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仕事に追われる審神者の耳に、何者かの足音が聞こえた。
急いでいる気配はない。ただ淡々と、迷いなく――審神者の部屋へと近づいてきて目の前でぴたりと止まった。
締め切られた襖障子を遠慮なく開き、審神者の姿を目視するとその刀剣は嬉しそうに、美しく紅が塗られた口角を吊り上げる。

「あるじぃ」

甘えを含ませた声はほかでもない、審神者を呼ぶもので。
呼ばれた張本人はしばらく目を閉じ、それからゆっくりと――加州清光の方へと振り返った。

「何でしょう。仕事中ですが」
「何って、あは。構ってほしくて来ちゃった」
「…仕事中ですよ」
「主はさ、俺と仕事…どっちが大事なの?」

こてんと首を傾げると同時に、後ろでまとめられた長い髪がふわりと揺れる。
毛先まで素晴らしく手入れが行き届いた髪だ。それだけでなく襖障子を開いた手、審神者を見つめる美しい顔、余すことなく彼自身の手によって綺麗にかわゆく整えられている。
可愛い物が好きな性分、だけではない。
彼の愛されたいという願望が、審神者の目の前に立つ美しくかわゆい加州清光を生み出しているのである。

「ね、無視?」
「…近いわ。清光」
「だって俺の質問に答えてくんないんだもん」

審神者としては瞬きを一つ零しただけであったが、暫くぼうっとしてしまっていたらしい。気が付けば目の前にいた清光の姿は消え、今では審神者の肩口に顎を不機嫌そうに預けている。

「あんたにとって俺って何?」

この質問は、審神者が清光の主になってから幾度となく投げかけられた問いかけである。だが純粋な問いかけではない。加州清光の中で欲しい言葉は決まりきっているのだ。ただただその言葉を審神者から引き出すための、決まりきった定型文。
審神者は一拍間を置いた後、諦めたかのような声色で清光の求めていた言葉を発した。

「私の刀でしょう。何度聞くんです」
「何回聞いたって嬉しいからさぁ」

ゆっくりと、ゆっくりと。焦らすような言葉の速度に審神者はどうにかなりそうなくらいの嫌な予感に襲われていた。
伸びる背筋、垂れる冷や汗。
――ああどうか、お願いだから。お願いだからその先は。

「そ、俺はあんたの刀。だから俺は、あんたの邪魔になるもんぜぇんぶ斬ってあげたいの」

――明日来る奴ら、斬ってやろうか?

紅く染まった爪が、審神者の髪を滑る。

明日から監査のため政府の人間が本丸に来ます。
つい先程、審神者はやっと皆に伝えることができた。
背筋をこれでもかと伸ばし、努めて冷静な声色で。痛いくらいの静寂の後、三日月宗近のあいわかったというたった一言でその場は収まった。

審神者は歓喜した。
ああ、私の取り越し苦労であった、と。
皆拒絶し、もっともっと大事になると思ったけれど。
さんざん言い渋り、胃を痛めながら逃げ、昔の悪夢にもうなされてしまった。だが、何事もなく伝えられたこの瞬間、すべてがどうでもよく思えて。
それなのに。

「明日来るのは監査官です。私の邪魔になんか」
「…嘘つき」
「何が、でしょう?」
「主、大人が嫌いでしょ。それも男は特に」

審神者の瞳が清光をとらえたまま、大きく大きく見開かれる。
沈黙が何よりの肯定であった。
審神者は鶴丸を顕現してから――すなわちあの儀式に巻き込まれた日から大人が酷く恐ろしく、嫌悪する対象になった。特に男が。

白にとりつかれたあの儀式の日。彼女は鶴丸を顕現することに成功した。
皮肉なことに儀式が成功したのである。果たして真白い子供の生贄が必要だったかは、鶴丸国永本人も知らないが。
だから彼女の初めての刀は鶴丸国永なのだ。そんな彼女を政府は素質がある、と判断した。審神者がいない本丸にあてがえば、きっと即戦力になるだろうとも。
以上が今現在、彼女が15という歳で二人目の審神者として刀剣たちに可愛がられている経緯である。
 
そんな彼女は成人男性の声を聞くと、あの日の真白い人間たちの儀式が脳裏に浮かぶようになってしまった。大勢の大人たちが子どもを取り囲み、微塵のためらいもなく酷くとがったナイフを突き刺したあの瞬間が。

――これは神聖な儀式である。

欲にまみれたあの叫び声が。
 
気持ちが悪い。頭が痛い。不愉快だ。

「ちゃんとした理由とかは全然分かんねーけど。あ、もちろん話してくれるの待ってっかんね」

でもちょっとつついただけでこんなんなっちゃうんだもんなぁ。
一人ごちるような清光の声はもちろん審神者に届いているわけがない。常日頃から白い顔をさらに青白くさせ、何かに耐える様にきつく目を閉じ――自身のトラウマから逃げることに必死な彼女には。

「俺、主のこと大好きだから。主が俺たちの主になる時からずっと見てた。だから分かんだよ」
「正式に俺たちの主になるときさ、手続きだなんだって色んな人間がここに出入りしてたでしょ? 俺あれすげーやだったの。でもさ、俺よりも主の方がずっとずっと嫌そうだった」

審神者と清光の額が触れ合う。同じ色の髪がくしゃりと混ざり、ない交ぜになった。
近すぎて滲んでしまう赤色の瞳がじいっと審神者を射貫く。その瞳にからかいや冗談の色などはもちろんなく、ただただ純粋に心の底からの言葉を紡いでいるのだと射貫かれている彼女じゃなくても理解するだろう。

「頑張って隠してたけど、めっちゃ下手でさ。すっごい可愛かったなぁ…。嫌いとか、怖いとかそういう感情でぐちゃぐちゃになった顔して」

あと数ミリ。どちらかが身じろぎすれば触れ合ってしまう唇。清光の唇からはとめどなく言葉があふれ出し、対する審神者の唇からはか細い吐息がこぼれるだけ。

「ねえ主、あんたはただ座ってるだけでいいの。お姫さまみたいに、ただ俺たちに命令すればいい。――嫌な物全部斬ってってさ」
「ちがう…だめ。私はそんなことしない」
「ええ、なんで? 俺たちはそのために存在してんだよ。俺嬉しいけどなぁ」

――カチャリ。
この金属音が、清光が己の刀を自身に触れさせた音だと気が付くのに数拍の間が必要だった。
審神者の小さい手が加州清光の柄を握っている。あまりにも冷たいそれに、驚き手を放そうとするが上から覆いかぶさった清光の手が許さない。

「これ、もう主のものだよ。俺も主のもの」
「加州清光やめて。今すぐ手を離しなさい…ッ、これは、命令です」
「やだ。主が斬っていいっていうまでやめない」

「――清光。やりすぎだぞ」

まだ幼さを残す澄んだ声が、じりじりと楽しそうに審神者を追い詰める加州清光を止めた。

「後で鶴丸に怒られても知らないからな」
「げぇ、アイツの怒らせると面倒なんだよね」
「ならさっさと主から離れろよ。――主、平気?」

未だに混乱に何度も瞬きをする審神者の視界に、心配そうな大和守安定が映る。
清光の紅から安定の青へ。審神者の混乱が収まることは無い。けれど助かったという安堵からぽつりと安定の名前を呼んだ。
名を呼ばれた彼はふわりと微笑み、1つに纏められている柔らかい髪を揺らす。

「ごめんね。こいつ拗ねると面倒でしょ」
「い、いえ。助かりました。ありがとうございます」
「俺は拗ねてたんじゃなくてぇ! 主にちゃんと、俺が守るからねって」
「だとしたら主がこんな怖がるわけないだろ。ほら、もう行くぞ」
「ちぇ〜。もうちょっと主といられると思ったのにな」

嫌な音を立てて暴れる心臓を抑えつつ、審神者は小さく息を吐く。混乱を吐き出し、冷静さを取り戻すように。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。と自分に言い聞かせるようにきっちり3回心の中で唱え、安定に引っ張られている清光を射抜いた。

「清光――二度目はありませんよ」

手綱を、引かなければ。幾ばくか取り戻した冷静さで判断したことである。
自身の出せうる力を全て込めて、思い切り。二度と、同じようなことが起こってしまわないように。
しかし二度目はない、という言葉は審神者自身にも言えることで。
――次はきっと私はみっともなくお願いしてしまうから。あの日あの場にいた人間全てを、あれに関わっていた全てを痛めつけて殺してしまえと。
出来うる限り残忍で、残虐で、無慈悲に。

それでは意味がないと、彼女は己に強く言い聞かせる。

自信の立場に陶酔し、彼らの力に溺れ切ってしまった一人目と同じ道はたどってはいけない。
白に魅入られた人間と同じにはなりたくない。
私は、私の力で。

「はぁい。主、俺、主のこと大好き」

――ずっとずっと、俺たちの主でいてね。

心底嬉しそうに細められた赤色の瞳が、必死に理性を繋ぎとめている一人の少女を捕らえていた。