水面に浮かび上がるように、安室の意識は明瞭になった。その瞬間に鼻を突いた何らかの薬品の刺激臭に、胃が搾り上げられるような不快感を覚え、思わず咳き込む。
「な、っ…!?」
空気が淀んでいた。肺に取り込みたくないくらいのそれに、無意識に呼吸が浅くなっていく。周辺に灯りは何一つなく、安室は目が慣れるまでじっと息を潜めてその場に留まる。じめじめと湿っていて、黴臭い真っ暗な空間。地下だろうかと安室は推測した。
意識を失う直前の記憶が曖昧だった。エルシオが売店から戻ってくるのを待っていた。それは覚えている。彼が戻ってきたと、後ろを振り向いたその直後から、安室は何も覚えていなかった。あれはエルシオではなかったのだろうか。
ようやく視界が暗闇に慣れ、座り込んでいた身体に力を入れて立ち上がろうとする。安室が寝かされていたのは床の上で、どうやら部屋そのものは、安室が大股で数歩歩けば横切れてしまうほど、とても狭いようだった。その狭さの割にはやけに頑丈な扉が取り付けてあり、換気の概念など無いとでも言うかのように部屋の気密性は高いようだった。そこまで調べて、嫌な予感に背筋が強張るのが分かった。おそらく、ガス室のようなものだろう。とんでもない場所へ連れてこられてしまったのかもしれない。あまりの失態につい舌打ちをして、無理やり落ち着こうと長く息を吐き出した。
気を失わせてまで連れてこられたのだから、今すぐ殺されるということは無いだろう。最低でも一度くらいは、このやたらと頑丈な扉は開くはずだ。機会はそこしかないと言えた。
どんな相手が何人、どんな目的でやってくるのかも分からなかったが、こんな場所で命を落とすわけにはいかなかった。なぜなら自分はまだ、何一つ目的を遂げていないのだから。
*
通路に出ると、ようやくまともに視界を確保できる程度の灯りに照らされて、安室はほんの少しの安堵を感じた。
あのあと、予想通り頑丈な扉は開かれ、安室は扉を開けた人間の顔を確認することすらせず思い切り拳を叩きこんだ。躊躇なく顎を狙ったパンチは一撃で相手の意識を刈り取り、どうやら運のよいことに、相手はたった一人でこの部屋にやってきていたようで、安室はさほど苦労せず部屋から脱出することが出来た。
安室が居た部屋と同じつくりの部屋が他にも通路沿いにいくつも存在しており、まるで牢屋のように見えて、胃の底が嫌悪感で熱くなった。大きな足音を立てないよう、慎重に通路を進み、人の気配がないことを確認して階段を上っていく。やはりあの部屋は地下にあったようで、階段を上りきったところには1Fと掠れたペンキで刻まれていた。しかし外の光を取り込むための窓は取り付けられておらず、地下とさほど変わらない湿っぽい空気で満たされていた。
「…一階、なら出口があるはず、だよな」
この建物に入る瞬間の記憶が無いのだから、当然出入口がどこに有るのかなど分からない。一か所ずつ虱潰しに確認していくしか方法は無いのだが、そうするとなると見つかる危険性も当然上がってくる。
唐突に、安室の耳に足音と何やら話し声が飛び込んできた。足音は一人分。話し声から、男だろう。言語はイタリア語のため安室に理解はできなかったが、声のトーンからおそらく通話しているのだろうと推測できた。何とか男の死角に身を隠した安室のすぐそばを、通話に夢中の男が通り過ぎていく。
「Ho il corpo sperimentale giusto. Anche Don Eterno sarà felice. È una razza mista giapponese. Devi essere in grado di ottenere dati più vicini alla realtà!」
安室にイタリア語は理解できない。しかし、間違いなく今、聞こえた。男の口から、「ドン・エテルノ」、その言葉が出てきたのを、安室はしっかりと聴きとった。
電車の中でエルシオからマフィアに関する話を聞いていた際、エテルノファミリーの名前が挙がった。エルシオに伝えることは無かったが、彼の言葉を借りれば、そのエテルノこそが安室の探し物であった。
つまり、この建物は、エテルノと何かしらの関わりを持っている可能性があるということだ。降谷では得ることのできない情報を得るため、こうしてイタリアまでやってきた。求めた情報が手に入る可能性がすぐ目の前にまで迫っているというのに、何も調べず逃げ出すことなど、できるはずがなかった。
先ほど安室が登ってきた階段。まだ上階に続く階段があったはずだ。黒の組織との繋がりを持つマフィアで、人間を攫っているとなれば、考えられるのはここが何かしらの実験施設であるということだ。
エルシオは恐らく、電車の中で話した以上に詳しい話を、安室に教える気はないだろう。
組織を壊滅させるための手掛かりがすぐそばにあるのならば、ここで逃げという選択肢を選ぶことはできなかった。
*
「……迂闊だったよね…」
「だからテメーはいつまでたってもダメツナなんだ。台無しじゃねえかこのダメツナが」
「ここまで大事にするつもりなかったのに…!さりげなく情報与えて、透君ならあとは自力で推理してくれるかなって…!!ああもう、どうしてこうタイミングが悪いんだよ…!」
「エテルノの幻術士に上手く攫われたようですね。催眠のようなものでしょう。彼、今頃エテルノの実験施設の中ですよ」
「うっ……、もうダメ、腹くくるしかないよ…これで何かあったら諸伏君に合わせる顔が無くなる…、骸、報酬は後でいくらでも出す、…頼んだ」
あからさまに面倒くさそうに顔を歪ませた骸。エテルノの研究施設は、存在と所在はすでに知っていたが、内部へ侵入し調査をしたことまでは無い。労力のいる作業を、安室の救出と並行して行わなければいない面倒さに辟易するのもよくわかる。世界中から高級チョコレートをかき集めなければならないだろうか。しかし、イタリアの地に馴染みがなく、マフィアに関する知識も不十分である安室に、無傷であの研究施設から脱出することは、とてもじゃないが難しいことだろう。こちらの不注意で起こった誘拐なのだから、何とかするのは綱吉の責務だ。
「あんな胸糞悪い施設、さっさと燃やし尽くしてやりたいところですけどね」
「今回は勘弁して…、透君の安全優先でお願いします……」
うんざりだ、と顔に張り付けた骸が溜息を吐いて、空気に溶けるように姿を消す。請け負ってくれたのだろう。綱吉のポケットマネーとの引き換えとなるが、背に腹は代えられないのだった。
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