novel
蝉時雨と繰り返される“七月二十九日”
七月二十九日、太陽が本腰を入れて働き出したその日に――とある場所に位置する国定図書館は怪異に呑み込まれた。怪異と言っても未確認生物が現れただとか、この図書館で生活する文豪達が二時間おきに一人ずつ消える、などというありふれたB級映画のようなものではなく、「七月二十九日が終わらなくなってしまった」のだ。原因はただひとつ。作者不明、題名不明、中身は小学生が書いたような絵日記(と言ってもちゃんと製本はしてあるのだ)に潜書したことだろう。それ以外に理由が考えられない、と国木田は顎に手を当てて断言した。
この怪異に呑まれていることに気づいているのは、当時その“正体不明の本”に潜書したメンバーである田山、島崎、国木田、徳田の四名のみ。七月二十九日を繰り返し始めてもう既に一週間も経ってしまったが、それ以外の者でこの怪異に気づいていそうな人間は司書を含めて誰一人としていない。それどころか、皆最初の“七月二十九日”と同じ動きを律儀に再現する。それは無機物も然りで、物を壊したって次の“七月二十九日”には元通り、羽目を外して財布の中身を空にする勢いで豪遊しても次の“七月二十九日”には先月の給与分がちゃんと収まっていた。食堂の冷蔵庫から罪悪感まみれで試しにくすねたプリンは次の“七月二十九日”には何事もなかったかのように存在感を放っていたし、これまた罪悪感まみれて正宗の部屋の扉に落書きをしてみたところ、次の“七月二十九日”には元通りぴかぴかに磨かれた木製の扉が偉そうにしていた。部屋の住人は前の“七月二十九日”に扉に落書きされていたことなんて知る由もない。
だが終わらない夏休みのような繰り返される“七月二十九日”には大きな問題があった。止めようと思ってもそのループを自分達の手では止めることができないのだ。しかも、“あの本”は最初の“七月二十九日”以来どす黒い嫌な気配を放つことなく司書室の机の上に大人しく置かれていた。さも元からそこにあるかのように。
「これだけ長く七月二十九日が続くと飽きてくるものだね。なんてったって僕らが干渉しない限り皆同じ動きをするものだから。違う日――まあ全て“七月二十九日”なんだけど、同じ質問をすれば帰ってくる言葉は全て同じなんだ。おもしろいよね」
はじめは“最初の七月二十九日”が夢だと思ったのに、と島崎は感慨深そうに口を動かす。予知夢のような状態であることに気づいたのは二日目。明らかにおかしい、と繰り返される日々に疑念を抱いたのは三日目。最初に「きっとループしているんだ」、といつもに増して真剣な顔で答えを出したのは国木田だった。
だが、この生活が一週間も続くとなると流石に飽きてくる。――それほどに、彼らはこの“七月二十九日”に慣れ親しんでいた。
「でも遊び放題なのはいいよな」
「島崎も花袋も悠長なことを言っている暇はないんだからな。俺達は今、正体不明の“何か”に明日を拒まれている状態なんだから」
「そうだよ。僕はもう蝉の鳴き声なんて飽き飽きだよ。あいつらなんで“七月二十九日”に限っていつもよりも煩く鳴くんだろうね、蝉時雨なんて情緒のある言葉でくくりたくなんかないよ」
しかも暑いし。ぱたぱたとビアガーデンの広告が貼られた団扇でいつもよりも――といいながらも“七月二十九日”は特段に暑かったので毎日ループなど関係なくそうしているのだが――暑い空気を服の中から追い出すためにはだけた胸元に風を送り続ける徳田は明らかに嫌そうな目線を国木田に向ける。なんで国木田の部屋の冷房壊れてるの、と。
「毎日のように言ってるけどな、修理業者が来るのが八月三日だったんだよ。我慢してくれ。……で、なんでお前らは“七月二十九日”を繰り返し始めた途端に俺の部屋に溜まるようになったんだ?」
「「「部屋に冷房があったから」」」
“七月二十九日”を快適に過ごすためにはどうしても冷房が必要だった。なんてったって気温三十七度の猛暑日とは言い切れないような気温だ。毎年夏は扇風機だけで過ごしてきた徳田(冷房は八月後半に安くなる頃に買う予定だった)、田山(冷房などさらさら買う気はなく、汗が肌に張り付くような日には毎度国木田の部屋に入り浸っていた)、島崎(基本かさばるものは購入しない)の三人がこの繰り返す酷暑を扇風機だけで乗り切れるわけがなかった。毎日のように滝のように汗を流すのはごめんだ、と。そして彼らは思い出した。国木田と正宗の部屋には冷房がある、と。
最初は割と部屋になんでも置いている正宗(ちょうど非番)の部屋になぜか着いてきていた国木田と共に無理矢理押しかけていたのだが、結局正宗に“七月二十九日”を繰り返し続けている旨を話すのは押しかけて三日目で面倒になってきたので国木田の部屋に入り浸ることにしたのだが――国木田の部屋の冷房はかねてより故障したままで、電源を入れれば煙が出るような代物(実はリコールを開始していた)と化していたのだ。だがしかし正宗に一から毎度説明するのは面倒だ、と一度固めた意志は固く、結局各自が自室から冷却グッズを持ち寄って国木田の部屋に溜まることになったのだ。徳田は扇風機と涼しげなビアガーデンの団扇を四つ、田山は扇風機三つと延長コードを、そして島崎は扇風機と霧吹きを。
だがしかし外の気温ですら三十七度となると、それらではどうも汗を吹き飛ばすことができない。畳はどうも湿気を溜めてしまっていて生暖かい、背中に衣服は引っ付く、額からは汗がだらだらと流れる、それはそれは酷いものだ。特に男四人が一部屋に集まって涼もうと思った日にはそこは地獄と化す。それもついに三日目だ。
みーん、みーんと徳田が顔を顰めた蝉の声が予定通りの時間に爆音で近づいてきた。この蝉は決まってお昼時に国木田の部屋の網戸の前に現れては張り付き、そのまま数時間は鳴き続ける。一度叩き落とそうと思っても逆効果で、奴はしっかりと網戸に掴まって離れなくなってしまった。国木田達はこの部屋で一日の大半を過ごすようになってから三日間ずっと奴を網戸に張り付かせることを許してしまっていた。自分達が行動に移す前に毎度網戸に足をかけるこの蝉は、もしかすると自分達の行動が読める――一同じく“七月二十九日”を繰り返しているのかもしれないと思うと甚だしく気落ちしてしまうのである。
はあ、と大きくため息をついたところでふと目に入ったのは風にあおられて逆立つ金色の髪とその手が持つ一冊の本だった。確か昨日も、読んでいたような。
「ねえ花袋、その本面白いの?」
「ああ、主人公のありのままの姿――きれいごとだけじゃなくて汚い部分まで繊細に書き込んであるんだ。俺とは似て非なるもののようにも感じるけれど、きっと俺はこんな話を読むのがすきなんだなあ、って思ったよ」
「ふうん。……明日それ、貸してよ」
「おいおーい、独歩さんの話はまだ終わってないんだがー? おーい無視かー?」
ああ、と田山が首を縦に振ったのと同時にひょこり、と二人の肩を掴んで国木田が顔を出した。なんのこと? とばかりに首を傾げる田山と島崎に漫画のようなげんこつを食らわせてから国木田はわざとらしく咳払いをする。
「あー、ごほん。本日冷房が死んでいるにも関わらずにこの部屋に諸君を呼んだのには理由がある」
「知ってる」
「はい徳田はその本から顔上げて」
ええ、と不平の声を上げる徳田にも国木田は容赦なくつむじに向かって拳を落とす。ごつん、と小気味いい音を自分の脳天から響かせたことで流石に懲りたのか、徳田はやっとこさ活字から顔を上げた。心底嫌そうな顔をしているが、今の国木田にはそんなことに構う暇などないらしい。
「我々は怪異に呑み込まれた。“七月二十九日”から抜け出せない、っていう小説のネタにはなかなかなりそうにない微妙なラインの怪異にな。しかもそれに気づいているのは、ずっと司書室で大人しくしていたくせに“最初の七月二十九日”に急激な侵食が起きて急遽潜書することになった“あの本”に潜書した俺、徳田、花袋、島崎の四人のみ。そんな俺達は打開策を見出せないまま一週間ずっと怠惰な生活を送っている。さて花袋、まず俺達は何をするべきか?」
「この図書館で生活する奴らに俺達みたいなのがいないか探りを入れる……か?」
「おい花袋、暑さで頭やられてんのか? 違うよ、俺達がまずやるべきことは――豪遊することだ!」
何を言うのか――と息を呑んだその刹那、ここにいる国木田以外の三人は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。そして、互いに顔を見合わせてからひとつ。花袋が手元にあった座布団を投げたのを会いずに団扇、霧吹き、果てはペンが宙に舞い、国木田の身体を容赦なく襲う。無論国木田は文士といえども人間だ。漫画のように飛んでくるものを全て華麗な動きで避けたり掴んだりすることはできず、突込みとは最早言えないブーイングの嵐をその身に受けた。避けれたものも避けきれなかったものも全て畳の上に落ちて、ループごとに整頓される国木田の部屋を一日ぶりに人の目にいいれられないような状態に変えてしまう。
「はぁ? 国木田こそ暑さに脳みそやられてんじゃねぇのか?」
「拍子抜けしたよ! 改まって言うものだからほんの少しだけ期待したのに!」
「そうだよ。まず国木田は豪遊することのリスクを全くわかってない」
額に青筋を浮かべる徳田と田山をよそに、島崎は遠慮も何もなく唇を動かす。島崎曰く、「この“七月二十九日”を繰り返す現象は今のところ終わる余地はないけれど、もしかしたら明日にでも終わるかもしれない。で、終わる前の日に財布の中身が寂しくなるまで遊んだらどうなると思う? それこそ“明日なんて来なければいいのに”って嘆くと思うよ」と。悲観的に国木田の背を止めようとする瞳は妙な真剣味を帯びている。
「……なんかごめん」
「よろしい」