鳴り響くアラーム音にすっきりと目覚めた朝。
「…気の持ちようってすごいな」
昴さんと話してからというもの、あんなにも重かった気持ちが少しだけ楽になった。
毎晩布団に潜っては思い出すあの視線も忘れて寝て起きた朝は心地よかった。
病は気からという言葉は本当だったようだ。
…ただひとつ思うのは、いい歳して初対面の人の前で二回も泣いてしまったことくらいだろうか。
二回は流石に泣き過ぎだ。
「…いってきます」
なんとなく、普段は口にしない事を呟いてみたが勿論返ってくる言葉はない。
それでも、この言葉を発した自分はちゃんと生きているのだと思えた。
この口から紡いだ言葉は確かに私自身の声で、言葉で、呼吸をしているのは他の誰でもない、私自身なのだと思うとなんだか前向きな気分になれた。
記憶はないけれど、私自身はちゃんと存在しているんだ。そう実感できるのが、嬉しかった。
自分が誰かわからなくなるような、宙にうくあの感覚は薄くなっていた。
足が向かう先は、以前の私が通っていた場所。
律儀に以前の自分がしていたことと同じ事を繰り返すのは、きっと私も以前の自分を知りたいと思えたからかもしれない。
重ねられる視線が嫌で以前の自分を知りたくもないと避けてきたけれど、少しだけ余裕のできた今は素直に受け入れられる気がした。
大丈夫、少しずつでいい。
いきなり全てを受け入れることは難しいけれど、同一人物である限り必ず共通点があるはずだ。
例えば全巻揃った特撮物のブールレイBOXとか、テレビ横に置かれたフィギュアとかね。
そうやって共通点を少しずつ見つけていけばいい。
ーーーーーーーー
「何か良いことでもありましたか?」
「いいこと、ですか?」
はい。と相変わらずのイケメンスマイルでモーニングを運んできた安室さんに首を傾げた。
「なんだか雰囲気がこの前と違ったように見えたので」
「…そんなに違います?」
「少なからず僕にはそう見えました」
まさかにやけてたりしたのだろうかと思わず口元に手を当てれば、くすりと笑われてしまった。
…朝から恥ずかしい思いばかりしてるな。
「…少し、ありましたね」
昴さんと話せた事がきっかけでもあるし、そう言う事なんだろう。
「それは興味深いですね」
「そうですか?私のことなんか知ってもいいことはないと思いますけど」
「貴女のことだから知りたいんです。って言ったらまた嫌そうな顔されちゃいますね」
…こいつ、根に持つタイプか。
何故か彼に対しては顔に出てしまうのは自覚があるし、なんならうっかり失礼な発言もしてしまっているから多少は申し訳ないと思ってる。思ってるけど、だってこの人やたら思わせぶりな発言ばかりしてくるんだからそりゃあ仕方ないと思う。
「人に会いまして」
「人ですか?」
「はい。同い歳の大学院生で、流れでお茶をご馳走になったんです。その時彼に色々と話を聞いてもらってスッキリしたんです」
流石に泣いてる時にぶつかったのが出会いですとは言えまい。
これ以上恥を自らばら撒く必要はないだろう。というか絶対嫌だ。
「洋館の屋敷を借りている方ですか?」
「はい…お知り合いですか?」
「ええ、まぁ」
世間の狭さを実感した。
というかもう全員繋がってるんじゃないのかとさえ思えてきた。
「…誰の目にも留まらない燃えカスじゃないって、そう思えたんです」
私じゃない私を見る目が不快だった。
自分でも、ここに居るのは私ではないような、そんな不安に襲われる目。
だからきっと自分は誰にも求められない、誰の目にも留まらない不要な燃えカスだと、目覚めてからずっと思っていた。
「彼のおかげでそう思えました」
確かに見えて居るのだと彼が言った瞬間、この人の目に映るのは他の誰でもなく、今ここに存在する私自身なのだと安心した。
「本当はあの日、以前の自分のルーティンワークをこなすのが嫌になって背を向けたんです。記憶を失う前の私のことなんて一つも分からなくて、周りが求める私を、私は一つも持っていない。誰にも求められていない0の私が、求められている1の私になれるわけがないから」
「それは聞き捨てなりませんね」
いつもの読めない笑顔はなく、そこには真っ直ぐ私を見つめる安室さんが居た。
「仮に今の貴女を0だとしても、1の貴女も0の貴女も根本的な所は変わっていない。貴女自身が覚えていないだけで、貴女はちゃんと1の貴女だ。降谷雫はちゃんと僕の目の前に存在する」
「なんの、根拠が…」
だって、以前の私の話を聞けば聞くほど自分とは別人に思えるのに、どうして彼はそんな事が言えるのだろう。
「貴女を知っているから」
胸の奥が、締め付けられたような、そんな気がした。
…また、だ。
これは、罪悪感?何に対する?
こうして彼に対して答えの見つからない気持ちを抱くのは、一度や二度ではない。
なのに、その言葉を理屈ではなく、感覚的に嬉しくも感じている自分が居て、私はまた困惑するのだ。
どうしてこんな気持ちを抱くのだろう。
「貴女が燃えカスに見えたことなんて一度もない。他の誰かにそう見えたとしても、僕にそう見えることなんてあり得ない」
「…キザ、ですね」
「ほらね。貴女はそう言う人なんです」
なんとか絞り出した言葉に彼はいつものように笑って別の客の元へと行ってしまった。
「…なんなんだ、いったい…」
気づかれないように顔を覆って、小さなため息と共に吐き出した声は、情けない声をしていた。
…やっぱり彼と話していると調子が狂う。
なのに嫌な気がしないのは、1の私が0の私の中にあるからだろうか。
だとしたら、0の私が1の私を取り戻す事ができるのかもしれない。
0も1も知る彼が言うのだから、そうだろうと思えてしまうのもまた、1の私が在る証拠なのだろうか。
「ごちそうさまでした」
「それでは気をつけていってらっしゃい」
「…いってきます」
やっぱり口元が緩んでしまうのはどうしようもないらしい。
いつものように口元に手を当てて店を出る私に、彼が気づかなければいいと思いながら店を出た。
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