明日、私は結婚する

それからもおそ松は、遠慮という言葉を知らないのかと思うほど毎日私の家に遊びに来ていた。機会はいくらでもあったのに、あのキスに何の意味があったのかは未だ聞くことができずにいる。

「名前、ここ分かんない」

「あっ、それはね……」

真面目に宿題に取り組んでいるおそ松の邪魔をする訳にはいかず、私も課題を進める。時折こうして分からない箇所を聞いてくるので、なんだか拍子抜けしてしまった。あの日以来、おそ松は遊ぶ時間よりも宿題をする時間が圧倒的に増えた。どういう意図があるのかさっぱり分からない。ただ一つ気づいたのは、おそ松の真剣な横顔が素敵だということ。更にこの狭い部屋に二人きりというシチュエーションが、私の心拍に刺激を与える。ずっと平然としていられる保証は無い。今にも溢れてしまいそうな言葉を腹まで押し戻して初めて、おそ松とまともな会話が出来るのだ。

「っし、今日のノルマ終わり」

おそ松がノートを閉じる音で我に返ると、ぼうっとしていたのが見えていたのか不思議そうにこちらを見た。

「あ……」

この空気は不味い。そう思ったのに私は彼を見つめることしかできなかった。まるであの日のやり直し、とでも言うようにおそ松が近づいてくる。指が後頭部に触れたのに気づいた時にはもう、引き寄せられていた。

「んっ」

軽いリップ音がやけに耳に残った。理解が追いつかず混乱していると、ひどく優しい声でおそ松は囁く。

「名前…、どうして俺がこんなことするか分かる?」

そうやって、いつもおそ松は私に尋ねる。こいつは、私が好いていることを知っているのだ。それなのに、あえて直接言わずこうして私の口から引き出そうとしている。それが無性に悔しくて、何故か少し悲しかった。だから私は鈍感なふりをする。

「わかん、ない…」

そっか、こいつの口から放たれたのはそれだった。くしゃりと乱雑に袖口で唇を拭われ、そして一言ごめんとだけ言い残し、立ち上がった。背を向けて、私から離れていく。

その様子にすごく腹が立ち、確か叫んだはずだ。




「おそ松…っ」

あの時、私がおそ松を呼び止めなければ、未来は変わっていたのだろうか。こんなに、苦しい思いはしなくても良かったのだろうか。あの日と同じように精いっぱい声を出したはずなのに、お酒のせいでひどく擦れていた。おかげで、おそ松に気づかれることはなかった。明日私は結婚するのに、想っているのは夫になる人ではなく、遠くに見えているその背中ばかり。こんなにぐちゃぐちゃな心で、明日を迎えるなんて到底できない。だからこそ、この未練がましい想いに終止符を打たねばならなかった。おそ松も、恐らく私の考えていることに気づいて今日誘ってくれたのかもしれない。その分かりにくい優しさが、好きだった。慈しむような目で見つめてくれたその瞳が好きだった。得意気な顔をして、鼻の下を指で擦るその癖が好きだった。ああ、考えれば考えるほど、おそ松の好きなところが心に溢れ出る。それはまるで際限のない泉のようだ。その泉を埋め立てて封じ込めなければ、今日私がおそ松と会った意味がない。

「っ、あ」

もう一度、名前を叫んで、走り出そうとしていた私の肩に、ぱさりと何かが掛けられた。

「風邪引くよ?」

「…どうして……」

振り返ると、心配そうな笑みを浮かべた恋人がいた。驚いて本音が口から零れてしまい、対して彼は肩を竦める。

「メールにさっき気づいた。式の前日に飲みに行くなんて心配するだろう。だから迎えに来たんだ」

彼は職場からそのままこちらに来たようで、今朝出勤した時と同じく髪の毛からつま先まで一切乱れていなかった。肩に掛けられた上着を差し出し、なるべく顔を見られないように横に並んで手を繋ぐ。

「ごめんなさい。ありがとう」

「体が冷えている。着ていて」

再度上着を掛けられ、言われるがまま温もりに包まれることにした。もう、振り返ることはなかった。彼は私の涙に気づいているが何も聞かない。その優しさが、痛いほど胸を締め付ける。

おそ松への想いが完全に消えた訳ではない。それでも、あの時走り出していたら。追い付いてしまっていたら。きっともうこちらには戻って来なかったと思う。だから、これで良かったんだ。



(粗末な人間にふさわしいエンディングなどない)
2017.12.11



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