甘い血の匣
何かが床を這いずる音が聞こえる。腹這いになった何かが、腕の力だけで前進しようとする様な、気味の悪い音だ。
ロンドンの街には、今日も雨が降っていた。陰鬱な曇天の下を、降り頻る雨粒から逃れる様に俯いた人々が歩調を早めている。
大通りをから小さな路地に入ると一層雰囲気が重くなり、怪しげな男が突っ立ってデイビットに視線を向けたが、彼は気にせず目的地へ急いだ。
濡れた路面を10分程歩いて、デイビットはとある店の前で足を止める。窓ガラスは埃や泥で薄汚れ、店の内部は此処からでは全く窺えない。古びた木製のドアに設えられた真鍮のノブを下ろして前面に押しやれば、薄暗い店内の明かりにぼうっと照らされた店主が何やらボソボソと話しかけてきた。
コートについた雨粒を払い、デイビットは店主に言う。
「問い合わせた品が届いたらしいな。」
店主は黄ばんだ不揃いな歯を見せて笑い、彼を店の奥へと誘った。
黴と埃のすえた匂いが満ちた廊下を抜け、辿り着いたのは小さな石室である。軽い音と共に照らされた室内の中央には、大きな檻の中に閉じ込められた裸の女が、苦しそうな浅い呼吸を繰り返しながら横たわっていた。
「極東の見世物小屋に居たところを見つけましてね。本来なら生体は扱わないんですが、貴方はお得意様なので特別に取り寄せました。」
「御託は良い。金額を言え。」
デイビットの言葉に、店主は「ひひ」と気持ちの悪い引き笑いをしてから、希望の金額を口にする。高額過ぎる数字であったが、デイビットは眉一つ動かさずに小切手を切って、嗄れた手に紙切れを握らせた。
「これは歩けるのか?」
「今は足がありますから。しかし体力が相当落ちているので運んだ方が宜しいかもしれません。」
女は野を駆けた犬によく似た、荒く浅い息を繰り返している。無機質な石の床に散らばる黒髪は油絵の様な模様を描き、床で頬を潰して虚に此方を眺め見る瞳には暗澹とした闇が見えた。
店主から受け取った鍵を檻の穴に差し込んで回す。重い金属音と共に、扉はゆっくりと開き、彼は足を踏み入れた。女の、白くも薄汚れた肌に触れると、水気があり屍体の様に冷えている。
一度仰向けにしてから、自身が着ていたコートを掛けて首と膝の裏に手を差し込んで横抱きにし、檻の向こう側へと出ると、店主は「車をまわしていますから、どうぞ此方へ。」と恭しく頭を下げながら言った。
デイビットがこの女の存在を知ったのは、とある書物を読んだ為だ。この女は、ヒッポグリフやセイレーン、マーメイドと同じく伝説上の生き物として紹介されていた。記述を目にした当初は与太話だとしか思わなかったのだが、良く足を運ぶ“素材”を扱う店で興味本位で訪ねてみれば、店主は其れが実在していると言ってのけたのだ。存在しているのなら、是非この目で見てみたい。その生態や原理を調べてみたいと思い始めた。
自宅へ帰る道中、女が口を開く事は無かった。ただ虚な黒い瞳で真っ直ぐ前方を見て、人形の様に大人しく座っている。
運転手が開けたドアを潜って降車し、チップを渡してから女を抱いて自宅へ入る。
床に転がして置くわけにもいかないので、足でドアを閉めて、一旦ソファへと寝かせることにした。コートの下の身体は、肋が浮いて腹が窪み、胸部だけが僅かな脂肪で膨らんでいる。そして、脚部の肌には交互に波打つ鱗の様な模様が貼りつき、所々が青痣に良く似た色味に染まっていた。
この現象は、初潮を迎えた頃に始まると言う。母親から受け継がれた呪いなのだ。話を聞き出そうにも、女が正気に戻らなければ何も始まらない。デイビットは自室からシャツとタオルを持ってきて女が横たわるソファの背もたれに其れ等を掛け、暫く様子を見る事にした。
女が行動を起こしたのは、連れ帰った日の夜の事だ。別室で作業をしていたデイビットは、自身が立てている音ではない何か別の物音が耳に入った事で、その手を止めて部屋を出た。
何かが床を這いずる音が聞こえる。腹這いになった何かが、腕の力だけで前進しようとする様な、気味の悪い音だ。
暗い廊下を進み、女が居るはずのリビングの扉を開く。街灯の明かりがカーテンを透かして入り込み、室内を薄く照らしている。
ソファの下。絨毯も何も敷いていない古いフローリングの上に、全長2Mはあるであろう大蛇が這っている。艶やかな鱗は闇を体現した様な漆黒で、口の隙間から細くて薄い舌がちろちろと覗いていた。
デイビットは此れを待っていた。女は、成長と共に身体が動物へ変わっていき、いずれは永久的に動物となる血の呪いを受けていた。この女の家系は蛇であった様だ。
初期段階では他の人間と変わらない見た目で、意図せず変態する。中期は変態していない身体にも片鱗が残り、意識的に変態する事が出来る様になる。最終期は先程述べた通り、意志に関係なく永久に変態した後の姿で生きる事になる。
この女は今、意図的に変態している。その行動には意思があり、女は正気を取り戻したのだろう。変態した状態で人語を理解できるのか彼には分からなかったが、警戒されたまま絞め殺されては堪らないので声を掛ける事にした。
「オレはデイビット・ゼム・ヴォイド。君を購入した人間だ。聞こえは悪いが、保護したととってくれて構わない。君に危害を加えるつもりは一切ない。」
大蛇は頭を持ち上げて底の無い黒い双眸を向け、また舌を見せる。そして頭を縦に振り、身体をゆったりとくねらせて彼の足元に擦り寄り、脚に巻きついて上昇した。大蛇の身体は重く、締め上げる力も非常に強いものであったが、デイビットは冷静だった。
「明かりをつける。どうか驚かないで欲しい。」
返事は無い。ただ彼の身体にその太い胴を巻きつけて、ずるずると這い上がっている。天井から降り注ぐ照明の白い明かりが蛇の全貌を明らかにした。肩の辺りまでたどり着いていた頭は彼の頬に押し付けられ、胴を締める身体は、檻の中の女の肌と同じように水気を帯びて艶めいている。頭の先についた鼻孔でデイビットの匂いを確かめ、警戒しながらも彼を知ろうとしている。彼は黙って彼女の好きにさせた。
暫く身体を調べていた大蛇は、満足したのか昇って来た時と同じようにゆっくりと身体から降りて床へ戻っていく。そしてソファに掛けたままにしていた彼のシャツに潜り込みまた床へ降りると、漆黒の鱗に覆われた身体が白く柔い皮膚へと変わり、厚みの無い頭は徐々に膨らんでたっぷりとした髪の毛に覆われる。変態を解き、女の姿になった其れは、彼のシャツを身に纏い、脚を投げ出して床に座り込んでいた。
虚だった瞳には僅かに光が差し、ひび割れた唇を僅かに動かして何かを話そうとしている。漏れた言語は英語では無く、彼女は母国語を話しているのだと理解する事ができた。
「英語は話せないのか。」
「…。」
「英語は、話せないか?」
眉根を寄せて首を傾げる様を見て、デイビットがゆっくりと発音すると、女は睫毛を持ち上げて恥ずかしそうに辿々しい英語を口にした。幸い、デイビットは日本語を話す事が出来る。使いこなせる訳では無かったが、意思疎通に不自由しない程度には扱えたのだ。
「日本語で良い。」
「…なんだ。日本語話せるんじゃない。」
不満げに漏れたのは、少年の様に張りのある何処か色めいた声であった。連れて来られた時には人形の様にされるがままであった女だとは思えない程に声ははっきりと響き、瞳の色は力強い。唇を一度舐めて溜息を吐いた女に目線を合わせる様に蹲み込み、はだけた胸元の布を寄せてやる。
「君の名前は?」
「此処は何処。」
「オレの家だ。」
「貴方外国人でしょ。何県なの?」
「此処はロンドンだ。君は見世物小屋から運ばれて来た。」
「保護したって聞いたけど。」
「…嘘ではない。」
へえ。と今度は力無く漏らした。存外気丈な女の様だ。
「名は。」
「名前。」
「そうか。見た所、栄養が足りていない様だが何か食べるか?」
「…見世物小屋では蛇を食べさせられてた。あの店では水以外何も。それより真面な物ならなんでも良いからお腹に入れたい。」
デイビットは、蛇に食べ物を合わせた方が良いのか人間の食事で良いのか一瞬迷ったが、尋ねる事はせずキッチンに向かった。
テーブルに乗せられた食物を、女は汚らしく掻き込んだ。あの店に何日入れられていたのかはわからないが、長い事真面な食事をしていなかったのだろう。それでも死なずにいられたのは呪いの影響なのだろうか。
食べ進める様子を黙って眺めていると、あっという間に食事はパンを一欠片残して平らげられ、女はかけらを口に放り込んで手を合わせた。
「ミルクは飲まないのか。」
「牛乳嫌いだから。」
飢餓状態にありながらも好き嫌いを主張する様は何処か可笑しかったが、幾つか彼女に聞きたい事があったデイビットは其れを言及する事はしない。
「君は蛇を食べさせられていたと言ったが、其れは何故だ。」
女は大きく息を吐き答える。
「知らない。蛇女が蛇を食べる様を観客に見せたかったんじゃないの。私は小屋の目玉だったし、首を食いちぎって事切れた蛇をこれ見よがしに啜ったらお客は悲鳴と歓声をあげてた。」
「変態を不特定多数に見せたのか?」
「いいえ。座長も他の見世物達も私の正体は知らない。ただ身体に鱗状の痣があるってだけでスカウトされて、蛇女っていう強ち間違いでもない見出しをつけて売りに出されたから。」
「では君の母親は今何処にいる。」
「母さんは多分死んだ。小さい頃に突然消えて、父さんは私に『お母さんは事故で死んだ』と言ったの。でも母さんに呪いの事は聞いていたから、すぐに蛇から戻れなくなったんだって分かった。家の何処かで匿っていたのかもしれないし父さんが殺したのかもしれないけど、その父さんもそれから暫くして自殺したから本当の所は分からない。」
淡々と語られる身の上は非常に現実離れしていた内容であったが、デイビットは呪いについて既知であった為、それが真実であると飲み込む事が出来た。
女基名前は、覆われていない下半身が露出する事も厭わず大きく伸びをしてソファへもたれ掛かり、脇に腰掛けるデイビットへ向けて真珠の如く白い歯を覗かせて笑みを見せた。
「貴方は?私に何をして欲しいの?」
その言葉は、僅かな軽蔑と挑発を孕んでいた。見せ物として生きてきた自分をどう利用するのか、品定めしている様でもある。
「特に何も。強いて言うなら君の呪いについて研究させて欲しい。」
「貴方科学者?…違うか。科学者は呪いなんて非科学的な言葉を使ったりしないものね。」
「オレは魔術師だ。」
「そう。ま、此処で生活させてくれるのなら好きに調べたら良いわ。でも、鱗を剥いだり尾を切り落としたりしたら絞め殺すから。研究半ばで死にたくはないでしょ。」
「採血はする。」
「注射は嫌い。でもその位なら我慢しても良い。」
「そうか。…なんと言うか君は、」
「何?」
「強い精神力の持ち主だな。」
彼の言葉に名前は一瞬瞠目したが、直ぐに吹き出して、食物で満ちた腹を抱えてけらけらと笑い声を上げた。デイビットは自身の言葉の何処が可笑しかったのか理解できず、僅かに眉を動かして彼女に視線を送り続けた。
その視線に気付いた名前は、目尻に溜まった涙を今にも折れそうな細い指で拭い、軽く謝罪を吐きながら息を整える。
「第一印象と違った?」
「檻の中の君は今にも消えそうな程儚かったが、今の君は生命力で溢れている。」
「抵抗しても無駄な場合はじっとしているのが効果的でしょ。体力を温存できるし、弱った女には痛い事も酷い事もしないもの。貴方の前でお喋りになったのは、貴方は信用しても良い人間だって感じ取ったから。ご飯もくれたし。」
「気を許したという事か。」
「そ。これから毎日3食と寝る場所、たまにお菓子をくれるならもっと話をしてあげてもいいよ。」
「それは約束しよう。必要な物は用意する。まずは服があった方が良いな。」
「そうかもね。ああ、後はお風呂。お風呂入りたいんだけど。」
緩い襟を摘み上げて言う彼女にデイビットは頷いて見せたが、この恥じらいの無さは育った環境による物なのだろうかと素朴な疑問を抱いた。生活を共にするのであればその辺りは少しずつ改善させるべきだろう。
つづく