日本とは確実に異なる空気の匂いに、異国の地を踏んだことを実感した。日本の空港は醤油や味噌の匂いがするとはよく言うが、この国に降り立ってから感じるこの不思議な香りはどう表現すればよいのだろう。
安室が旅行に賛成してからのエルシオの行動は早かった。こんなブラック極まりない組織に存在しているとは思わなかったが、彼は自分と安室の休暇のようなものを半ば強引にもぎ取ってきた。緊急事態であれば応答するが、それ以外は一切の連絡を受け取る予定は無いと。ジンにはエルシオ共々盛大に舌打ちをかまされたし、ベルモットにはエルシオを暫く安室が独占する形になってしまうことにネチネチと文句をぶつけられた。
ジンやベルモットに続いてボスのお気に入りであるサンブーカであればこそ成し得た事だろう。バーボンでは休暇の申請など鼻で笑って一蹴されて終わりだったに違いない。
日本からイタリアのミラノへの長時間のフライトを終えてぐっと背伸びをしたエルシオは、どこへ行きたいか、と問いかけてきた。
「…イタリアには特別詳しいわけでもなくて…、そもそも、一体どれだけの休暇を取ってきたんです?」
「一か月くらい」
「いっ……」
「外国じゃ普通じゃない?いや、ウチの場合まっとうな職場とは言えないと思うけど、一か月休みとってバカンスとか、まあ普通に聞く話だし。日本じゃあんまり無いか。働きすぎだよねえ日本人」
「…さすがに一か月日本を離れるのは…」
安室にも“本職”がある。あまり長期間守るべき場所を空けていたい訳もなく。
「丸ごと一か月使うつもりはないけど。別に俺は、透君の探し物が見つかり次第帰ったって全く構わないからね。じゃ、北と南、どっち行きたい?」
「ナポリを見てから死ね、と言うくらいですし、ナポリは気になりますけど…」
マフィアのことを探るなら、北よりも南が良かろう。純粋な興味もあったが、やはり最優先はエルシオの言うところの“探し物”である。
安室の言葉に頷いたエルシオは、何やら携帯を操作し始める。メールでも送っているのだろうか。一分ほどして通知音が響き、画面を確認したエルシオはにっこり笑ってサムズアップした。ナポリ安全っぽい、とからりと笑った彼に、危険な場合もあるのかと思わず頬が引き攣るのを自覚した安室は、気分を落ち着けるように長く息を吐いた。
安室はエルシオの目的やその素性について、未だに測りかねているところがある。黒の組織の人間にしては組織への忠誠心があるようにも見えないし、かと言って安室のような本職を持つ人間であるようにも思えない。やたらと安室を気に入っているようではあるが、それが本心なのかも、やはり見当がつかなかった。しかし危機感や不快感を覚えるようなことは無く、だからこそ安室は今回イタリアへ飛ぶことを決めたのだが。
「ナポリまで電車で行こうか。車じゃちょっと時間がかかるし、もう一回飛行機乗るのも面倒くさいし。日本ほどきっちり時間通りには来ないかもしれないけど、まあのんびり楽しもうよ」
ミラノに降りた時点でまだ午前中だった。ざっと五時間ほどかかると伝えられて少し驚いたが、辺りの様子を見ることのできるいい機会だと思うことにした。
「…エルシオさんは、マフィアには詳しいのですか」
日本からも離れ、恐らくは黒の組織の監視も無いであろう状況で、これ以上ない好機。おそらく彼は、安室の求める答えを、その全てではないとしても持っているに違いなかった。
「イタリアに住んでいる人間だったら、知らない人はいないと思うけど」
「そういうレベルの知っている、ではなくて。彼らの力関係や、どことどこが争っているだとか、そういった事情に精通しているのかどうか、という話です」
「際どいな、透君。危ないこと聞いてる自覚ある?これがイタリア語で会話してたら、いきなりブチ殺されても文句言えないよ」
「…軽率でした。すみません。…その、そんなあちこちに居るものなんですか」
「そこ歩いてる兄ちゃんがどこぞのマフィアの構成員だったりとか、そんなのはザラだよ。だからみんな、マフィアだなんだって話は外ではしない。殺されたくないからね。中途半端に要らないこと知っちゃって、それで目つけられてズドン、とか、嫌でしょう?」
まあそれが、透君の探し物なんだろうけど。
仕方ないなあと言うかのように笑ったエルシオは、案外あっさりとイタリアンマフィアの現状を話してくれた。とはいっても、伝統的にどことどこの仲が悪いとか、ここの家はかなり古いから影響力があるとか、ちょっとした関係者であれば誰だって知っているような浅い部分の話に限られてはいたが。
「マフィアというのは基本的に血族に次代を譲ることになっているのですか?」
「特に決まりはないね。どちらかと言えば血の繋がりで決めることが多いかな。外部から引き入れるのはやっぱり怖いから。無茶苦茶なことしないかどうかって。まあ先代が信頼のおける部下を次代のドンに指名する、ってことも無くは無いんだけど、大体派党争いが起きてそのまま没落…とか」
マフィアの世界もいろいろと複雑な事情があるらしい。日本人からすれば映画や漫画なんかの中に出てくる悪役といったイメージばかりが強いからか、自分たちが有する領域を自分たちで守ると言ったような自治活動も行っていたりするのだとエルシオが語ったときには、思わずおお、と声が漏れたものだ。
そうこうしているうちに昼時を過ぎ、一度電車を降り、エルシオは昼食を買ってくると言って近くの売店へ駆けていった。
思いのほかイタリアの景色や空気を楽しんでいる自分がいることに、安室はほんの少しの罪悪感のようなものを覚える。降谷では得られなかった情報を得るために来た。もちろんそうだが、エルシオが誘い文句に含めたような、気分転換が出来ていることもまた、事実だった。
複雑な気持ちを纏めて肺から押し出すようにして息を吐く。この旅で、何か組織壊滅に近づけるような情報を得ることは叶うだろうか。そう縋ってしまうほどに、黒の組織の力は強力さを増してきていた。
ふと背後から足音と気配が近づいてきて、エルシオが戻ってきたのだと安室はふとそちらに視線を向ける。そしてそれと同時、項に思い切り衝撃を加えられたのでも、薬を含んだハンカチを口元に当てられたのでもなく、安室の意識は一瞬にして沈んでしまったのだった。
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