01

「あら、かわいい」
 妻の面白がる声が転がったのは、引っ越しの荷解きの最中だった。ハリーは体に宛がって懐かしんでいたクィディッチ用のセーターを片手にそちらを振り返る。ジニーはにっこり笑顔の横に、横幅十五センチほどの小さな木箱を掲げていた。
「ああ、懐かしいな」
 一瞬で回顧的な気分を引き起こされ、ハリーはちっちゃなセーターをソファへかけて、ジニーの元へ近寄った。
「これはあなたが?」
「うん。マグルのスクールの課題で……彫刻刀を自分の手で握って彫ったんだよ」
 目と眉の幅を狭め、気難しい顔を作って彫るジェスチャーをしてみせれば、ジニーはくすくす笑った。揺れる肩の向こうでは、空になったダンボールがひとりでに折り畳まれていっている。魔法に慣れきった今ではもう考えられないなと、ハリーは自分でも笑った。
 古ぼけた木箱の表面には、上の角に色の褪せた歪な青い星、下の角にはさらに掠れた丸模様、そして真ん中には大きく狼が彫られていた。当時は最高の出来だと我ながら惚れ惚れしたものだが、今見ると彫り跡が深すぎたり浅すぎたりととにかく雑で、見ていると少し恥ずかしくなる。
 木箱をジニーから受け取って、狼のざらついた毛並みをそっと指で撫でる。舞い上がる埃と一緒に昔の記憶が蘇ってきて、ハリーは口元を綻ばせた。
「――これはね、僕とヴァイオラの始まりの思い出なんだ」
「ヴァイオラ?」
 ジニーが目を鋭くさせた。ホグワーツにそんな名前の女の子はいなかったはずだ。少なくともハリーの周りには。ジニーには、学生時代のハリーの交友関係に過敏にアンテナを巡らせていた自負があった。
 途端に不穏な空気を漂わせ始めた妻に、ハリーが「そんなんじゃないよ」と苦笑しながら釘を刺す。ジニーには、いずれ話さなくてはと思っていた。
「ヴァイオラはね、僕の大事な――」



   ✲✲✲



 ハリーがプライマリースクールに入って間もない頃、図画工作の授業で木の箱を作る課題があった。生徒それぞれに専用のキットが配られて授業内で各自それを組み立てる。木板の形を削って磨いて整えたり、好きな絵の具で色鮮やかに仕上げたりといった作業が行われるため、簡単そうに見えて、二ヶ月近くというなかなか長い期間を要する課題だった。
 ハリーには自由に使える絵の具が少ない。入学時に(渋々)買い与えられた絵の具セットだけでプライマリースクールの卒業まで乗り切らなければならないので、画材はできる限り節約する必要があった。その悲しい事実を、ハリーはまだ両の手に収まる程度の年齢の内から正しく理解していた。
 そのためハリーの木箱は、表面の四隅にゴミ粒みたいな大きさの丸やら星やらを描くだけの、最小限の飾り付けで完成した。ハリーは本来なら二ヶ月かかるところを、一ヶ月もかからず終わらせてしまった。周りは遅い子だとまだ木を丹念に磨いたり、木組みが嵌らず悪戦苦闘している段階で、早い生徒はハリーのように、絵の具に取り掛かっているくらいの時だった。ハリーは、できる範囲でやれるだけのことはやったと思っていた。多少みすぼらしくても、まあこんなもんだろうと十分満足していた。
 しかし早々に提出された木箱に眉をひそめたのは、担任の教師だった。個性的に彩られたクラスメイトたちの木箱に較べるとハリーの地味な木箱はあまりにも貧相で、悲しくなるほど浮いていたからだ。
 歳若い担任の女教師は新任だった。自分が初めて受け持つクラスを、出来うる限り素晴らしいクラスにしようと新任らしく意気込んでいた。それに、ボーナスに深く関わる年度末の査定も近かった。だからクラスで一人あからさまに惨めな、手持ち品のほとんどが中古でおさがりのボロな、ガリガリに痩せこけた不幸な少年を決して見捨てなかった。
 教師はハリーの前に、様々な動物のイラストを何枚も並べた。その中から好きなものをハリーに一枚選ばせた。ハリーは狼のイラストを選んだ。たまたま目に付いただけで狼が特別好きというわけではなかったが、なんとなくこれがいいなと思った。
 教師はハリーが三秒もかけないで選んだ狼を見て、「かっこいいわね」とにっこりして、次にカーボン紙を取り出した。
「この二枚の紙を木箱の上にピッタリ重ねて敷いて、ペンで狼をなぞってみてごらん」
 教師に言われるまま、ハリーはイラストをなぞった。組み立てた木箱を寝かせて四苦八苦しながら描いていたら、教師は「一度分解してしまった方がきっとやりやすいわ」と言って、ハリーが何も言わない内に手早く木箱を分解してしまった。ハリーは少しムッとした。僕はもう終わっていたのに、この先生はどうして台無しにするんだ。そもそもこれは、いったい何をさせられてるんだ? ハリーはむっつりと口を結んで、さっさと終わらせてしまおうと手を動かした。
「終わりました」
「まあ、あなたって本当に仕事が早いのね、ハリー!」
 ぶすくれて報告するハリーに気付いているのかいないのか、とにかく教師は溌剌と褒めた。
「ほら、紙を二枚とも外してみて……」
 紙を取っ払い、ハリーは目を丸くした。自分がなぞった狼のイラストが木の板に写っていた。下に写せるほど力が篭っていなかったのかところどころ掠れているし、尻尾のところは最後に終えたので、雑な線になっている。カーボン紙を使うのは初めてだった。「すごい」と呟くハリーの反応に教師はいたく満足して、ますます口角を上げた。
「そうしたら、今度はこれを彫刻刀で彫ってみましょう。放課後、図工室においで」
「でも僕、彫刻刀は持っていません」
「大丈夫、備品を貸してあげられますから」
 それからハリーは毎日図工室に通った。帰りのホームルームが終わりダドリー軍団から逃げた後で、尚且つペチュニアおばさんに不審がられない程度の時間しか居残りは出来なかったが、それでも毎日少しずつ少しずつ、丁寧に狼を彫った。
 ハリーの木箱が完成したのは、夏休み直前になった。 彫刻刀の先を何度も付け替えてはじろじろ吟味して、入念な試し彫りを何度もしたせいで、進行は遅々として、結局クラスで一番最後の完成になってしまった。しかしたっぷり時間をかけた甲斐あって、毛並みの一本一本にもこだわった狼は、ハリーにとって当初よりもずっと満足のいく出来になっていた。着色がろくにない点のみが、最初と変わらない。教師は絵の具を貸そうかと提案してくれたけれど、ハリーは申し出を断った。この木彫りの狼は色がない方がかっこよく見える。素材の味を活かし過ぎな木箱は、パッと見の出来栄えは初めとそう変わらないが、それでもハリーの目には誰のものより輝いて映っていた。
 出来上がった木箱をハリーは色んな角度から眺めてみたし、そんなハリーを教師も微笑ましく見守った。教師は自分が哀れな子どもにしてやったことを誇らしく感じていたし、理事会から賞与を与えられた時のスピーチのプロットも、既に粗方練っていた。

 ハリーは木箱を大事に抱えて帰った。木箱はたったの十五センチしかないけれど、それでもまだ体の小さなハリーにとっては両手でしっかり持たねばならなかった。夏になりたての太陽の下では手が汗ばむ。木箱に汗が染み込むのが嫌だったので、ハリーはできるだけ木陰を選んでゆっくり歩いた。たまに足を止めて木箱をじっと眺めては、にっこりした。階段下の埃っぽい物置部屋の中でも、毎日拭いて綺麗に使おう。お古じゃない自分だけの持ち物なんて今はほとんどないけれど、それでもいつか、この木箱の中に宝物を入れられる日がもしかしたら来るかもしれない。ハリーはその時まで木箱を大切に保管しておこうと決めた。木が腐ったりしないように。掘り目に埃が詰まったりしないように。角っちょにあるオマケ程度の青い星も、色褪せたりしないように。
 不確かな未来に思いを馳せて、ハリーは硬い木箱をぎゅっと抱き締めた。ここ数ヶ月ですっかり嗅ぎ慣れた木の香りがふわりと立ち上ってきて、不思議と胸が安らいだ。

 ハリーの木箱は、完成したその日のうち、家に辿り着くことすらなく壊された。意地の悪いことをさせたら右に出るものはいないダドリーは、ハリーがなにやらコソコソしているのにずっと前から気が付いていた。台無しにするのにとびきり最高のタイミングを探し、珍しく見せない辛抱を見せてじっとその時を窺っていたのだ。
 でっぷり太った腕でパンチされて視界が揺れ、抱き締めていたものを奪われる。手下達に抵抗を封じられ、地面に縫い付けられる。棍棒のような足がすぐ目の前で振り下ろされ――奪われた木箱が無惨に踏み潰された。バキッと木の板が砕ける音と、ダドリーとその取り巻きの下卑た笑い声がワンワンと反響して……そうしてハリーの頭は真っ白になって、気が付くと階段下の物置部屋の中で、薄っぺらく毛玉だらけのシーツにくるまって泣いていた。嗚咽はなく、ただただ止めどなく溢れる涙が目元をひたすらに濡らしていた。
 鼻を啜って身動ぎをすれば、木の香りがした。思えば、胸に抱いたものが体に食い込んでいてひどく痛い。ハリーは袖口で乱暴に目を拭って身を起こし、暗い中で目を凝らした。電気もなにもないため眼鏡があってもよく見えなかったが、今はよく見えない方が幾分かマシだと思ったので、そのままかつて木箱だった木片を見つめた。

 どうしていつも最悪なことになるんだろう。どうして楽しい気持ちや幸せな気持ちはあっという間に消えてしまうんだろう。どうして僕はこうなるのだろう。

 悲しいことには、何処までも果てがないように思えてしまう。考えれば考えるほどに胸が張り裂けそうなほど痛み、ハリーの体は哀しみでバラバラになりそうだった。また一粒涙が零れ、木箱に落ちた。暗闇に慣れた目で、落ちた場所は狼の顔だと分かった。ハリーが彫った狼は、頭と胴がぱっくり割られていた。
「――なんて可哀想なハリー!」
 誰かがいる。
 この狭い、物置部屋の中に。
 突如響いた自分以外の声に、ハリーは暗闇の中で呼吸も止めて凍りついた。声は、自分の近くから聞こえた気がした。近く、本当に近く――すぐ隣よりもずっと近く――そう、例えば、頭の中のような。
「どうしてハリーがこんな目に合うのかしら」
 謎の声がまた喋る。ちょうど自分が考えていたことと同じことを言ったので、ハリーはほんの少し平静さを取り戻した。
「ああ、本当にひどいわ、こんなの……あんなに頑張ってたのに。こんなに素敵なのに」
 そう、本当にその通りだ。僕はたくさん頑張ったし、素晴らしいものができたのに……。
 そう心の中で同意していれば、温かいものがじわりと込み上げてきたので、ハリーはひそかに下唇を噛む。ツンと鼻が熱く痛くて、なんだかまた泣きそうになっていた。心の底から胸を痛めているという声音は、ハリーへ、『ハリーのことだけを思って、大切にしている』という奇妙な、それでいて確かな実感を与えた。生まれて初めてのことだった。声だけの存在にそんなことを感じるのは不思議なことだったが、嫌な気持ちはしなかった。
「あの大間抜けの豚野郎、心臓も脳みそも腐ってるに違いないわ。ドロドロよ……そうだわ、私に魔法が使えたなら、きっと無事じゃ済まさないんだから! 目ん玉も髪も、骨だって溶かしてやるし、芋虫の体液しか飲めない呪いをかけて、体をソフトクリームみたいにグルグルに捻って全身紫にしてやって、それから胴体以外の部分を芽キャベツの赤ちゃんくらいに縮めてやるのよ――手足だけじゃなくてもちろんアイツのお粗末な――」
「ねえ、誰かいるの?」
 ハリーは勇気を奮って話しかけた。少なくともこの声は、ハリーをゴミのようには思っていないと分かったから、話してみたかった。それにつらつらと一切の淀みなしに紡がれる容赦のない罵倒も気に入った。
 子猫みたいな高い声でみゃあみゃあダドリーをこき下ろしていた声が止まった。緊張したようにハッと短く息を呑んだ音がした。
「ええ、いるわよ」
 先程よりも上擦った声が慎重に囁いた。
「あの……こんにちは?」
「こんにちは」
 ハリーもつられて囁いた。陰鬱な気持ちは吹き飛んでいて、薔薇のアーチの向こう側を覗き込むように、胸が高鳴っていた。
「ええっと……」
 声は困惑混じりに揺れていて、言葉に迷っているようだった。ハリーは声が逃げてしまわぬよう、話し出すのを辛抱強く待った。
「あの、あなた……えっと……ハ、ハリーは……」
「うん」
「……私の声が、聞こえているの?」
「うん、聞こえてるよ。ついさっき、急に聞こえるようになったんだ」
 遠慮がちな声に対して、ハリーは食い気味で喋った。ハリーはもっとこの声の主と話してみたかった。学校でも友達なんていなかったし、自分を見て避けない相手なんて、靴下に引っ付いてくるクモくらいだった。
 声は「そうなの」と呟いたきり、黙ってしまった。ハリーはつい焦れて、ついに自分から質問した。
「きみは、ずっとここに居たの?」
「ここ? ここって、このせまっくるしい階段下の物置部屋のこと?」
「そうだよ。違うの?」
「違うわ!」
 とんでもないと憤慨する声に、ハリーはいいぞと拳を握った。緊張していたみたいだけど、随分と調子が戻ってきたみたいだ。
「私はね、ずっとあなたの傍にいたのよ、ハリー」
 声は誇らしげに言った。
「僕の? ずっとっていつから?」
「ずっとはずっとよ。私はあなたが産まれる前から、あなたの傍にいたんですからね」
 学校の先生みたいな物知り口調だった。声の主は自分の言葉に元気づけられたようで、「そうよ」と自身へ言い聞かせるように呟いた。
「私、あなたのお友達なのよ」
 

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