ぐらぐらと揺れる視界。
込み上げる吐き気。

「…やばい…」

トイレに駆け込んで便器に顔突っ込んでも、空っぽの胃から吐き出されるのは胃液だった。
ぐったりと呟いても気分が良くなるわけもなく、五徹目の限界を体が訴えていた。
…今日は研修医の教育で1日潰れる予定だったから、オペも診察も無しだしなんとかやり切れるな。
終わったら即帰って休めばいい。
明日は午後から会議だし、それまで寝ておけばなんとかなるだろう。
鏡に映った顔は酷かったが、とりあえず備え付けのシャワーだけ浴びてパパッと化粧で誤魔化せばいいだろう。

「…よし」
「なにがよし、なんですか?せーんせ?」
「…ふ、婦長…オハヨーゴザイマス」
「先生はおやすみなさいしましょうねぇ」

出口に待ち構えていた婦長に背筋がこおった。

「待ってください待ってください!違うんです!今日はオペも診察もないんです!大丈夫なんです!今日頑張れば寝れるんで!!」
「疲労で吐いてるくせに何が大丈夫なんですか!自分の体調管理もできずに何が医者ですか!」
「できてます!だって栄養剤のんでますもん!全然働けますよ!」
「栄養剤飲めばいいなんて思ってる医者は先生だけですから。自分の患者さんにそれ言えます?」
「…スミマセンデシタ」

この婦長から逃れられた事が一度もないのは、一枚も二枚も彼女の方が上手だからだろう。

「いい加減にしないと医院長先生に貴女のシフトについて言いに行きますよ?」
「すみませんもう五徹なんてしないのでそれだけは勘弁してください」
「…五徹?」
「あ、やべ」

思わず口を塞いだが時すでに遅し。
だから疲れてる時に人と会話したくないんだよ。

「なんでそう一人で仕事引き受けてるんですか!貴女もう研修医じゃないんですよ!?腕もある誰もが認める優秀な医師なのに、あれもこれもやってたら貴女が潰れるってなんで分からないんですか!」
「いやでも」
「でも?」
「すいません、今日は他の医師に引き継いで帰ります」
「研修医の指導の件なら私から他の先生に言いますから、先生はもう帰りなさい」
「…ハイ」

このパターン前もあったな。

「タクシー呼びますから大人しく待ってて下さいね」
「ふ、婦長、そこまではいいですよ」
「救急車で運ばれたいんですか?」
「お願いします」

受付のソファーに座らされ、タクシーが来るのを大人しく待っている間に家にある点滴の種類を思い返していた。
とりあえずシャワー浴びてごはん食べたら点滴打って寝よう。
点滴って打ってる間に寝てられるし、元気になるしで本当に優秀だと思う。
無駄がないのがまた素晴らしい。

「ほら、タクシー来ましたから。肩つかまってください」
「自分で歩けるので大丈夫ですよ」
「ふらふらな体で何仰ってるんですか」
「すみません」
「じゃあ運転手さん、この住所まで絶対に降ろすことなく運んでくださいね」
「ああ、苗字先生だね。タクシーで婦長さん直々ってことはまた無茶な働きしましたね」

タクシーの運転手さんにまで私のこと知られてるのどうなんです?
返す言葉も見つからず、大人しく乗り込んだ。
ありがとうございました婦長。

「じゃあ先生、婦長さんに怒られない為にもちゃんと休むんだよ」
「…はい、善処します。ありがとうございました」

タクシー乗る度に言われるの嫌だし、次はバレないように手を打つべきか。
寝てないせいで貧血も起こしているのか、どうにも体がふらついて思うように真っ直ぐ歩けない。
マンション前で降ろしてもらったのに入り口が遠く感じる。

「あれ、名前さん?」

聞き覚えのある声に振り向けば、そこに居たのはスケボーを持ったコナンくんだった。

「え、大丈夫!?顔色わるいよ!?」
「…ああ、五徹目だからね。大丈夫、シャワー浴びてごはんたべて、点滴打って寝たら元気になるから」
「五徹!?ねぇほんとに病院行った方がいいよ?医者呼ぼうか?」
「…私が医者なんだけど」
「こんな不摂生する人が医者なの?」
「いや、あの、すみません」

小学生に図星突かれるのつらい。

「僕部屋まで送るよ」
「あー…うん、じゃあお願い」

もうエレベーターのボタン押すのもしんどいし、何も考えたくないのでお言葉に甘えることにした。
もう知らん。
元気になったらお詫びをすればいいよ、うん、そうしよう。

「名前さん、名前さん!」
「…ん」
「着いたよ、降りて」

どうやらエレベーターに乗った瞬間に寝ていたらしく、コナンくんの声に階数を確認すれば、自分の階だった。
ああ、やっぱ五徹はキツイから三徹までに絞ろう。

「ねぇ、三徹ならいけるとか思ってないよね?」
「君はエスパーか」
「だって今何か思いついたような顔してたから」

やだこの小学生怖い。

「先生シャワー浴びてくるから、適当に冷蔵庫漁って飲みたいもの飲んでいいよ」
「え、でも先に寝た方がいいんじゃない?フラフラだよ?」
「シャワーを浴びるとね、リセットできるんだよ。だから病院でシャワー浴びるたびにリセットして五徹とかね先生やれちゃうからほんと大丈夫」
「言ってること無茶苦茶だよ…」

もう喋るのも面倒だと言わんばかりに着替えと共に風呂場へ向かった。
多分シャワー浴びたら多少落ち着くから、そしたらお話しようね。


「大!復!活!」
「…体あったまって多少は顔色良くなってるけど、フラついてるからね?」

はい、お水。とコップを手渡され、大人しくお礼を言って飲み干す。
なんだこの気の利く小学生。

「で、先生のパソコンいじり楽しかった?」

ビクリと震える肩。
バレないとでも思ってんのか。
僅かに位置のズレたマウスに、触れたパソコンはほんのりと熱を帯びている。
この子が触ってないのなら、兄が入り込んでいた事になるが、静かだったしそれはない。
もしあの人が来ていたらコナンくんが真っ先に何か言ってくるだろうし。

「あー…ごめんなさぁい」
「いいよ別に。見られて困るもの入ってないし、気になるなら好きなだけ見てってくれていいよ」
「え、いいの?」
「うん。でも新たに情報を入れたり、他からデータ引っ張るのだけはナシね。私も把握できてないことがバレたら君のこと庇ってあげれないから」
「…アースエイクはよく名前さんのパソコン触るの?」
「調べるように言われてた情報は全部入れてあるから、勝手に上がり込んで引き抜いてくからね。仕事忙しいから顔合わすことも減ったし、私としては楽でいいけど」

差し込まれたUSBに調べるターゲットについてリストアップされてるから、それを調べて置いておけばまた勝手に引き抜いていってくれるし、会わないぶん暴力も受けなくて済むし楽でいい。
呼び出し食らったら何がなんでも会いに行かなきゃいけないのが辛いところではあるけど、それも滅多な事でもない限りないからなぁ。

「アースエイクのこと、聞いてもいい?」
「トーストと目玉焼き用意してくれたら良いよ」
「…絶対だよ?」
「ごはんのお礼に答えられることは全部答えるよ」

コンロにフライパンと、それに届くように椅子を置いて後は全て彼に任せた。
大丈夫大丈夫。
小学一年生でもそれくらい作れるはずだから。
その間に点滴打っておこう。

「焼き加減はー?」
「なんでもいいよ」
「りょうかい」

焼き加減も聞いてくれるとは、中々気の利く小学生だ。

「…って、点滴も自分でやんのかよ」
「お医者さんだからね。何種類か常備してます」
「普通自宅には置いてないんじゃない?」
「私には必要だからあるの。美味しい朝食ありがとう」
「…もう昼なんだけど、まさかあんたまた食ってないとか言わないよな?」
「いただきまーす」
「おいこら人の話を…ってもう、ちゃんと噛んで食べるんだよ?」
「はーい」

ごめんねぇ。
食事は至福の時間だから、お小言ナシでおいしく食べたいんだよ。

「それで?何が聞きたいの?」

赤井さんからも聞いてるだろうに、わざわざ私に聞くってことは、赤井さんの知らない情報が欲しいんだろう。

「名前さんにとってアースエイクってどんな存在?」
「暴君で困ったちゃんなお兄ちゃん」
「真面目に聞いてるんだけど」

簡潔に言えば本当にそういう人なのに、詳しく聞きたいらしいコナンくんはふくれっ面だ。
おいしいごはんも作ってくれたし、満足できるまで付き合いますか。

「あの人の性格が歪んだのは、私が産まれたことが原因。
出産の際に母子ともに危険な状況に陥って、どちらか一方しか助けられない時、父が選んだのは私の命だった」

どうやらこの話題で正解だったようだ。

「元々父には母がそう頼んでいたから、父はその想いを尊重した。
それから仕事で多忙な中、幼い私のことを育てようと帰宅しては父はつきっきりになり、大好きな両親を奪われた兄は大層私の事が憎かったらしい。今でも人殺しと言われるよ」
「でもそれは名前さんのせいじゃない」
「そう思えないからああなっちゃったんだよ。あの人は幼い頃からそこそこ頭もよくて外面も良かったから、優等生として周りからも父からの評価も高かったんだけど、生憎私にもその血が流れていた上に、兄より要領がちょっとだけ良かったのか、成績は常に一位。それを妬んだ兄が暴力を振るうものだから、万年10位をキープするのに必死だったよ」

兄より優れた妹など以下略を叶えて差し上げる為にそりゃあもう頑張った。
まぁ全部八つ当たりされない為だけど。

「で、私が高校三年になったばかりの頃、医大に通っていた兄が失踪。お陰で私は医者になる為に進路変更。そして現在に至るってわけですよ」
「アースエイクとはいつ接触したの?」
「医者になったばかりの頃、一人暮らしをしていた私の部屋に押しかけてきて、有無を言わさず犯罪の片棒を担わされたよ」

高二の夏の話は子供に聞かせるにはいささかいい話でもないから省略した。
別になくてもいい情報だろう。

「でも殺そうとはしないんだね」
「ああ、長年こういうことやってるとね、ただの憎しみが愛憎ってものにすり替わることがあるんだよ」

自分が与えた苦痛によって苦しむ姿に快感を覚える。
自分だけが見れる、自分だけが与えることのできる苦痛。
こんな風にできるのは自分だけ。
そういう歪んだ性癖を見出してしまったのだろう。
いやほんと、なんで厄介なモンになってくれたんだ。

「殺さずギリギリのラインで生かすことができるのも愉しくて仕方ないんだろうね」
「名前さんはそれでいいの?」

いいわけがない。
けれどあの人の性癖が治るとも思っちゃいない。

「ほんとはさ、あの人が医者になって父の後を継いで、私は高校でたら家を出るつもりだった。兄と父の二人で穏やかに暮らして欲しかった。
でも兄が失踪して、代わりに私が医者になって、あの人が私の前に現れるまではこれでもいいのかなって思ったよ。でもさ、いきなり現れたあの人は、犯罪組織に入っていて歪んだ性癖開花させちゃって、ああもうこれ私逃げれないわって諦めたよね。
でも、この組織が潰れたら、兄は捕まる。
そうしたらこの生活も終わるはずだから、だから君達には頑張ってもらわないと困るんだよ」

頼んだよ、名探偵。
そう笑って言えば、コナンくんは絶対に組織の連中を捕まえてみせると約束してくれた。

「俺も赤井さんも名前さんのこと頼りにしてるんだ。だからちゃんと休んでくれよ?」
「そうきたか。随分と狡い言い方を知ってるね。どこで覚えたの?」
「いいから寝ろ」

揶揄うように言えば顔面目掛けて飛んで来たクッション。
化けの皮が剥がれかけてんぞ。
大人しくクッションを頭の下にしてソファーに横になれば、ベッドで寝なよ!と叱られた。
お前は私の母ちゃんか。






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