、やっと来た彼に対して仄かに笑む彼女の姿だけがある筈であった。

「あっ、駄目…!」
「良いから寄越せよ。」

 セベクの瞳に映るのは、椅子に腰掛けて皿を高く掲げるナマエと、其れに覆い被さるようにテーブルに手をつき彼女が手にした皿の中身を掠め取ろうとする雄獅子の姿であった。怯え微かに震える彼女の腰を引き寄せて自由を奪うその背を視界に入れた瞬間に、セベクは自身の胸中は激しい怒りで燃え、熱い血潮が真っ直ぐに脳天まで湧き上がる感覚を覚えていた。
 長い脚で駆け出して獅子の襟首を掴み、彼女から引き剥がそうとするも男の身体は僅かに揺らいだだけで、セベクの思い通り、其の身体を彼女から離す事は叶わない。獅子は彼の行為に気分を害したように唸り声を上げ、ゆっくりと彼を仰ぎ見、鋭い相貌で睨めつけた。
 獅子基サバナクロー寮寮長であるレオナ・キングスカラーは彼の姿を認めると、明かな怒りを持って語気を強め更に威圧する。

「さっさと離せ。それで以って直ぐに土下座して謝罪するなら許してやる。」
「貴様こそ其の手を離せ。」
「俺が誰だか分かってて物言ってんのか?一年坊主。」
「もう一度言う、レオナ・キングスカラー。其の手を離せ。」

 未だナマエの腰に手を回したままのレオナに、怒りが頂点に達したセベクは瞳の色を強めて彼を射抜いた。双方何方も退かず睨み合いが続く最中、真先に声を上げたのは諍いの渦中にあり、威圧感のある男二人に板挟みにされた哀れなナマエであった。

「…別の物を用意するから、キングスカラー君は手を離して。」
「あ?」
「さっきも言ったけど、此れはセベク君の為に用意した物なの。お腹が空いてるなら別に此れじゃなくたって構わないでしょ。」

 先程まで恐々としていたとは思えない程喟然とした物言いは、セベクの言う通りに“大人の女性”らしい。凛とした眼差しに捉えられたレオナは一度不満気な唸りを漏らしたが、間を置いて密なる距離から彼女を離しテーブルに頬杖を付いて了承の意を持つ返事をした。そして解放されたナマエは手にしていた皿を自身の向かい側に置き、立ち尽くすセベクに着席を促すと、厨房へ引っ込みとある包みを持って戻ってきた。

「はいこれ。」
「なんだこれ。」
「賄い。今日はハンバーガーだったから、キングスカラー君にあげる。これがあればお腹が空きすぎて眠れないなんて事はないでしょ。」
「…おい一年。次あんな真似したらタダじゃ済まさねェからな。」

 包みを手渡して薄く笑うナマエにレオナは渋い顔をしたが、素直に其れを受け取って満足そうな顔を見せたかと思うと、襟首を掴み喧嘩をふっかけたセベクに対しての怒りは忘れてしまったようで、それ以上は何も言わずに立ち上がり直ぐに大食堂から出て行った。
 残されたナマエは深く息を吐き首をぐるりと回してから腰を落ち着けテーブルに置いていたマグカップに手を添え、目を丸くし一連の様子を見ていたセベクに向かって微笑む。

「セベク君、ありがとう。」
「え?」
「助けてくれたじゃない。」
「あれは…。」

 あの行動は、困っている彼女を助けようとしたのは理由の一つでもあるが大元は個人的な怒りであった為、彼女の感謝を素直に受け止めきれないセベクは、其の笑顔を直視出来ずにいた。ナマエの細い腰に触れていたあの手も、殆ど隙間のない程に身体を密着させる様も憎悪の対象でしかなかったのだ。

「彼ね、眠ってる途中にお腹空いて起きちゃって、お世話してくれる後輩も出かけてて居なかったから仕方無く此処に来たんだって。それで丁度料理を持ってる私に出会して、あの状態になって。力は強いし駄目だって言っても諦めてくれなくて困ってたからセベク君が来てくれてほんとに良かった。」
「…役に立てたのなら何よりだ。貴女の困った顔は見たくないからな。」
「本当にありがとう。先輩に物怖じしないで駆け寄ってくれたセベク君、格好良かったよ。」

 “格好良かった”の一言で、今までぐるぐると自責していたセベクの淀み切った胸中は一瞬にして清清しく晴れ渡り、曇った顔も火がついた様に真っ赤に染まり上がった。そして其の言葉を放ったナマエもセベクに対して“特別な好意”を抱いている為に、自身の言葉に酷く動揺して其の頬を薔薇色に紅潮させた。
 互いに黙りこくって其の顔を見られまいと俯いているので、大食堂内は無人であるかの様に静まり返っている。そして言葉を探していたナマエは料理の存在を思い出し、上擦りながらもなんとか話を切り出した。

「あ、料理!料理冷めちゃうから食べて!今日は肉じゃがにしたの!私の出身国の家庭料理で昼食には丁度良いかなと思って!」
「はっはい!頂きます!」

 諸先輩方にする様に敬語になってしまった事にも気付かず、セベクは慌ててカトラリーを手に取り、柔らかく煮込まれた牛肉に先端を突き刺して勢い良く頬張った。正直、味は良く分からない。しかし彼女が作ったと言う事実だけで其の煮込み料理は只々美味に感じられた。

「どう…?」
「美味い。」
「セベク君はいつも美味いしか言わないね。嬉しいけど。」
「…貴女の料理は何でも美味しいと感じるのだから仕方がないだろう。」

 セベクが馬鹿正直に思いを告げれば僅かに平静を取り戻しつつあったナマエの表情が固まり、厚みの無い少し渇いた唇を僅かに開いたまま瞠目する。隙間から覗く、小さく白い可愛らしいエナメル質にセベクの視線は釘付けられていた。

「どうした?」
「は!?…あ、いや、セベク君が嬉しい事言うから少し吃驚しただけ。」
「そうか…。そう云えば、さっきは聞き流したが貴女は極東の国出身なんだったか?」
「うん。」
「貴女の顔立ちの珍しさは東洋由来だからだろうか。何処か不思議な雰囲気を纏っているな。」
「ああ…そうかも。ツイステッドワンダーランド近郊の人達とはちょっと違うよね。此処に来たばかりの頃は良く言われた。学校の人達もそうだけど目鼻立ちがはっきりしてて力強い綺麗な人が多いじゃない?だからこの顔がコンプレックスだったりするんだ。」
「そんな事はない!」
「うわっ、っ熱!」

 彼女の言葉を否定したセベクの声に驚きずらした手がマグカップに当たってテーブルの上を転がり、漣の様に紅茶が広がっていく。飛沫に濡れ、熱さに弾かれた宙に浮かぶ行き場のない手をセベクの手が捕え、二人は視線を合わせたまま動きを止めた。

「大丈夫か?」
「…うん。」
「すまない。僕が怒鳴ったせいだ。」
「カップ倒したのは私だから、気にしないで。」

 其れはナマエの本心から来る言葉であったが、セベクは眉を潜めるだけで手を離そうとはしなかった。痛まない程度にきつく握られた手から彼の体温が滲み、彼女の肌へ伝わっていく。

「…其方へ行ってもいいか。」

 ナマエは何も言わずに首を縦に振る。手を離して立ち上がり彼女の脇に腰掛けたセベクは、テーブルをしとどに濡らす紅茶等目に入らないかの様に、僅かに赤みを帯びた彼女の手をもう一度取ると、頭を垂れて顕になった自身の額に其れを押し付けた。彼女は驚きつつも其の行為を拒む事はせず、困惑した表情で彼を見つめる。

「僕はナマエさんに謝らなくてはいけない。手の火傷に関してもそうだが、もっと前から貴女に謝るべきだと思っていた。僕が貴女に初めて声を掛けたあの日。貴女が僕の為だけに初めて料理を振る舞ってくれたあの日から、貴女に対して浅ましく邪な感情を抱いてしまっていたんだ。当初は其の感情の正体が何なのか分からずに戸惑っていたが今は違う。貴女の声も、笑顔も、料理も、全てが僕の心を揺さぶり、捕らえて離さない。僕だけのものにしたいと、愚かにも思ってしまったんだ。だから、僕は貴女に謝らなくてはいけない。」

 愛の告白にも似た懺悔は弱々しく、悲壮と後悔を孕んでいる。セベクは、自身が抱く恋慕を伝えてしまえば彼女が困る事を理解していた。彼女から見れば彼はただの子供で、職場である学校の一生徒に過ぎ無いだろうと考えていたからだ。溢れ出た感情の吐露への免罪符を請う為に謝罪を混ぜたのだった。未だ静かな彼女が一体何を口にするのか、一体何を言われるのか予想が出来ず、手を振り解かれるかもしれないし彼女の事だから優しい言葉で往なされるかもしれないと思うと彼は酷く恐ろしかった。
 けれどもナマエは怯える彼の手に空いている手を重ね、予想打にしなかった行動にセベクが顔を上げれば、彼女は慈悲深い聖女の様な微笑みを以て彼を包み込んだのだった。

「それなら、私も貴方に謝らないと。貴方の事は、ただ子供として慈しむべき存在だと思っていた筈なのに、いつの間にかそれ以上の愛しさを抱く様になってた。優しくて、私の料理を美味しいと言っていつも残さず食べてくれるセベク君の事が好きになってしまったの。あの日、私のサンドウィッチを喜んで食べてくれたでしょ?あの時にね、料理を誰かに食べてもらえる喜びを思い出したんだ。忙しくてただ疲弊してた私に、この職業に就く事を決めた日の気持ちを思い起こさせてくれた。私にとって、貴方はただの生徒でも、子供でもない。…こんな事言われても困るかな。ただ貴方が私を想ってくれている事を謝ったりしないで欲しくて、伝えなきゃって思ったから。」

 気が付けば、困った様に笑うナマエをセベクは堪らず其の大きな体躯に閉じ込めていた。只々愛おしくて堪らない。穢らしいと思っていた感情が、彼女も同じ思いを抱いていたと知るや忽ち甘く煌びやかな物に感じてならなかったのだ。抱きしめる力が強かったのか腕の中で呻くナマエの肩を掴み慌てて身体を離せば、彼女は力無く、それでいて何処か幸せそうな表情を浮かべていた。涼やかな目元が緩やかな曲線を描いて下がり、うっとりとした微笑みを湛えている。

「貴女の仕事は料理だから僕以外に貴女の料理を食べさせたくないは言えない。だがこれからもこうして、たまにで良いから僕の為だけに料理を作ってくれないだろうか。」
「勿論良いよ。…じゃあ、私もセベク君にお願いしても良い?」
「僕に出来る事ならなんだって。」
「それじゃあ、私以外の女の人にこんな事しないで欲しい。」

 はにかみつつ口にした其の言葉に、セベクはまた彼女の肩を引き寄せて華奢な身体を掻き抱くと、艶やかな黒髪に隠れた耳元に薄い唇を寄せ、甘い色を乗せて吹き込んだ。

「こんな事は生まれて初めてした。貴女以外の女性にする筈がないだろう。其の髪の一本まで僕にくれるのなら貴女の願いは必ず叶える。」

 静謐なる大食堂。広く寂しい空間でお互いの体温を交換する二人の男女の傍では、中身が綺麗に平らげられた皿が照明を反射して煌めくカトラリーと共に、ただの水溜りと成り下がった紅茶の海に寄り添って沈んでいた。