02

 木箱を壊された翌日にハリーが教室へ行くと、いつも笑いかけてきてくれていた担任教師は、露骨な態度で顔を背けた。ハリーをなるたけ視界に入れないようにすることを決めたらしい。昨晩ダドリーから事の顛末を聞いたペチュニアおばさんが、学校へ「一人の生徒へ過度な肩入れをし贔屓するなんて、お宅の学校は教師へ一体どんな指導をしているのか」という猛抗議の電話をいれたことは知っていたので、ハリーはなにも不思議には思わなかった。教師がハリーを気にかけてくれたことは嬉しかったが、ハリーはその親切が打算であることを幼心にも敏感に感じ取っていたし、陶酔と憐憫が織り混ぜられた眼差しは、はっきり言って鬱陶しかった。

 なにより、ハリーの日常には、今や無視されるよりもずっと不思議で素敵なことが起こっていた。
 姿の見えない声と数日お喋りをして、分かったことがある。
 まず、声の主は女の子であること(ハリーがこの質問をしたら、声は「どう聞いたって女の子でしょう!」と大層臍を曲げてハリーを困らせた)。
 声はハリーだけのお友達でハリーにしか聞こえなくて、絶対的にハリーの味方であること(ただ、声はハリーへ対してもやや高圧的な話し方をして、前述のように時折ハリーへも辛辣にくさした)。
 実際に声に出さなくとも、心の中で返事をすれば声は答えてくれること(これは非常にありがたかった。ダドリーにバレでもしたらおじさんおばさんに密告されるに違いないし、もしそうなったらこっぴどく叱られ、ひどいお仕置をされることは間違いなかった)。
 声は物置部屋ではなくハリーの近くに存在するため、学校でも傍にいてくれていること(「学校でもきみと話せたらいいのに」とボヤくハリーへ、声は「そうね。でも一人の時じゃないと私は基本話しかけないわよ。だって、うっかり返事をして周りにおかしく思われるのはあなたなんですからね」と大人ぶって窘めた)。
 それから、声の主には名前がないこと。
「きみ――きみ、名前はなんていうんだい?」
 数日話して、ハリーはようやくその質問に思い至った。二人の会話はハリーが日常の文句を言うことが多くて、それに声の主は当たり前にハリーの名前を呼んで話しかけるものだから、ハリーは自分が相手の名前をまだ聞いていなかったことをすっかり失念していた。
「名前?」
 少女はなぜかびっくりしたようにオウム返しした。それから、「私、ないわ」と暗い声で言った。
「ないって名前が?」
「ええ、そうよ。ないのよ。名前がないなんて、おかしいわよね? 分かってるわ。でも仕方ないでしょう。だって私、ないんだもの……」
 少女はすっかりしょげてしまった。自分で喋るごとに気持ちをどんどん落ち込ませていっているようだった。
「誰も私を知らないんだから、当たり前だわ」
「僕が知ってるよ!」
 ハリーは急き込んで言った。いつも年上みたく気取って振る舞う少女が、取り繕う様も見せずがっくりと落ち込んでしまったことに焦っていた。
「僕がきみを知ってるし、なんたって僕らはお友達なんだし――そうだ、僕がきみに名前をつければいいんじゃない?」
「ハリーが? 私に? わあ、それってすっごく素敵! つけて!」
 少女がたちまち元気を取り戻したので、ハリーはほっと胸を撫で下ろした。しかしそうは言ったものの、ハリーは困ったことになったぞと眉根を寄せる。同年代、もしくは少し上の女の子へつける名前など、パッと思い浮かぶはずもない。
「えーっと、そうだな……メリー?」
「ダメ」
「だよね、うん……なら、アリス?」
「うぅん、悪くはないけど……いいえ、やっぱりダメね、却下」
「ソフィー?」
「ダメ。ねえハリー、あなたってば、童話とか童謡を参考にしているでしょう」
 その通りだったので、ハリーはもぞもぞと身動ぎした。少女がわざとらしいほどに深い溜め息を吐く。 
「もう、いやだわ、そんなの……ちゃんと考えてよ。しっかりしてちょうだい、ハリー」
「僕、努力してる!」
 あんまりな言い様に、ハリーはちょっとムキになって声を荒らげた。少女はふんぞり返って――姿は見えないけれど、声からしてそうに違いないと思った――ダメだししてばかりじゃないかと、イライラし始めていた。自分から提案した事実は、この際棚に上げるとする。
「文句ばっかり言ってないで、きみからもなにか案をだしてくれよ」
 だいたいきみの名前じゃないか。ハリーが憤慨していることにやっと気付いたのか、少女は「んん、そうねえ」と慌てて考え込んだ。
「……お花の名前がいいな」
 そう時間も経たぬ内に、少女はぽつりと呟いた。普段よりも気取りのない、静かな声だった。
「花?」
「ええ……あ、でも、ペチュニアはなし、絶対になし。ずぇーったいに、論外!」
「分かってるよ」
 顔も知らない少女がいーっと歯を見せるように拒絶しているのが声から想像出来て、ハリーはくすくす笑った。例えこの世に花がペチュニア一つしかなかったとしても、唯一の友達である少女にあのおばさんと同じ名前なんてつけるまい。
 それにしても花の名前か。ハリーは再び困って悩んだ。ハリーはその年頃の男の子たちと同じように、そこまで花に詳しくなかった。花の名前、花の名前。頭の中をひっくり返して記憶の中の花を探し、ハリーはうんうん呻いた。
「うーん、ローズ?」
「ありふれてるわ」
「ポピー」
「もっとお上品なお花がいいわ」
「……オリビア」
「よくある名前、その二」
「じゃあ――じゃあ――ビオラとか?」
 うんざりしつつ捻り出すと、テンポよく減らず口を叩いていた声が電源を切ったようにぷつりと止まった。
「アー、もしもし?」
 声をかけても返事はなくて、ハリーはいよいよ心配になってきた。真剣に考えなかったせいで、ついに怒らせてしまったのだろうか? 居なくなってしまったのだろうか?
 心配になったハリーが虚空をキョロキョロと見回した時、少女がやっと話し出した。
「……悪くない」
 少女の返事は、長い沈黙の割には短く、しかしそれでいてきっぱりとしていた。
「悪くないわ。悪くないわよ、ハリー。それもかなりね」
「それは……よかった」
「ええ」
 噛み締めるように静かに繰り返す少女に、ハリーはどうしてかどぎまぎしていた。沈黙が妙にチクチク肌に刺さって、どうにも落ち着かなかった。
「でも」
 やがて少女がこう切り出した時、ハリーはほら来たと思った。やっぱりね。どこかにケチをつけたいんじゃないかと思ったんだ……。
 でもハリーは口数の少ない少女より、引きも切らず舌を動かす少女の方が好きだったのでホッとした。
「ビオラじゃなくてヴァイオラね」
「ヴァイオラ?」
「うん、そう」
 弾む少女の相槌は、いつものませた喋りより、少し砕けて聞こえた。語尾も柔らかく上がっていて、どこか舌足らずだ。普段は幾つか上のように喋る彼女が、今ばかりは自分と同じくらいの子どものようにはしゃいでいるようだった。
「ヴァイオラの方が、なんだか耳障りがよくなくって?」
「ウーン、そうかも」
 芝居ががった口調で問われたが、二つの間にさしたる違いはないように感じた。それでもハリーは肯定しておいた。少女の問い掛けは形ばかりで、自分の返答は大して当てにされていないと分かっていた。案の定、ハリーの気のない返事でも少女は特に意を介さず、「そうでしょう、そうでしょう!」と笑う。
「私はヴァイオラ、ヴァイオラなの」
 少女は――ヴァイオラは、自身の名前を歌うように口ずさんだ。完全に有頂天なヴァイオラに、名付け親であるハリーも悪い気はしない。時間はかかったし、結局自分が最初に提案した名前とは少し違うけれど、喜んでもらえてよかったとはにかんだ。
「――ねえ、ハリー。どうかこれからも、ずっとずーっと、いつまでもよろしくね」


 “よろしくね”という言葉の通り、それからハリーとヴァイオラは、長い時間をともに過ごした。二人はどこへ行くにも一緒だった。ヴァイオラが逃げ道を助言してくれるお陰でダドリー軍団から逃げ果せる頻度も格段に上がったし、一人ぼっちの惨めな時間も減り、見知らぬ親戚が自分を迎えに来るという、到底在り得ない妄想をする時間もなくなった。
 ヴァイオラは、ハリーの全てに同調するわけではなかった。嫌なことは嫌とハッキリ言うので、意見が割れることも――額の傷は稲妻よりクロスが良かっただとか、目玉焼きには塩コショウよりオーロラソースが合うだとか――度々あった。けれどそういう点がハリーにとっては逆に好ましかった。ヴァイオラが自分の頭の中だけの存在じゃないような気がしたからだ。それにそうした意見の対立が何度起こったとて、二人の心の根っこの部分は、同じ方を向いて重なっていることが、出会って早々に分かった。何度言い争ったって、自分たちが決定的に離れることはないだろうという奇妙な確信を持てた。
 だからハリーはヴァイオラとくだらないことで言い合うのが楽しくて堪らなかった。ヴァイオラと一緒に居たくない時なんて、一度も訪れなかった。結果として、ヴァイオラはハリーの良い話し相手どころか、最高の友達になった。

 ただ一点惜しむらくは、彼女に実体がないことだった。しかしそれは流石に過ぎた望みだと、ハリーはしばしば自身を戒めねばならなかった。
 

>>HOME