咎の森02

二.

 春の陽射しは、薄いシャツ越しに、幼い名前の白く滑らかな背中に滲んだ。
 午前授業で昼食前の時間に帰途着いていた名前は、いつもより早く帰宅していつもより長く友達と遊べる喜びで胸を弾ませていた。いつも重いランドセルは少しだけ軽く感じられ、足取りも自然とスキップを踏むように軽やかになる。
 小川沿いに並ぶ桜達は、淡いピンクの花びらをまだ少しだけ残し、風が吹くたびにひらひらと舞い落ちる。木漏れ日がアスファルトを斑に照らし、影を踏みながら名前は鼻歌まじりに歩いた。
 時折どこかの家の昼食の香りが混ざった春風を感じながら、機嫌よく角を曲がればクリーム色の優しい色をした名前の家が見えてくる。庭の小さな花壇には母が植えたピンクと赤のチューリップが鮮やかに色付き、ぽってりと膨らんでいる。
 しかし、その見慣れた風景の中に異質なものが存在していた。家の前の駐車スペースには、父の黒のセダンが静かに佇んでいるのだ。磨き上げられた車体は午後の陽射しを鈍く反射し、朝と同じ様相を呈する。
 父は几帳面で、忘れ物などしない人だった。家を出る前には必ず持ち物を再確認する姿を、名前は何度も見てきた。だからこそ、この昼下がりに父の車があるという事実は、名前の幼い心に、小さな石を投げ入れたよう波紋を広げていく。
 そっと近付いたドアには鍵がかかっている。鍵穴に鍵を差し込むと微かな金属音が静かな午後の空気に響き、名前の肩が跳ねる。音を立てないようにそっと回し、重い扉をゆっくりと押し開けた。
 一歩足を踏み入れた玄関には名前の知っているいつもの家の匂いとは違う、少しだけ見知らぬ甘い香りが漂っていた。それは母の使う香水やハンドクリームの匂いではなく、もっと色香のあるよそよそしい香りだ。
 ひっそりと静まり返る吹き抜けの空間はいつもの帰宅時と変わらなかったが、その中で密やかな女性の笑い声だけが異質に浮いていた。それは名前がよく知る、母の少し低くて温かい笑い声とは全く違っていた。もっと高く陽気に弾むような、まるで鈴を転がした様な軽やかさを持つ笑い声だ。その声の主が誰なのかは見当もつかない。
 恐らく、知らない誰かが自分の家にいる。
 その声の正体を突き止めなくてはいけないという使命感にかられた名前は、足音を忍ばせゆっくりと階段に足をかける。
 一段上がるごとに笑い声は少しずつ大きくなり、その質を変えていった。下で聞いていた時は明るかった笑い声が、次第に何かを堪えるように苦しげに震える声へと変わっていったのだ。時折、低い聞き慣れた父の声もその苦しげな声の合間に重く響く。
 階段を登りきると、両親の寝室の扉がほんの数センチだけ開いているのが見えた。名前は息を潜め、痛い程に激しく鼓動する心臓を抑える様に胸に手を当て、その小さな隙間に瞳をそっと押し当てた。
 扉の向こうには、閉め切られたカーテンの隙間から漏れる僅かな光だけが頼りの薄暗い室内の中で、橙色の間接照明がぼんやりと両親のベッドの上を照らし出していた。
 その上で低い姿勢を保ち、妙ながらも熱を帯びた動きをしている肌色のそれは、幼い名前でも見てはいけないものなのだとすぐに理解できた。
 父は見知らぬ女の上に獣のように覆いかぶさり、女は父の激しい動きに合わせて喜びとも苦しみともつかない叫びを上げている。
 部屋には、今まで嗅いだことのない様な生臭く熱を帯びた空気が満ちていた。それは名前が以前「ダーウィンが来た!」で見た、野を駆ける獣たちの荒々しい息遣いを想像させる様な剥き出しの生だ。
 目の前で繰り広げられる醜悪な光景と、鼻をつく異様な匂い。悍ましい現実は一瞬にして名前の幼い頭の中を掻き回し、思考は真っ白に塗り潰されていく。
 胃の奥底からこみ上げてくる耐え難い吐き気に、名前は喉元を押さえて蹲るしかなかった。


 聞き慣れた着信音が、名前を悪夢の底から引き上げた。
 荒れる息をどうにか落ち着かせ、名前は薄暗い部屋を見渡せば、カーテンの隙間から差し込む街灯が静寂を照らしている。枕元では端末が眩い光を放ちながら軽やかなシロフォンの音色を奏で続け、その液晶には「デイビット」の文字が浮かんでいた。
 名前は瞼の裏にタールの様に張り付いた生々しい記憶の残滓を忌々しく思いながら、激しく脈打つ胸を抑えつけ通話アイコンをタップする。
 通話口から流れ込む彼の密やかな声は、羊毛のような温もりを孕み、陰鬱な影が支配する名前の心をそっと包み込んだ。

「すまない、眠っていたか」
「あ……うん、でも大丈夫。なんか用事だった?」
「いや、用事と言う程でもない。声を聞きたかっただけだ」
「そう、」
「何かあったのか?呼吸が乱れている」
「少し、昔の夢を見て……」

 端末を握る指には微かな震えが残っていた。
 名前は辛うじて言葉を紡ぎ出したが、忌まわしい悪夢は彼女自身の痛切な記憶を正しくなぞっており、αだった父の裏切りという生々しい傷跡を彼に開示する事は、遠回しに彼とあの女の事を暗示していると勘繰られてしまいそうで躊躇した。
 通話口の向こうで、デイビットはすぐには応じなかった。その静けさには責めるような鋭利さはなく、言葉にならない名前の胸の騒乱を感じ取り寄り添っているかの様だった。多くを語らない彼の沈黙は、時にどんな雄弁な言葉よりも深く温かい思慮だ。
 やがて、彼の声がその沈黙を破る。それは騒がしい喧騒の中で不意に響く澄んだ鐘の音のようだった。
 
「そうか」

 その短い肯定には、詮索を控えた優しさと静かな受容が滲んでいた。凍える夜に差し出された温かな掌の感触に似ている。
 名前はその情愛に触れ、強張っていた心の弦が弛緩していくのを感じた。

「そうだ。咎の森、三分の一くらい読んだよ」
「まだ三分の一か?」
「私にしては速い方でしょ?今は、テオドールの母親が子爵令嬢を連れてきたあたり」
「その本は後編から大きく物語が動き出す。少しずつ読み進めればいい」
「これから眠くなるまで読もうかな。早く結末知りたいし」
 
 名前はそう言って、通話口越しに小さく笑った。デイビットもそれに穏やかな声で応じ、二人の間に心地よい静けさが流れる。物語の続きへの期待感が、名前の心をわずかに浮き立たせていた。
 会話の間、時間は蜜のようにゆったりと流れた。他愛無い話を暫く交わし、ふと途切れた会話の隙間に、お互いの呼吸に聞き耳を立てる。
 デイビットは名前の様子が幾分落ち着いたのを悟り、一拍空けて声を掛けた。
 
「……落ち着いたか」
「だいぶね」
「夜中に悪かったな」
「ううん、起こしてくれてありがとう……おやすみなさい、デイビット」
「おやすみ」

 通話が切れても尚、会話の余韻は鼓膜に甘く残り続けていた。
 深く息を吐き出し、半ば癖の様にヘッドボードへと手を伸ばす。無機質な光沢を放つ電子煙草を手に取り、スティックを差し込んでから深く吸い込めば喉の奥で微かに熱を感じる。吐き出された紫煙は、名前の周囲に薄く独特の香りを漂わせざわめく心を僅かに鎮めた。

 名前がαとΩの間に存在する本能的な結びつきというものを酷く嫌悪するのは、夢に見た、彼女の父親との確執が原因だった。
 父はあの時の女を選び、母と名前を捨て家を出た。
 αとΩの、まるで磁石のように引き寄せられ抗うことのできないその力は、積み重ねてきた信頼と愛情、人間として備わっている理性を容易く凌駕する。そんな繋がりを美しいものだと語る者もいるが、名前にはただの動物的な衝動にしか見えなかった。血の匂いにおびき寄せられ、本能のままに貪る獣との違いが分からない。
 そして、本能に抗えない生物は、いつか自分を裏切るのだと自身に言い聞かせて生きてきた。

 何年も見なかったあの夢が舞い戻ってきたのは、恐ろしく出来の悪い映画作品との遭遇、そして何よりも、二週間前に邂逅した運命の番を自称する女が原因に違いない。
 唇から零れる煙は揺らめき、輪郭の定まらないデイビットとの未来に似て朧げだった。
 もしあの女が本当に彼の運命の番であったとして、名前はただ静かに彼の前から消え去るしかないのだろうか。
 出会った頃からデイビットに惹かれる女性は後を絶たず、彼は人を惹きつける魅力に溢れた男性だった。αという特別な属性を抜きにしても、多くの人々が彼の傍に侍る事を望んだだろう。
 彼の生物としての優れた魅力に惹かれた者の中には、当然αやΩも居た筈だ。彼女たちは、隣にいる平均的なβの女よりも自分こそがデイビットにふさわしいと考え、様々な方法でアプローチを試みたに違いない。多様な恋心が彼の元へと寄せられたのだろう。
 それにも関わらず、デイビットは名前の隣を選んだ。明らかに容姿に秀でた女や、男を歓ばせる話術に富んだ女等、魅力的な数多の選択肢の中からβである自分を選び取ったのだ。そして名前以外の人間に対しては、まるでその存在が視界に入っていないかの様に一切の興味を示さなかった。
 その事実に加え、あの女への非情な対応が、名前の判断力を鈍らせていた。
 燃焼を終えたヒートスティックを抜き去り、ヘッドボードに置いている灰皿替わりのガラス瓶へと落とす。その代わりに、彼女の指先は繊細なレース模様が施された文庫本をそっと掴んだ。それはデイビットから借りた咎の森。先日顔を合わせた際に手渡され、既に物語の三分の一ほどを読み終えている。
 咎の森は十六世紀のフランスを舞台にした恋愛小説だ。

 咎の森
 ――テオドール・ラ・フォレ男爵とその妻のルイーズは、領地の森近くに聳える城で数人の使用人と愛犬に囲まれ、仲睦まじく暮らしていた。
 ルイーズは使用人の出であったが、周囲には身分違いだと反対されながらも、テオドールの愛は深く、強引に娶ったのだった。
 暖かい春の日の事、森の城に騒々しい来客がやって来た。乗り入れたのはぴかぴかと飴色に艶めく車体と漆黒の大きな馬が四頭の豪勢な馬車で、中からは、テオドールの母と馬車に負けない程着飾ったうら若い女性が堂々と現れる。
 出迎えたのは、丁度庭を散歩していたルイーズだった。挨拶をしても義母は一切の反応を示さず、若い女は、さして歳の変わらないルイーズを蔑む様な目でちらりと見て城に上がり込んだ。
 騒ぎを聞きつけ、テオドールが書斎から現れるや、母はこの娘を正妻にしろと喚く。
 娘はテオドールの父が生前に厚意を賜っていた子爵のご令嬢で、テオドールを気に入っているらしく結婚をせがみ、テオドールの母も、使用人上がりのルイーズを汚らわしく思っていた。
 テオドールは検討の余地もなく激怒し二人を追い返した。ルイーズを手放すなど微塵も考えらない。そして、離婚が認められないこのフランスで代わりの正妻を娶るという事は、現在の妻を殺害しなくてはならないと理解して提言してきた事が心底許せなかったのだ。
――

 ――「ああ、テオドール様……わたくしには分かってしまうのです。あの美しいお嬢様が現れて、あなたの御心が揺らいでいらっしゃるのだと」
 「何を言うんだ、ルイーズ。俺の心はあの日にお前のものになった。身分など私にとって何の意味もない」
「けれど……あの方は子爵のご令嬢で、」
「大切なのはお前だ。お前のいない世界など、考えられない。母上の言葉など気にする必要はない。俺の愛は誰にも奪えないのだから」
 ルイーズはテオドールの温もりにわずかに安堵しながらも、拭いきれない不安を胸に抱くのだった。
 ――咎の森179ページより抜粋
 
 名前は鏡面に対峙するように、ルイーズという女に心を重ねて物語を追っていた。
 ルイーズの言葉の端々に滲む不安は、まるで今の自分の心を表しているかのようだ。分不相応な恋と、唐突に現れた相手の身分に釣り合いが取れる定められた番、引き裂かれる二人の運命など、親近感の沸く設定は名前の感傷的な心を揺さぶるには十分だった。
 名前の価値観の中では、βである自身とαであるデイビットとの交際が続いているという事自体が奇跡に等しい。
 彼の優しさに一片の疑いもないが、物語の中のテオドールの母親が身分違いのルイーズを認めなかったようにαとΩの繋がりは絶対的なものだと信じる人々にとっては、βである名前が彼の隣にいることは許し難いイレギュラーだろう。
 静かに表紙を閉じれば、物語の切ない余韻が帳の様に包み込んだ。
 刹那的な関係で良いと、理性ではそう言い聞かせていた。αとΩの絆の前には、βである自分の存在など、泡沫のようなものだという事も理解している。しかし心は深く彼を愛していた。彼の所有物であるこの文庫本にすら彼の面影を重ね、狂おしい程に愛おしさが込み上げてくる。
 この温もりを失う日が来ると考えただけで、胸の奥が凍える様だ。彼の声が、温もりが、香りが、瞳が恋しい。しかし彼への愛が募る程、別れへの恐怖も膨れ上がっていく。
 彼の優しい声の残響を抱きしめるように、名前はゆっくりと枕に頭を預け、きつく瞳を閉じる。いっそ、最初から彼と出会わなければよかった。そんな後悔の念が荒波のように押し寄せる。
 デイビットの隣に恋人としていられる時間はそう長く無いのかもしれない。そう理解していても、彼の温もりを知ってしまった今となっては、もう彼と出会う以前の自分に戻ることはできないだろう。
 春の深夜、降り出した雨は容赦なく窓を叩きつけた。
 名前の顳顬には温い雨に濡れていた。