寓話の乙女
セベクとナマエが初めて口付けを交わした日から一週間が経ったある日の事。
照明が落ちた薄暗い大食堂にて。カモミールティが湯気を立てるティーカップを傾けながら、リリア・ヴァンルージュは息子同然に愛で育ててきたセベク・ジグボルトの恋人であるナマエの、陰鬱とし何処か心疚しさを孕んだ表情を眺めていた。黄金の液面に視線を落として口を開こうとしない彼女は、リリアが百年の時を生きているという話を耳にし、心根に澱み絡まる憂虞を打ち明けるべく今宵彼を此処へ呼び寄せたのだ。
一向に切り出さない彼女に、リリアは小さな溜息を吐いてからソーサーへカップを下ろし、子供を説く母親のように穏やかな声音を以て問い掛けた。
「ハーブティーを振る舞う為だけにわしを呼んだのでは無かろう。…何があった。」
「リリア君、いやリリアさんに相談があるんです。」
「なんじゃ改まって。リリア君で良いわ。堅苦しい敬語も要らん。相談事を聞かせてみろ。」
「セベク君の事なんだけど、隠してきたのには理由があって。私と彼はその、歳が離れてるでしょ。学生と職員では体裁も悪い。彼が白い目で見られるのは嫌だったし私自身の保身の為でもあったのだけど、実際の処リリア君はどう思う?貴方、見た目は子供だけど百年も生きてるって聞いたし、セベク君と近しい間柄だから見解を聞きたくて。」
雲母の如く何処までも深い黒がリリアを見詰めている。彼女の憂いを聞き遂げた時に彼の心に浮かんだのは『そんな事か』という安堵である。セベクが蛇となり彼女に預けたのは、二人の逢瀬の機会を取り持つリリアなりの配慮のつもりであったのだが、今宵の彼女の表情を見て、もしやあの三日間の間に二人の関係に影を指す出来事が起こってしまったのかと憂慮していたからだ。
「見解も何も、お前たちはお互いに恋慕しているからそういった関係に発展したんじゃろ?なら何の問題も無かろう。口付けまで済ませておきながらそんな事で悩んでおったのか。」
「なんで知ってるの!?まさかまた、」「セベクは何にも言わなんだ。顔を林檎より赤くしてお前の部屋から帰ってきたあやつの頭の中をちょっとばかし、な?」
「そんな魔法まで使えるのにどうして学校通ってるの…。」
「歳の差と言ってもほんの数年じゃろうて。わしからすればセベクもお前も赤子同然じゃ。生まれも種族も違えどお前たちは惹かれ合ったのじゃろ?年齢なんてものは恋の障害にはなり得んよ。」
「うん…。」
「そんなに気になるのならセベクに直接聞いてみるが良い。奇異の目で見る連中が居ようものならあの大声で怒鳴りつけるじゃろ。」
リリアの軽口に、ナマエは鼓膜が痛む程のあの声量を思い出して口元に笑みを浮かべた。そして、未だ熱いカップを手に取り一口含んでから長い睫毛を揺らし再度彼を眺め見て、カモミールティーと共に舌の上を転がっていた言葉を告げる。
「ありがとう。流石年長者だね。悩んでたのが馬鹿らしくなってきた。」
「長く生きていると若い魔女や魔法士が皆可愛らしく見えてくるものじゃ。それにお前はセベクの恋人じゃろ?家族になるやもしれぬお前を如何にも気に掛けてしまう。」
「それはちょっと気が早いんじゃ…。」
「何を言う。次のホリデーは茨の谷に連れて行くからそのつもりでな。」
「えっ!?」
ころころと表情を変えるナマエをリリアが愛おしく感じるのは、彼の言う通りに慈しみを抱いていたからである。シルバーやセベクを息子とするなればその恋人である彼女は娘となるだろうか。女の子共を育てた事が無いリリアは、初めて出来た娘(のような存在)に嬉々とし悠久を刻んできた心臓を踊らせていた。
「まあ冗談はさて置き。交際を秘密にしてきた分、お前たちは共に過ごす時間が少なすぎたじゃろ。明日は丁度セベクもナマエも休日なのじゃから何処かへ出掛けてみるのも良いと思うがな。」
「それはデートして来いって事よね。」
「なんじゃ嫌なのか?」
「嫌じゃないけど急だし。それに、セベク君は外出申請を出さないと学園の外には出られないでしょ?」
「心配ない。わしがもう出しておいた。」
「…でもセベク君にも予定があるかもしれないし。」
「セベクの休日はマレウスの世話に宿題に、乗馬と飛行の訓練。あとは毎日欠かさず行っている筋力トレーニングなんかもスケジュールに入れているとは思うがこの提案をしたら迷う事無く『行く』と答えたぞ。マレウスには平謝りじゃったが。」
「マレウス君はなんて?」
「マレウスは元々あやつの世話を欲してはおらん。楽しんで来いと言ってた。…さて、ハーブティーのお陰で少し眠くなってきたの。“子供”は寝る時間じゃな。」
マレウスに仇為す者に容赦せず、彼を慕い必死で付き添っているにも拘らず実としてそのマレウスは彼の世話を必要としていないと聞いてセベクに憐れみを抱いているナマエに対して、リリアは先程『見た目が子供』と言われた事への意趣返しとして言ってやり席を立つ。
天井に近い壁に設えられた時計を見やれば就寝の時間が迫っていた。
「ごめんね。遅くに呼びつけて。ありがとう。すっきりしたわ。」
「不要な遠慮じゃな。ではおやすみ。」
「おやすみなさい。」
「そうじゃ言い忘れておった。明日の十一時に鏡の間で待ち合わせじゃぞ。遅れるな。」
真紅の瞳を片方閉じて言い放ったリリアは一度カップに手を翳してからナマエに別れを告げ大食堂を後にした。華奢な彼の背を見送ってから片付けを始める為にリリアが使用していたカップを引き寄せれば、其れは底に一滴の濁りも見せない処か使用前よりも綺麗に磨かれ陶器の肌に薄い光を反射させている。先程手を翳したのはこの為だったのだ。
自身のカップを濯ぐナマエの脳内にはリリアの言葉が反復している。彼に相談した事により、世間体と保身の為にセベクとの関係を疚しい物と考えていた自分が酷く浅ましく思えると同時に、自身が考えるよりもセベクに抱く感情が華やかで佳麗なのだと認識出来たのだ。そしてもう一つ、彼女は明日の逢瀬についても考えていた。学園の外で過ごす自分達の姿が全く想像出来ないでいる。早々に片付けと大食堂の戸締まりを終え自室に戻ったナマエは、明日に備えてスキンケアを念入りに行い、明日着ていく服を三時間掛けて選んだ後で漸くベッドに横たわり眠りについた。
草木の芽吹く初夏の香りがする。空高く燃える太陽が生き付く者達を暖かく照らす今日のような日和は出掛けるにはこの上ない最適な陽気である。
薄靄と光を湛えた鏡達に囲まれる中腕時計を覗き込むセベクは、まだ来る筈のない恋人を待っていた。
リリアに『ナマエと出掛けてこい』と言い渡されたのが二日前。馬術部の練習を終え、着替えの為に自室へ帰る最中の事である。先日の口付け以降、彼女と二人きりで顔を合わせる機会の無かった彼はナマエの香りと温もりに飢えていたので二つ返事で了解し、リリアの隣に控えていたマレウスへ、留守の最中は身の回りの世話を引き受けることが出来ない旨を只管に謝罪した。
そして今日はその当日。昨夜は気分が高揚して寝付きが悪かったセベクであるが気合で乗り切り無理矢理眠った為、其の肌には隈一つ見えない。約束は十一時であるのに三十分も早く寮を出た彼を、シルバーは呆れた目で見ていた。
彼女が来るまで手持ち無沙汰となり、鏡の間の中央で視線を行ったり来たりさせているセベクを、丁度寮から出てきたジャックが訝しげに見ていたのだが彼はそれどころではない。逢瀬、即ちデートというのは、マレウス一筋で意中の相手すら出来たことの無い彼にとっては生まれて初めての事なのだ。それも相手はあのナマエである。この瞬間、彼の脳内はナマエで一杯になっているのだから同級に向ける意識などは砂の粒程も残っては居ないのだ。
「セベク君!ごめん、待たせたみたいだね。」
「っ!いや、僕が早く来ただけ、」
そわそわと、視線を彷徨わせていた彼の後方からナマエの声が聞こえ振り向けば、其処に見えたのは女神と見紛う麗しい女性の姿であった。勿論彼女がナマエであると、セベクはすぐに悟ったが様子があまりにも違うので一瞬戸惑ってしまった。普段結ったり下ろしたりを繰り返して毛先が跳ねている髪の毛は、光を反射させて天使の輪を作り、重力に従って全てが真っ直ぐ下を向いており、仕事のある日、所謂セベクと顔を合わせる機会のある日は最低限の化粧しか施されていない顔(かんばせ)も、頬は紅潮したように仄かに色付き、黒黒した長い睫毛は緩やかなカーブを描いて持ち上がっているし、唇も桃花色に塗られて潤んでいる。極めつけは服装で、皺一つない純白の七歩袖のシャツの下には裾が広がった歩く度に金魚の尾のように揺れる長めのスカートと踵が高い同色のパンプスを身に纏って居る彼女は、仕事中の彼女の姿しかしらない彼にとっては別人に見えたのだ。
振り向いたそのままの格好で静止したセベクに対し、ナマエもまた彼に触れようと浮かせていた右手を宙に彷徨わせたまま目を見開き、動きを止めていた。髪型や顔は何時も通りであり服装も白いシャツに黒のパンツスタイルとシンプルな物であったが、シャツの上からでも分かる彼の肉体が逞しく、普段よりも大人びた印象を抱いたからである。
お互いの私服に衝撃を覚え一言も交わさずに向かい合い口を薄く開いて視線を交えたまま硬直する彼らは、第三者の目には異様で酷く滑稽に映るだろう。二人は暫くそうしていたのだが、先に我に返ったナマエが一度辺りを見回してから彼の手を取った事により硬直は解かれることとなる。
「ご、ごめん。あんまり格好良いからじっと見ちゃって…。時間が勿体無いから行こうか。」
「いや、僕の方こそ…いつもと雰囲気が違っていたから…。」
「久しぶりに出掛けるし、何よりデートだから気合入れちゃった。…変じゃない?」
「変なものか!あっ、いや、すまない。良く似合っている。」
彼の大声に慣れ始めていた彼女は彼の声に驚く事無く心嬉しさを滲ませて微笑みを見せ、自分の発言に恥じらう彼の腕を柔く握り或る鏡の前へ立つ。鏡の間に設えられた『闇の鏡』と呼ばれる大きな姿見は、『薔薇の国』『珊瑚の海』『熱砂の国』『輝石の国』『茨の谷』など、他の場所へ移動させる力を持っている。外出に際し、ターミナルへ行かずともこの鏡一つで事足りるのだからこれ程有用な物は無い。ナマエは鏡に呼びかける為に開いた口をそのままに、とある事に気が付きセベクを仰ぎ「そういえば」と問いかけた。
「防水魔法は使える?」
「恥ずかしながらまだ…。」
「一年生なら当たり前だよ。今日は私が掛けてあげるからそんな顔しないで。」
「僕が未熟なばかりにすまない…。しかし何故防水魔法なんだ?」
「今日は珊瑚の海に新しく出来たレストランに行こうと思ってね。この間ロア…同僚に教えてもらったの。」
「珊瑚の海か。行った事が無いな。」
「それなら観光がてら色々回ってみよう。綺麗なところだから。」
防水魔法を施した後ナマエが闇の鏡に呼びかければ、冴え渡る海中の青と砂上を彩る一面の珊瑚礁が彼らの視界一杯に広がっていた。鮮やかな海藻は水泡と共に波に揺られ、洞窟の影から泳ぎ出る色とりどりの小魚達も絵画のようである。海面から指す日光で煌めく景色に言葉の出ないセベクは暫く視線を移ろわせていたが、隣で静かに表情を綻ばせて自身を見るナマエに気が付き気恥ずかしさを覚え咳払いをした。
「この世のものとは思えない絶景だな。」
「私も初めて来た時は驚いたよ。私の国にはこんなに綺麗な場所は無かったから。丁度そんな顔になってたと思う。」
「どんな顔だ?」
「瞼を大きく開いて瞳孔を窄めて、唇をきゅっと結んだ驚いた顔。」
片眉を上げ戯けて言ってみせるナマエに小さく唸ってから顔を引き締める。そしていつまでもこの場に留まっておくのは体面が悪いと判断し革靴を履いた足で歩みを始めれば、地上とは勝手が違っており僅かに体勢を崩してしまう。水に飽和した滑らかな砂が靴底に纏わり付き、浮力もあってか思うように体が前へ進まないのだ。先程の為体を挽回する為にもここはスマートに熟しておきたかっただけに、砂に対して大声で怒鳴りつけてやりたくなった。しかしナマエは気にも留めず、上体を揺らす彼の手を取り、踵を砂に埋めながら難なく市街地方面へ歩き出す。大男が華奢な女性に手を惹かれている光景は何処か異様であったが、鰭で優雅に踊る人魚達の視線が彼らを捉える事は無かった。
市街地は観光客や海に住まう人魚達で賑わっている。喧騒とも呼べる多数の言葉達に包まれ舗装された路上を其々の靴音を響かせ闊歩しながら、セベクは未だに繋がれた手を凝視していた。水の抵抗で地上より歩き辛いとはいえ、此処は介助が必要な程ではない。歩調を合わせ真横を歩む彼女は、握る手は先導を為していないと気付かず解こうとしないのか、其れを理解した上で手を離さないのか彼には分からなかった。そして傍から見れば熱い恋人同士に見えてしまっているのではないか(間違いはないのだが)と、生真面目な彼は思惟し一人赤面した。
人混みの中を数分歩き、彼女の歩みが止まった事で其れに倣ってセベクも立ち止まる。彼女の視線は手元のスマホと目の前の建物を行ったり来たりしている。落ち着かない彼女の様子を静かに眺めていると、ふと潤んだ唇から不安気な声が漏れ出した。
「此処、だけど…。」
「物凄い行列だな。」
「それはそうよね…話題のレストランが混んでない訳ないもの。」
セベクは、貝殻に縁取られた『transparent』と記した看板を眺め明らかな落胆を声に載せる彼女に対して掛ける言葉を選んでいた。余程此処の食事を味わいたかったのだろう。料理人という職業柄、他のシェフの料理を食す事で自身の舌を肥やし自分の腕を磨こうという思惑があったのやもしれない。肩を落とし俯く彼女が酷く不憫に思えた。
一方ナマエは、彼の思い描いた思惑などは無くただ単に自身の浅慮を嘆いていたのだった。ロアの話を聞き店の評判を調べて居たのだから混雑は予想できていた筈だ。であるのに予約もせずふらりと立ち寄り無様を晒し、時間を無駄にしてしまった事に肩を落としていた。然し此処で憂いた所で行列が消える訳でも無いので、気持ちを切り替え表情を明るく努めセベクへ向き直った。
「この分だと一時間以上待つ事になりそうだし、残念だけど別のお店に行こう。」
「いいのか?楽しみにしていたのだろう?」
「まあ…。でも折角のデートなのに此処で一時間無駄にするのは勿体無いから。それに、お腹空いたでしょ?」
肩に下げた小さな鞄へスマホを突っ込み先程までの憂いを払拭した晴れやかな表情を見せ行列に背を向けて歩き出すナマエに倣い、彼も行列に視線を預けたまま歩みを進める。辺りを見回しながら街を流し彼らが足を止めたのは、先程のレストランに程近い別のレストランの前である。硝子戸を押し開き足を踏み入れた店内は、『transparent』に対して閑散としており落ち着いた印象を与えた。恐らくは話題の人気店に客が流れてしまったのだろうが、腰を落ち着ける事が出来るのであればそれでも構わない。窓際の席に着きメニューを開いて各々食事を選びウェイターを呼び寄せて料理を示す。ものの10分程度で運び込まれた料理に、二人の視線は釘付けとなった。
ナマエはパスタを注文した。ムール貝と真っ赤な海老、ヤリイカがふんだんに使用された芳しいソースの香りが食欲を唆る其れは、彼女が食した事があるアッロスコーリオに良く似ている。海藻ばかり食べているイメージのある人魚の世界であるが、嘗ての海の王とその姫が珊瑚の世界と人の世界を繋いだ事に拠り人間の食文化も入ってきた
ので陸の料理に似た物があっても不思議ではない。
対してセベクは魚貝を香味野菜で煮込んだブイヤベースに似た料理を注文した。こちらも多くの食材が用いられ、にんにくとサフランの香りが鼻腔をくすぐる。
デートであるのににんにくを使用した料理を注文してしまった事に両名とも「しまった」と胸中で感じていたが、料理を前に抗うことは出来ず早速銀食器を手に食事を初めた。
セベクはスプーンでスープを掬い口元に運びながら、彼女の前に置かれた皿を見て僅かに驚愕していた。彼は大食漢である。一度の食事量が他の者よりも多く、女性であればその差は歴然としている。その量で満足するのだろうか、と口にはせずとも疑問を抱いていたのだ。ナマエは彼の視線には気付かずに、フォークでパスタを巻取り頬張ると黒黒した瞳を輝かせて小さく息を漏らし感嘆の声を上げる。
「おいしい…!」
「流石海の中…魚介が美味い。」
「陸の世界にも同じ様な食べ物はあるけど海の生き物の良さを知り尽くしてる人魚には敵わないね。私にはこんな味出せないもの。」
「確かに美味いが僕は貴女が作る料理のほうが好きだ。」
「…ありがとう。」
僅かな接触や言葉に赤面して動揺する癖自身は平気で恥ずかしい台詞を吐く彼に、ナマエは照れくささを覚えた。そして食事を進めながら、セベクは彼女の故郷について問うた。
「貴女の国にも海はあるのか?」
「あるよ。島国だから海に囲まれてるの。夏頃になると街に潮風が吹き込んで気持ちいいのよ。良く浜に行って貝を探したり釣りしたりしてた。駆け回って躓いてびしょ濡れになった事もあったな。」
「今の貴女からは想像出来ないな。」
「どうして?」
「僕から見た貴方は大人の女性という印象が強いから、砂に足をとられて転ぶ姿はどうしたって浮かばない。」
「そんな事無いよ。魔法学校に通ってた時だって変身薬の調合に失敗してネズミの耳が一週間消えなかった事もあるし、防衛術の実践で恋人を失神させた事もあったし。肝心な所でヘマしちゃうの。」
彼女は思い出話をしただけのつもりであったが、彼は其の中に出てきた「恋人」の存在に意識を絡め取られていた。彼女の少女時代に寄り添いあどけない振る舞いを其の目にしてきた顔も知らない男の存在がセベクの心に纏わり付いて離れない。然し焦燥は顔出さないので彼女が自身の失言に気付く事はなく、故郷の話を語り、食事を終えて店を出た。嬉々として観光を楽しむ彼女の隣で微笑みながらも彼の胸中には影が差し、最早街の風景など視界には入らない。艷やかな黒髪が揺れる度、長い睫毛が瞬きする度、おれが自身だけの物ではないと突きつけられているような気分になってしまうのだ。
暗鬱たる感情を抱えたセベクを置いて時間は流れていき、気付けば日暮れが迫っていた。休日とはいえそろそろカレッジへ戻らなくてはならない時間だ。二人の歩みは自然と帰路に着いていた。
人気の無い区画に出てただ静かに足のみを動かしていた二人であったが、セベクが後方へ腕を引いた為に彼女の体は反転し強制的に彼を向く。痛みは無いが突如襲った衝撃に驚き目を丸くするナマエの肩を大きな掌で包み、彼は其の顔(かんばせ)を緊張した面持ちで覗き込み浮き出た喉仏を上下させた。
「口付けしてもいいか…?」
「えっ、此処で?どうしたの?」
「…誤魔化しや嘘は好かないから正直に言うが、嫉妬してるんだ。食事の時に話に出た過去の恋人に。」
「…私そんな事言ってた?ごめん、」
「違う、謝らせたい訳じゃない。僕が勝手にみっともなくやっかんでいるだけだ。…以前貴女から口付けをせがまれた時、僕はさっさと済ませて逃げてしまった。だから今日は僕から…。」
眉尻を下げ情けない顔をしながらも必死で言葉を伝える彼が愛おしく感じてならない。勿論、セベクが自身を好いていて存外嫉妬深い性格であるというのは以前のレオナキングスカラーとの諍いで判明していた為如何とも思いはしなかったが、初心で奥手な彼が自ら口付けを申し出た事に驚きそして期待したのだ。何も答えず只首を縦に振ればゆっくりと顔が近付き鼻先が触れ、紅に染まった唇を薄い唇で啄む。付いては離れを繰り返し、子犬がするように濃い赤色の舌でひと舐めしてから漸く肩と顔を離したセベクを見て、彼女はキスの余韻に浸りながら薄く笑む。
「顔、真っ赤になってる。」
「…貴女も。」
「嫉妬してくれて嬉しい。でも不安になる必要はないよ。今の私が好きなのは貴方なんだから。」
肩に添えられたままの手に自身の掌を重ねたナマエは、グリーンの瞳を一心に見つめ安寧を与える如く柔らかな声音を彼に向け慈しみと慕情を以て微笑みかけた。
海面から差し込む橙の光が太い筋となって、見つめ合う彼らをスポットライトのように照らし出す。辺りには誰一人としておらず、甘美な愛に包まれた二人はおとぎ話の姫と王子其の物であった。