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「ぃよっ、と。なにしてんだ?」
「うお、ルフィ……あは」
「おい、なんで逃げる」
逃げるだろ、そりゃ。
宴会の翌日。みかん畑が気持ち良さそうに葉をそよがせる音を聴きながら、メインマストに背を預けて膝を抱え、なんとなしに空を見ていれば、下の甲板でウソップと魚釣りをしていたはずのルフィが急にやってきた。反射で立ち上がって後退りした私へ、ルフィは詰るようにじとーっと目を細めた。
「それに今、うおっつったよな」
「分かんない、言ってないと思う」
「ほーん。ま、いいけどよ」
本当にどうでも良さそうにルフィは軽く言ったが、の割にはな力加減で腕をがっしり掴んできた。ぎゃあ。掴んだ腕を引っ張られ、強制的にその場に座らさられる。うぎゃ。私を最初の体勢に戻したルフィは、当然のように隣へ腰を下ろした。
「(まあテディベア抱きされないだけマシか……)」
「いやァ、今日もいーい天気ですねェ〜」
「誰??」
「ん? おれだぞ?」
ルフィは流れている長閑な空気を、全身で満喫するように穏やかに目を閉じている。口調のおかしさを説いたんだけど、まあいっか。普段と何ら変わらぬ自由なルフィに、私は内心でこっそり胸を撫で下ろした。
昨日の今日。だがびっくりするほどなにもなく、ルフィはいつも通りだ。昨晩だって、みんながへべれけになってきた頃を見計らってさりげなく人型に戻したけど、ルフィは私に詰め寄ってきたりせず、何事も無かったかのようにふつーに宴に戻ったし。ルフィは意外とそういうところの空気を読んだりする人だった。意外と。いや今回も読んだのかは分からないけど。シンプルにどうでもよかっただけかも。「眠ィですね〜」とまだ謎口調で頭をユラユラさせているルフィを横目で見る。昨日のことを気にしているようには、とても見えなかった。
「(……事故だった?)」
なんかルフィもびっくりした顔してたし。ルフィが私に好意があるものと思ってたので、私はてっきり故意なのかと思っちゃったけど……あれ、もしやこれ、私の考えすぎだったのでは。あの時のルフィは本当に酔ってて、頭がグラついただけとか――ああ、あの時風がわーわー騒いでたし、風に頭を押された説も充分有り得る。同じく妙にはしゃいでた海が船を揺らした、とかも。揺れた気はしなかったけど、動転してたせいで記憶が曖昧になってるのかもしれない。目をつぶって昨夜の出来事を思いだそうとしてみたが、いまいち判然としなかった。
「(……そうだよね。“あの”ルフィがあんなこと、素面でするわけないよね)」
なんたって、王道漫画の主人公だもん。そんなキャラが性欲に頭を支配された猿みたいな行動するわけないよね。付き合ってもない、両片想いというわけでもないという関係の相手にキスなんて、まさかそんな爛れたサークルの先輩みたいな真似……。ないない、するわけない!
そう考えると急に気持ちが軽くなった。に加え、過剰反応してしまった自分が恥ずかしくなってくる。事情も聞かずに早とちって本にしてしまった。きちんと謝るべきだろうか。……いやでも掘り返すのはちょっとやだな……。このままどうにか流して……なんならもう全てなかったことに……でき……?
悩みこんでいれば、ふ、と目の前が陰り暗くなった感覚がした。不思議に思って瞼を持ち上げると、迫り来るルフィの顔が――顔が?
「っだァ?!」
「ぅぶっ」
叫びながら上半身を左へ倒すと、ルフィはちょうど私の顔があった場所に顔面をぶつけた。「おい! なにすんだよ!」マストから顔を剥がしたルフィが、ちょっと赤くなった鼻を抑えて抗議してくる。
私は中途半端に寝転んだような状態のまま目を剥いて、いつの間にか帽子も後ろにおろしているルフィを見上げた。身を守るように交差された腕の下では、バイクのエンジン音みたいな激しい心音がしている。
「こ……こっちの台詞なんですけど……は……? なにし……は? いまなにしようとした?」
これだけ拍動してるんだから血が廻りまくってるはずだ。なのに、驚愕しすぎたせいか血が一気に抜かれていくような寒気じみた感覚もしていて、ウワなんかもう気持ち悪い、吐きそう。助けてチョッパー。心の中でかかりつけ医にヘルプを求める。
「なにって……おめーが目ェ閉じてたから?」
「答えになってない。全然なってない。助けてチョッパー」
「なんでチョッパー呼ぶんだ?」
「診てもらってください、頭を……」
「お前それはちょっと失礼すぎると思うぞ」
仲間にしてもらった矢先に船長が狂ってしまった。 もう無理だ、終わった、なにもかも。
絶望しながら身を起こし、じりじりとルフィから距離をとる。怯えきっている様子の私に、ルフィはこてんと首を傾げた。
「どうした?」
「いやどうしたって……ちょ、待って、止まって。こっち来ないで」
「なんでだよ」
「いいから、もういい。なんでとかもうそういうのいらないのでとにかく止まっ――おい止まれ言ってるやろ動くな!」
「怖いなお前……」
プライドとか船長への遠慮とかそういった諸々をかなぐり捨てて声を荒らげる。逃げた分だけにじり寄ってきていたルフィが引きながらも動きを止めたので、私はホッと息を吐いて、改めて距離を取り直した。手摺まで逃げてからやっと深呼吸をして、荒ぶっていた気持ちを鎮めてルフィへ向き直る。ルフィは少し不貞腐れたような面持ちをしていた。なんでだよ。
「えっと……もしかしてルフィ、昨日のこと覚えてる?」
「フランキーとナツの歓迎会のことか? 当たり前だろ! 楽しかったなー!」
「いや、あの……うん……それじゃな、まあ歓迎会は楽しかったですけど……」
「そんでナツがよー、こう、ふにゃって笑ったの見て急に腹が減ってよ。腹? んん、喉が乾く? みてーな。とにかく気付いたら――」
「あああああ!」
叫んで続きをキャンセルさせた。コイツ覚えてる。コイツしっかり覚えてる! 覚えてるなら(あれ、やっぱり覚えてないのかな……?!)ってさせる瞬間を挟むんじゃない。
「んで今もよ。なんか目瞑ってたナツ見てたら、今度は腹の奥がなんつーか、唸る? みてーになって、すげェ食いてェってなったんだよな。ナツは食いもんじゃねェのに。わはは!」
「わははじゃねえよ。……そういうことってルフィは誰にでもするの?」
「しねェよ。だってナツにしかなったことねェ」
「……じゃあそれしたら、私が嫌がるかなとか怒るかなとか全然思わなかった?」
初めてルフィの表情が曇る。ルフィはちょっと罰が悪そうに目を泳がせ、結んだ口を波線のようにもにょもにょとさせた。
「かも、とは、ちょっと思った……かも」
「うそでしょ、未必の故意だったの……?」
有罪すぎる……。しかもよりにもよってルフィが、というショックで気が遠くなった。
純粋、無知ゆえの行為なら仕方ないかなというか以後しないでねと釘を刺そう思っていた。でも十七っていえば高二だし、そういう諸々が分からないわけない。そもそもがこの船、男比率多めなんだし。
「え、嫌われるかも、とかは思わなかった?……それとも嫌われても別にいいってこと?」
「いっ?! そ、それだけは絶対いやだ!!」
ルフィが床に手をついて乗り出してくる。けれど近付くなというさっきの言葉を律儀に守っているらしく、それ以上の動きはなかった。
「……きらいになったのか?」
か細い声で弱々しく言葉を紡ぎ、離れた位置から震えるルフィが、なんだかまるで捨てられた子犬みたいで。私は抱く必要もない罪悪感を抱いてしまい、それが釈然としなくて自然と眉間に皺が寄る。
「……それはこれからのルフィ次第だよ」
「え……」
「もうこういうことしないって約束してくれるなら、なかったことにしてあげる」
仏頂面をしたまま、顔を背ける。最大限の譲歩だ。温情だ。新参者のくせに船長にどんな態度だと思わないでもないけれど、しかしゾロだって『いやなことはいやと言っていい』と言っていたし。それにこれは人権の問題だから。強気にでさせてもらおう。
「なかった、こと」
「そう」
私はポカンとしているルフィへ、後ろめたい気持ちゼロでにこやかに微笑んだ。
「私だってせっかく仲間になったのに、船員と――ましてや船長と気まずい仲になりたくないよ。だからお互い、全部忘れようって提案」
「全部……でも、でもそれは……」
ルフィは私にしたことを忘れ、私もルフィにされたことを忘れる。大前提として『もうしない』という約束も組み込まれているので二度目が起こることもない。そしてその流れでついでに私への好意も忘れてくれれば万々歳。
一見折衷案のようにも見えるこの案は、実の所私にしか利がなかった。
「……いやだ」
「は?」
「なかったことにはしたくねェ」
「……じゃあ私に嫌われてもいいってこと?」
「それもいやだ!」
でも、とルフィは静かに続ける。
「なかったことには、絶対しねェ」
思いの外強い口調で言いきられ、たじろいで口を噤む。夕時特有の、夜を紛れさせた強い風で頭上の帆がバサバサと揺れる音がした。風に煽られ、少し俯きがちになっていたルフィの顔周りの髪がよけられる。すっきりした目元に、茜色の夕焼けが差し込まれた。
「おれはお前が好きだから、ああしたかったんだ」
だからなかったことにはしねェ。
固い意思で爛々と光る黒い瞳が、真っ直ぐに突き刺さる。それなりに距離があるのにもかかわらず、甲板に誰もいないこともあって、ルフィの凪いだ声はやけに通った。風も海も、示し合わせたように黙り込んでいる。
「……けど、嫌われんのもいやだから、嫌わないでくれ」
キッチンと繋がる煙突口からは魚介類を炒めたようないい香りが立ち上っている。私はもうすぐ食事の時間なのかな、なんてどうでもいいことに思考を散らせ、半ば諦めの気持ちになっていた。返事を催促するようにうなじを擽る風へ、深い溜息を溶かす。
「……わかった」
「本当か?!」
渋々呟くと、ルフィはパッとかんばせを綻ばせる。紅潮した彼の頬は夕陽のおかげで実際の色よりも遥かに鮮やかに見えた。
「言ったな?! なかったことにすんなよ?! 嫌うなよ?!」
「分かったってば……」
なんだか負けた感じがして本当に本当に本当に釈然としないけど、まあ別に元から嫌悪を覚えていたわけじゃないんだ。このくらいいいだろう。なかったこと云々は飲んでくれたらラッキー程度の要素だったし。そもそもの主題はここじゃない。
「ただ、ああいうことはもうしないで」
「う……お、お前がいやならしねェよ」
本題の方をしっかり念押しする。さっき炸裂させた我儘ぶりに比べると、かなり歯切れが悪い物言いで返された。本当かお前と視線で刺すように見据え続ければ、ルフィの顔にじわじわと汗が滲み始める。さっきの今だしこちらに関しては形成がよろしくない自覚があるようで、うぐ、とルフィは首を引いた。
「もうしねェって!……勝手には! してェってなったらちゃんときいてからする!」
「するな!」
そういう問題じゃないんですけど?!
おいと憤る私に、ルフィは唇をきゅっと結んでそっぽを向くという、分かりやすい黙秘の構えをとった。こ、こいつ!
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