甘い血の匣2

 外出先から帰宅したデイビットは、つい先日に迎え入れた同居人の姿を見てドアの前で硬直した。勿論、ドアを開け放ったまま呆然と立ち尽くしていた訳ではなく、惰性で家の中へ入ろうとしていた足を一瞬だけ宙に留めたに過ぎず、すぐに平静を取り戻していつも通りにコートを脱いだ。同居人の女は彼の姿を認めると「おかえりぃ」と日本語で軽く声を上げ、すぐに視線を逸らす。
 彼が意表を突かれたのは、彼女がシャツ一枚を羽織って足を投げ出し、ソファで寛ぎながら彼のとっておきであるブランデーを開けてテレビを見ていたからである。確かに気を使うなとは言った。自分の家の様に寛いでくれとも言った。けれども此れは余りにも“気を抜きすぎ”では無いだろうか。家主である彼ですら、下着を着けずにソファに寝そべって酒を煽る事はしないし、しようと思った事もない。彼女は下着も服も持ち合わせては居ないのだから、身なりについては仕方が無いとしても彼の酒を開けて良い道理は無い。特にデイビットはそれらに関して気分を害した訳では無かったが、その姿に只々驚いていた。
 名前はその視線に気が付いたのか、鱗の様な痣が貼り付いた細い足を大きく振って体勢を立て、きちんと座って彼を見る。気不味いだとか悪い事をしただとか、申し訳なさから来る物ではなくただ彼が自分を見ているから何か用事でもあるのかと、話を聞く姿勢を取ったに過ぎなかった。底の浅いグラスに注がれた琥珀色を唇の隙間に流し込み一度大きく息を吐いて、鼻から抜けるアルコールの香りに酔いしれた後で漸く彼に問うた。

「何?どうしたの?」

 あっけらかんと言って除ける彼女に向ける言葉は特に無い。彼女がこの部屋に居るのは他でも無いデイビットが名前を購入したからであり、彼女はこの部屋で好き勝手生活をする権利を持っているのだ。それを理解しているからこそ、彼は何も“言えない”のだ。

「いや。君の服を幾つか見繕ってきた。気に入ると良いんだが。」

「ありがとう。着られればなんだっていいよ。この格好でも構いやしないのに。」

「其れではオレが困る。」

「何で?」

「裸同然の女が自宅を彷徨いているのは気が休まらない。」

 一心に彼を見つめていた黒瑪瑙の瞳が、にっかりと細められた瞼によって三日月の形をとる。グラスをテーブルに放り投げシャツがずり落ちて顕になった自身の肩に触れながら、部屋の入り口で立ち尽くしているデイビットに近付き、その身体を擦り寄せた。彼は彼女よりも頭ひとつ分以上背が高くあったから、彼を仰ぎ見る名前の顔は彼の胸の辺りに触れている。枯れ枝の様に細く軽い腕が彼の腰に回されて舐る様にゆっくりと指が這う。そして自身を覗き込む彼に向かって、ブランデーの香りを纏ったいくらかひび割れが埋まりつつある薄桃色の唇をうっとりと震わせて熱っぽい視線を向けた。

「それはどうして?」

「何故も何も道理だろう。服を着ろ。」

「男の人はこうすると喜ぶものでしょ。こんな格好をして少し優しく触ってやれば、猿みたいに興奮してお金をくれるんだから。」

「残念だがオレは違う。君は只の同居人で被験体だ。君にとってもオレは只の同居人だろう。」

「…確かに。したく無いなら別にいいや。身体を重ねるのは疲れるし、あんまり好きじゃ無い。そういえば、私がここで暮らす為の対価は被験体として身体を差し出すだけで良いって貴方言ってたもんね。」

 形の良い輪郭を指でなぞっていた名前は、デイビットの言葉を聞いてすぐに顔色を変え何事もなかったかの様にソファに戻り、空になったグラスへブランデーを継ぎ足した。そしてソファの脇に彼が置いた紙袋へ手を伸ばし、中に収まった衣服を全て膝の上へ乗せて一枚ずつ開いて確認を始める。
 彼が購入してきたのはワンピース3着と下着が5セット、靴が2足にストッキングが3足だった。デイビットは女性物の服を選んだ事が無かったので、全て店員に選ばせた。下着の店へ入る事を躊躇しなかった為、店員は僅かな不信感を抱いたが彼は気付きもしなかった。
 ひとつひとつ確認していた中で名前が気に入ったのは、身体にぴったりとフィットする形の夜色をしたワンピースであった。徐に立ち上がり袖を通した其れは、白い肌に映えて彼女に良く似合っていた。嬉しそうに裾を開いて微笑む様は妙齢の女性らしい反応であり、真面に育って来ていればこういった服を着て恋人と街を歩いていただろう。其れを思うと、僅かにであったがデイビットは僅かな憐憫を胸に抱いた。

「ありがとう。今日はこれを着て過ごす事にするね。」

「その前に下着を着けてくれ。胸が浮いている。」

「ああ…はいはい。」

 ワンピースを着用する際もそうであったが、彼女には恥じらいが決定的に欠けている。栄養失調で痩せているとは云え名前の身体は女性其の物に成熟しているのだ。彼にその気が無くとも、その振る舞いは些か危険である。名前が白い下着のセットを掴み、タグを歯で噛みちぎってからワンピースを着用し終えるまで、デイビットは自身が入ってきたドアを睨み付けていた。

「悪いが今日は採血をさせて欲しい。君の体が変態する仕組みが分かるかもしれないからな。」

「えっ、」

「採血は許すと言っていただろう。」

「許すというか我慢するとは言ったけど…。」

 いつに無く弱々しく絞り出された声に振り返れば、ワンピースを正しく着用した名前が眉尻を下げた情けない顔を見せていた。前で緩く組まれた指がもじもじと触れ合い、その視線は忙しなく左右している。

「どうした。」

「言ったでしょ。痛いのは嫌い。」

「痛くは無い。」

「でも針を刺すのでしょ。」

「それはそうだが。」

「じゃあ痛いんじゃない。」

「上手く刺す。」

「針は痛いし腕を締めるのも嫌。消毒液で拭いた後にすうすうするのも嫌。怖い。」

 デイビットがああ言えば名前はこう言う。要するに埒が明かないのだ。彼は注射が怖いと言う感覚を理解出来ないで居たし、彼女は兎に角肌に針を刺す事を嫌がる。彼女がこの家に来た日に取り付けた約束ではあったが、無理強いも出来ない彼にとっては非常に歯痒い状況である。
 困ってしまったデイビットは小さく息を吐きソファに腰掛けて、彼女がそのままにしていたグラスを手に取り一気に煽った。そして彼女がしていた様にソファに足を上げて横になると、金の睫毛を伏せて眠る体勢を取る。

「何してるの?」

「君が採血を拒むなら今日は何も出来ない。オレは少し眠る事にする。」

 唐突な行動に、今度は名前が戸惑っていた。拒否したのも、彼を困らせたのも自分であるが「する事が無いから寝ます」と言われると途端に申し訳無さが込み上げると同時に自分を残して眠ってしまおうとする彼に言い様のない感情を抱いたのだ。
 ソファの下に座り込み、既に小さな寝息を立て始めている彼の肩に手を添えて軽く揺するも瞳を見せる気配は無い。

「ね、ねえ。本当に寝るの?」

「…。」

「ねえ。起きて。寝ないでよ。」

「…。」

「他にやる事あるでしょ?呪いについて調べるなら本を読んだりさ。」

「…。」

「…採血、する?」

 小さく漏れ出した其の言葉に瞼を開けたデイビットは、自身の肩に触れる彼女の手を掴み「しよう。」と力強く答えた。狸寝入りをしていた事に若干の苛立ちを覚えた名前であったが、自分の口から採血を受け入れると言ってしまったのだから仕方がない。立ち上がる彼に腕を引かれ、名前は重い足取りで隣室へと向かったのだった。
 隣室は彼の作業部屋である。壁一面に設えられた本棚には様々な文献や書籍が隙間無く敷き詰められ、デスクの上にはよく分からない石の様なものや薬品が何らかの規則性を持って整然と並べられている。
 デイビットは名前の手を離してデスクの椅子に腰かけると彼女に壁側に寄せられていた丸椅子に座る様促し、銀のワゴンを引き寄せて採血の支度を始めた。そしてまた名前の腕をとりワンピースの袖を二の腕の辺りまで捲り上げて袖口をバンドで閉めて圧迫してから、人差し指と中指で肘窩を摩り血管を探る。

「血管が細いな。」

「失敗する?」

「一度で済ませる。心配するな。」

 名前は、血の巡りが止まった事により冷えていく腕に比例して全身の血の気が失せていく感覚を覚えた。消毒液を含んだ脱脂綿が肌に触れ、彼女の身体が僅かに跳ねる。そして彼が構えた注射器を見て、先端の煌めきに恐れを為した。

「やっぱりやめよう。」

「此処まで来て何を今更。」

「怖いんだよ。」

「世の中にはもっと恐ろしい物が溢れている。君も身を以て体験してきた筈だ。」

「それは過去の事。今齎されようとしてる痛みは比にならないのよ。」

「済ませて仕舞えばこれも過去になる。いくぞ。」

「ちょっと待っ」

 彼女の泣き言を聞いていてはいつまで経っても採血を終えられないので、デイビットは静止の声に聞こえないふりをして僅かに浮き出た青黒い静脈に針先を突き立てた。呼吸に混じって「ひ、」と引き攣った声を漏らしつつも、名前は注射器に取り付けられた容器に渾々と湧く生々しい赤から視線を逸らす事が出来ないでいた。呪いを受けたこの血も、ただの人の子と変わらない色をしていると目に焼き付けて置きたかったからである。必要な量を採取し終え、結合部に脱脂綿を添えながら引き抜かれた針に名前は大きく息を漏らす。道具を片付け始めた彼は、作業の手を止める事なく彼女に向かって声を掛けた。

「大した事は無かっただろう。」

「一発で入って良かったよ。上手なのね。」

 其の言葉に、彼女に対して見せる横顔は笑みを浮かべている。今回“大した事はない”と分かった彼女は、次の採血はそれ程抵抗せずに受けてくれるだろうと見越しての事だった。

「オレはすぐにこの血液を調べなくてはならない。君はリビングに戻ってくれて構わないが、どうする。」

「私も此処にいる。あっちに行ってもする事ないし。」

 名前はバンドが外れて解放された袖を戻し両腕を高く突き上げ大きく伸びをした後で、二人の間に置かれたワゴンを押しやり彼の腿の上に自身の脚を乗せる。視線を向ける彼に向かって「見てて」と柔い唇を持ち上げながら言った。デイビットは彼女の血液がたっぷり入った容器から手を離し、言われた通りに彼女の行動を眺めていた。
 背もたれの無い椅子の上で腰に重心を置き上体を僅かに後ろへ倒している。自然に顎が持ち上がり深い色の瞳が伏せられた瞼の中で朧げに揺らめいて、薄く開いた唇を厚みの無い真っ赤な舌がちらりと這う。膝下だけ顕れていた鱗状の痣が這い上がり裾から覗く白い腿をも覆いはじめ、揃えて置かれている脚が徐々に結合していった。嫋やかな女体が硬い鱗で覆い尽くされ、人の骨格を超えて一匹の蛇に姿を変えた。大蛇に変わる様というのは酷く恐ろしく悍しい筈であるのに、彼女の変態は優美である。
 漆黒の蛇は、人型に落ちたワンピースの中から頭を出してデイビットの足元から彼の膝に這い上がる。そして何度か身体をくねらせて膝の上で蜷局を巻き、猫の様に収まった。2M以上の巨体はそれなりに質量があるのだが、彼は何も言わずに赤が溜まった容器を手に取り作業を始める。検査項目は一般的な血液検査の其れに加え、宝石を用いた魔力反応の検査も含まれる。名前は時折頭を持ち上げ、デイビットの手に握られた彼の瞳と同じ色をしたアメジストを眺めては彼の顔に頬を擦り寄せ隙を潰した。冷えた鱗が肌に触れる度、デイビットは其の感触と温度に瞼を細めたが作業を中断しようとはしなかった。

「そうだ、言ってなかった事があるの。」

 検査がひと段落し、彼が用意した食事を二人で囲んでいる最中に名前がふと思い出したかの様に声を上げた。

「なんだ。」

「私が蛇になっている間は貴方には私の言葉が届かないでしょ?」

「何か話し掛けていたのか?」

「ほらね、意志の疎通が取れてない。でも解消する方法があるのよ。」

 小首を傾げるデイビットに向かって、ワイングラスに注がれた赤を翳しながら名前が言う。

「私の血を飲むの。」

「…。」

「分かるわ。抵抗有るよね。でも一度、一滴でも私の血に唇を触れさせれば蛇の私と会話する事が出来るのよ。私の父はそうする事で完全に蛇に成った母と意志の疎通していた。」

「伝えたい事がある時は人の姿をとればいい。」

「今はそれで良いけどね。私と貴方の付き合いがいつまで続くのか分からないけど、私が完全に人の姿を忘れてしまったらそうして。まさか蛇になった私を捨てたりはしないでしょ?」

 彼女は薔薇色の湖面を乱す様に唇の隙間に流し込み、僅かに紅潮した顔でデイビットを見つめていた。其の表情は笑顔であったが、銷魂と哀愁が影を差している。

「君は針が恐ろしいと言ったな。齎される痛みが恐ろしいと。」

「言ったよ。」

「では、必ず訪れる呪いの終末についても恐怖している筈だ。しかし君は噯にも出さない。それは諦めから来るものか?」

 皿の上でパスタを巻き取りながら踊る銀食器を止め、名前は数回瞬きをする。其の顔には如何なる感情も見出せず、デイビットは唇が動くのを待った。短い静寂の後、名前は口を開く。

「怖いわ。生理が来たと同時に生まれて初めて変態した日、『ああ私にもこの日が来たんだ』って思った。小さい頃から母さんが私に言い聞かせて来たこの日が遂に来てしまったんだって。身体が大人になるにつれて、私の身体は人から離れていく。末路を知っているから余計に恐ろしい。でも疲れたの。逃げようの無い人生に恐怖するのは。元々人らしい生活をして来なかったし、人の暖かさや優しさとも無縁で関わりを拒絶して生きてきたから蛇になったって“大した事無い”と思ってる。心も人では無くなってしまっているのかもね。」

「…そんな事は無い。出会って数日程度の男に言われても信用には足らないかもしれないが、君はオレよりも人間らしいと思う。」

「そう?」

「テレビを見て酒を楽しみ、食事で満足して笑う君が人では無い筈が無いだろう。君の呪いはただ蛇に変態するものでは無い。人が蛇に変態するんだ。あの大蛇は蛇ではなく、紛れもない君が蛇の形をとっているに過ぎない。纏う姿を変えても君は君だろう。」

「…慰めてるの?」

「事実と所感を述べているだけだ。」

「それじゃあ二度と人の姿に成れなくなっても私を大事にしてくれるわね。同居人が見窄らしい女から黒い大きな蛇に変わるだけだもの。」

 デイビットは、言い終えて食事を再開する彼女から視線を離せないでいる。彼が買い与えたワンピースを着てポモドーロを頬張り味わって嚥下する彼女は幸せそうだ。人を理解できない彼には名前もまた理解し得ない存在であったが、その満たされた顔は見ていて飽く事が無く長く見ていたいとさえ思えた。結局血液からは異常が見られず、つまりは成果を得る事が出来なかったのであるが、生活を共にする事で呪いについても彼女自身についてもその深遠に僅かにでも触れたいと思った。
 テーブル越しに手を伸ばし長く艶めく黒髪を手にとれば、名前はその意図を汲み取れず奇異そうに彼を見た。

「君が死ぬまで面倒を見ると約束しよう。」

 不穏な響きを持つ言葉ではあったが、彼女はパスタを頬張った時と同じ様に幸福に溢れた笑みを見せる。彼の言葉は彼女の欲しかった言葉であったからだ。人の優しさと暖かさを与えられる自信は無かったが、少なくとも見世物小屋の人間よりは彼女を慈しむ事は出来るだろう。人の身で生涯を終える事は能わずとも、人の心を保ったまま彼の側に寄り添い彼に看取られるのだ。
 名前を買い取ってから数日で目的が変化してしまった事は些事である。自身と年の変わらない娘を持った様な不思議な感覚に、彼もまた名前に向かって微笑みを見せた。