咎の森03
三.
西の太陽が差し込み橙色に染まる室内は外界の雑音から隔絶されて静まり返っている。
名前は自室の小さなベッドの上で、寄り添う彼の胸に頬を預け、規則正しい鼓動を聞きながら微睡んでいた。
「少し眠るか?」
デイビットの静かな囁きは、名前の無垢な耳朶を優しく擽る。彼の節くれだった指先が、秘められた花弁を辿るかのように、名前の背骨の曲線に沿ってゆっくりと滑り降りた。その柔らかな感触は心地よい疼きを伴う微熱となり、身体の芯へと甘やかに沁み渡っていった。
名前は彼の温かい胸に顔を埋めたまま、首を横に振る仕草を小さく繰り返す。昨夜からの数度の情事は甘美な倦怠を身体に残していたが、今はただ満ち足りた愛情の余韻となって彼女を柔らかく包んでいる。何よりもこうして彼の腕に抱かれている事実が、心の奥底から静かに湧き上がる充足感と幸福で彼女を満たしていたのだ。
彼の指が名前の柔らかな髪を一房すくい上げ、その絹の感触を確かめるように指で梳く。そして、淡い香りに誘われるように慈しみを込めてゆっくりと唇を寄せた。それは刹那の情欲とは違う、永く続く愛を確かめるような、祈りにも似た優しい口付けだった。
触れ合う肌から互いの想いが静かに流れ込み、境界もなく溶け合っていく。やがて唇は髪の毛を離れ、露わになった白い首筋や、浮き出た鎖骨の稜線へと降りていった。彼の熱を帯びた吐息が肌を掠めるたび、名前の身体は甘美な疼きに微かに震え、予感に息を詰める。彼の唇が辿った跡には、熱い雫が落ちたかのように熱の名残りがいつまでも燻っていた。
「綺麗だ」
零れた呟きと共に名前を見つめる彼の瞳には、慈愛と独占の欲が仄暗く混合して揺らめいている。名前はアメジストの放つ引力に強く惹きつけられ、眩暈を覚えながらも曖昧な微笑みを返した。
笑みを湛えた彼女の唇をデイビットの指先が辿り、そのまま、白く柔らかい頬へ滑る。予感に名前が瞼を下せば、彼の顔が近づく気配と共に、唇に柔らかな熱が触れた。名前が甘い吐息と共に僅かに口を開けば、彼の熱い舌が滑り込む。
先程の眩暈は、また幸福な浮遊感へと様変わりしていた。デイビットの丁寧な口付けは、彼の寵愛を一身に受けているのは紛れもなく自分であり、この世で最も大切な存在であるのだと言葉もなく伝えられている様で、胸の奥が擽られるような感覚がした。
穏やかながらも底知れないほどの熱量を秘めて口付けは続く。触れ合う角度を変えるたびに伝わってくるのは、焦れるような性急な情熱だけではない。
頬を包んでいた彼の手が静かにうなじへと移動する。掌の無骨な感触さえもが、絶対的な安心感と彼からの深い庇護を示していた。
深い口づけの名残りに蕩けそうな意識の中で、デイビットの指先が自分の背中から腰へと、徐々にその軌道を変え明らかに熱を帯びて下方へと探るように動き始めている事に気が付いた。それは先ほどまでの敬虔さとは違う、直接的で、躊躇いのない性的な欲求の香りがした。
次の情事をはっきりと予感させるその動きに、名前は内心で僅かな焦りを覚えた。
「あ……っ、ちょっと、」
掠れた声で彼の名を呼び、熱い肌を辿るその手首をそっと押さえる。火照った頬のまま、名前は困ったように眉を寄せて見せた。
「そろそろ何か食べないと」
「必要か?」
デイビットは、まだ熱の宿った瞳で彼女を射抜き、些事だと言わんばかりにさらりと答える。
その視線と声は、食事よりも名前自身を強く求めていると雄弁に語っていた。
「でももう一日中こうしてるし……夕方だし、」
つらつらと並べられたそれらしい言い訳に、彼は薄く笑んだ。それは嘲笑ではなく、羞恥を隠そうと必死になる名前を愛おしく思う笑みだった。
そして、彼女の弱い抵抗を宥めるように、再び唇を優しく啄んだ。
「たまには怠惰な休日を過ごすのも悪くないだろう」
その囁きと共に、彼女の額に再び柔らかな口付けが落ちる。静止しようとした手はいつの間にか彼の大きな手に捕らえられ、指を絡め取られていた。自由になったもう片方の手は、先ほどよりも更に大胆に名前の快楽を齎す箇所を刺激する。
「……だめだってば、」
微かな静止の声は、齎される刺激と止めどなく降り注ぐ口付けの前ではあまりに無力だった。結局の所名前の細やかな抵抗は空しく、なし崩しに情事へと引きずり込まれ、互いの熱を貪るように求め合うことになるのだった。
二人が空腹を思い出しキッチンで簡単な食事にありつけたのは、時計の針が限りなく天井に近付いた深い夜の事だった。
四.
都心を見渡すホテルのラウンジは柔らかな午後の光に満たされていた。大きな窓の外には煌めく高層ビル群が広がり、眼下の街の喧騒から離れたゆったりとした静けさが漂っている。
テーブルの中央には、銀色の三段トレーが置かれ、色とりどりのプティフールやフィンガーサンドイッチが芸術的に盛り付けられている。磨き上げられた銀のカトラリーと、繊細滑らかなボーンチャイナのティーカップは午後の特別な時間を静かに彩っていた。
「斎藤のインスタみた?一昨日産まれたんだって。すっごいかわいいの、見てこれ」
名前と向かい合う様に腰掛ける友人は、瞳を輝かせ端末の画面を見せながら興奮気味に報告した。上質な綿の白いワンピースが窓からの光を上品に反射している。
名前は学生時代の友人からの連絡を受け、ホテルアフタヌーンティーへ足を伸ばしたのだった。
ひと月に一度は顔を合わせている友人だというのに、女同士の会話というのはどうしてこうも止まらないのだろうか。共通の友人の出産報告から始まり、話は最近見た映画のこと、新しくオープンした店の評判など、話題は次から次へと供給される。
そして自然と互いのパートナーの話題へと移っていった。
彼女は安定した彼との穏やかな週末の過ごし方や将来へのささやかな計画を嬉嬉として語る。それらは、美しく整えられたこの空間や繊細に仕立てられた洋菓子のように完璧で眩く輝いていた。
友人が語る当たり前の幸福に、名前は強く共感しつつも、無垢な純白のティーポットから注がれる透き通った紅茶の水面を眺めながら静かに息を吐く。
αとΩ、βとβの様に、当たり前の幸せを掴むには相応の方程式がある。友人を含めた世間はその形に従い、謂わば身の丈にあった幸せを掴んでいるのだ。αがαと番えば優生思想と揶揄され、βがαと番うことを望めば高望みと謗られる。
それ程デイビットと自身の関係は不自然で、古びた吊り橋のように不安定で危うい所にある。
現実を改めて自覚させられる午後を過ごし、すっかりと陽が落ちた頃に帰途へ着いた。
春の宵、生暖かく湿った空気に街は澱んでいた。
帰宅の時間に交わり賑わう駅前の雑踏に、友人との華やかで満ち足りたアフタヌーンティーの記憶は、早くも色褪せ始めていた。
青信号を待っていると、ぽつりと一粒の水滴が頬を濡らす感覚がし、天を仰げばビルの明かりに照らされて細かい雨粒が降り注ぐのが見え、名前は携えていた傘を差した。つられるように周囲の数人も傘を開く。傘のせいで密度の高まった人波に押されながら家路を辿る中、ふと、見慣れた長身が此方に向かって来ているのが目に留まった。
その人影が正しくデイビットの物だと分かった瞬間に、名前の胸は高鳴った。
彼は今日、用事があると話していた。これから向かうのか、それとも帰宅の途中か。そんなことを考えながら、人混みを分け歩道を踏みしめる。もし帰宅途中なのであれば食事に誘うか、そうで無くても挨拶だけでも話をしたい。少女のような純粋な思いは、彼女の歩みを速めた。
しかし、彼女が声を上げるよりも早く、軽やかだった名前の足は縫い付けられた様に動かなくなった。
しとどに濡れたアスファルトが黒曜石の様に街灯を反射して不規則な煌めきを見せる。
名前は、デイビットと彼の「運命の番」を名乗るΩの女が肩を並べて歩いている様を、虚ろな目で凝視していた。
春の雨と眼の前で行われている裏切りは早鐘を打つ胸の芯と指先から熱を奪い、傘の柄を握る冷たい手は白む程に力んでいる。
男好きする清楚な服装の下に隠した肢体を蔦のように彼の腕に絡ませるΩの女は、優越感を湛えている。
唇は勝ち誇ったように弧を描き、まるで自分が主人公であると自負しているかの様だ。
『運命には逆らえない』
あの日、去り際に、女がデイビットに向けて放った言葉が繰り返し名前の脳内で木霊する。
激しさを増した雨音は、まるで名前の心に開いた無数の傷口から溢れ出す悲鳴のようだった。
二人の影は遠ざかる程に鮮明さを増し、名前の視界を鈍色の絶望で塗り込めていく。運命という抗えぬ力の前で、自身の存在はあまりにも脆く惨めだ。
行き交う人々は傘の下、それぞれの日常へと急ぎ足で過ぎ去っていく。その喧騒は名前の世界だけが静かに崩壊していく様を、より一層際立たせていた。
雨は容赦なく傘を打ち、名前の心に深く染み入った。雨に滲む街の灯りが歪み、立っているはずの地面が足元から崩れていくような錯覚をした。
やはり、そうだった。
あの男も、結局は父と同じだ。αという選ばれた性は、βのささやかな願いや幸福など容易く踏み躙り、抗いがたい本能のままにΩという運命を選ぶのだ。
信じていた時間も、彼だけが世界の全てだと思えた濃密な時間も、全てこの残酷な光景を目にするための、悪意に満ちた前座だったというのだろうか。
名前の中には確かな深い絶望と、焼付く様な激しい嫌悪の感情が渦巻いていた。息も出来ず衝動的に踵を返す。振り返ることさえ恐ろしくて、人波の中へ必死で逃げ出した。
降り注ぐ冷たい雫も無数の傘の壁も、胸を引き裂く現実からも、何もかもから遠くへ。
この身を引き裂く痛みから、一刻も早く離れたかった。
あの滂沱の夜を境界線として、名前の生活は過去からの逃亡そのものとなった。
黒い記憶を振り払うように住まいを移し、端末の番号を変えた。彼の声が決して届かぬよう、陽の光さえも遠慮がちに射す殺風景な部屋の錠を下ろす日々を過ごした。
この息の詰まる狭い世界から、デイビットという忌まわしい呪縛を根こそぎ消し去ってしまいたかったのだ。
忘却に救いを求め、自分に“相応しい”βを探してマッチングアプリにも登録をした。数人とメッセージのやり取りをして、何度か顔も合わせた。
その中の一人は、春の陽だまりのように穏やかで、嘘のない真直ぐな瞳をした男だった。優しい声で語りかけ、出会いの場に不慣れな名前を辛抱強く気遣ってくれる、どこまでも善良非の打ち所のない善人だ。
しかし、真っ当で健やかな優しさに触れるたびにデイビットとの記憶が蘇るのだ。肌を焼くあの熱、鼓膜の奥で今も木霊する低い声、そして心を射抜いて離さないアメジストが、予兆もなく五感を乱暴に揺さぶり、目の前にある穏やかな現実を薄情なほど容易く色褪せさせてしまう。
平凡で穏やかな幸福に背を向け、破滅的なあの恋を忘れられない愚かさ。差し伸べられた温かい手を無下にしておきながら、独りの夜には底なしの孤独に身を震わせる矛盾。
あまりにも身勝手で救いようのない自身の浅ましさを自覚するたび、名前は酷い自己嫌悪に沈んでいくのだった。
街路樹の緑が一層濃さを増し、季節が春から初夏へと移り変わろうとする。そんなひと月が過ぎたが、窓の外の世界がどれだけ眩しい光と色彩を取り戻そうとも、名前の心だけはあの冷たい雨の夜に固く閉ざされたまま色を失い、凍てついたように動かなかった。
その日もまた、冷たい雨が降っていた。
鈍色の空は低く垂れ込み、湿り気を帯びたアスファルトの匂いと排気ガスの淀みが、鼻腔に纏わりつく。繁忙期ということもあり業務が増え、その疲労で重い身体を引き摺りって、漸く我が家だと認識できるようになったマンションの階段を一歩ずつ踏みしめる。辿り着いた自室の無機質な鉄の扉の前に立ち、鍵を探している最中、ドアの下の僅かな隙間から、一筋の光が漏れ出ていることに気が付いた。
心臓が、警告するように強く脈打った。
否、不要な懸念だ。今朝は空が暗かった。電気を消し忘れたのだろう。
空虚な自己弁護を繰り返しながらも、皮膚の下を這うような予感を無視できない。それでも、日常という名の惰性に背を押され、冷え切った指先で鍵を捻った。
息を詰め、まるで深淵を覗き込むように、軋む音と共に重い扉を内側へ、ゆっくりと開いた。
玄関の明かりが灯っている事以外に、特に変わった様子は無い。
安堵し、扉を閉めて錠を下した。
郵便受けから抜き取った、見慣れぬ差出人の名が印字されたダイレクトメールの束を半ば投げやりに靴箱の上へ滑らせる。雨に濡れたパンプスの踵が、冷たい床を小さく打ち鳴らして脱ぎ捨てられた。短い廊下を抜け、いつものようにリビングの扉を開くと、不意に部屋の空気が密度を増したように感じた。
肌を刺すような濃密な静寂の中、雨に烟る窓枠を背景として、夜を濃縮して像を結ぶような影が聳えていた。それはただの影ではない。
長身の男の輪郭は、正しくデイビットだった。
理解した瞬間に呼吸と時間が止まり、激しい恐怖が脳髄を貫いた。思考など及ばす、ただ本能だけが、逃げろと絶叫する。
扉を開いて外へ出なくては。 反射的に縺れる足で身を翻すが、静寂の中から蛇のように滑り出た長い腕が、一切の抵抗を許さぬまま名前の細い肢体を強く捕えた。
喉の奥で圧された喘ぎは音にもならず、抗う術もなく部屋の奥の暗がりへと無慈悲に引き摺り込まれていく。
抵抗する名前の身体を、まるで意思を持たない物でも扱うように片手で壁に押さえつけたまま、デイビットは何の躊躇いもなくリビングのスイッチを押した。乾いた音が虚しく響き、無機質な白い光が闇に守られていた部屋の隅々までを無遠慮に暴き出す。名前の内側で息を潜めていた恐怖と絶望を容赦なく照らし出した。
「何故逃げた」
温度が欠落した静かな声が、張り詰めた空気を鋭利な刃物の如く切り裂いた。それは問いというより、断罪の響きに似ている。
全身を襲う震えは純粋な恐怖からだったが、あの冷たい雨の夜の光景が脳裏で鮮烈に火花を散らした刹那、自身の裏切りを棚に上げるその身勝手さに熱い怒りが腹の底から湧き上がった。
「貴方が裏切ったんでしょ……!?結局Ωを選んだくせに……何で!何しに来たの……っ!?」
名前は喉を引き裂くような叫びを上げ、抑えつけられた腕の中で必死に藻掻く。しかしその抵抗は、鋼鉄の鎖よりも強固な締付けの前では無力であった。
デイビットは名前の激昂を聞いても尚、愚かな子供を諭す様な昏い憐憫を孕む眼差しを向ける。そして彼はポケットから端末を取り出すと、その冷たい液晶を静かに指でなぞりながら言葉を続けた。
「咎の森を、最後まで読んでいないだろう」
まるで遠い日の記憶を手繰り寄せるよう言葉を紡ぐ。そして端末を片手に持ったままもう一方の手で静かにポケットを探り取り出したのは、ステンドグラスを模した繊細な金細工の栞だった。それは名前が愛用しており、咎の森を読んでいた時にも使用していたものだ。郵送で返却した際に回収し忘れていたのだ。
無慈悲な蛍光灯の下で、繊細な栞は蝶の翅のように様々な色を透かし鋭い光を放っていた。
「あの後、テオドールは子爵令嬢を絞め殺し森へ遺棄した。そしてルイーズにも遺体を埋める手助けをさせた。目撃者となってしまったルイーズが自身を恐れて逃げ出すであろうことを、テオドールは予見していたんだ。だからこそ、同じ罪へ彼女を引きずり込んだ。二度と自分から逃れられないように」
端末から目をそらさずに放たれたデイビットの声は、古い叙事詩を読み聞かせるように淡々としており、一切の感情が感じられなかった。
「恐ろしい男だ」
道徳的な非難や生理的な嫌悪は一切含まれない、微かな感嘆のさえ感じさせる静かな呟きだった。
そして既に抵抗をやめていた名前を解放し、操作していた端末の液晶を無造作に名前の眼前へ晒した。
光る液晶に写し出されていたそれは、何かを煮詰めて腐らせたような、粘りつく暗い赤色だった。熟れ過ぎて原型を失った柘榴のようにも、あるいは、打ち捨てられた臓物のようにも見える、ぐちゅぐちゅとした不定形の塊。
最初はただの汚ならしい染みにしか見えなかったが、名前の瞳は無慈悲にもその細部を拾い上げていく。ピントがゆっくりと、確実に合っていく。
赤に沈むこれは、肉だ。
そして、所々に絡みつく髪の毛と、人の肌の色をした、薄い皮のようなもの。
理解した瞬間、強烈な吐き気が胃の底から突き上げ、名前はその場に崩れ、堪らず嘔吐した。
床に蹲り、胃液で喉を焼かれながら、名前は浅い呼吸を繰り返すしかなかった。目の前の惨たらしい画像と彼が淡々と語った物語は悪夢となって頭の中で渦を巻き、現実味を奪っていく。理解が追いつかない。恐怖と混乱で、思考が完全に麻痺していた。
デイビットは、彼女を静かに見下ろしていた。
「驚いたか?発情期のΩというのは、絶命した後も身体からフェロモンを発するらしい。腐りかけた花が終わり際に強い芳香を発する様によく似ている。もっとも、肉片となってはそれも無意味だったが」
その場にそぐわない穏やかな声は、奇妙なほど良く響く。
その双眸は床で逃げ場を失い震える獲物を、しかと見据え執拗に捉え続けている。
「運命の番というのは呪いに近い。本人の意志に反して反応を示し、波風を立てる。あれは、オレの番を自称し、さも当然のように隣に収まろうとした傲慢な女だ。結果的にお前との交際の妨げとなった。運命、番など……実に不毛だ。障壁は排除するのが道理だろう」
その声の響きには、罪悪感や後悔の翳りは微塵も感じられなかった。ただ起こった事実を淡々と告げ、それ以上の意味を含まない音として名前の鼓膜を打った。
彼は床に広がった吐瀉物を躊躇なく踏み、蹲る名前の前に屈み込んだ。そして、怯え切った瞳からとめどなく零れ落ちる涙をそっと拭う。指先の冷たさに、名前の身体は大仰に跳ねた。
「オレが愛しているのはお前だけだ、名前」
愛の告白にも似たそれは、名前に対する一方的な制約を知らしめる呪詛だ。
あれ程愛おしいと見惚れたアメジストが、今は何よりも恐ろしく、その虹彩は底知れぬ狂気を映し出す闇の淵に見えた。
デイビットは、自身の元から逃げ出した名前を赦す如く、沢山の温もりと安らぎを齎した手を差し伸べた。
今や名前にとっては、どこまでも続く深い業へ引きずり込もうとするテオドールの手だ。
名前の震える指先が、意思とは無関係にゆっくりと彼へ引き寄せられていく。デイビットは白樺の手を決して逃がさない様、力強く握り締め、静かに震える身体を優しく抱きしめた。
稲光が走る空からは、依然として清廉なる初夏の雨が降り注ぐ。
雨のヴェールは、埋められた咎とルイーズの自由を内包して脈打つ、昏く湿ったあの森に似ていた。