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 今年一といっていいほど多忙で、ひときわ疲れた金曜日だった。やっと辿り着いた我が家のうっすい扉の前で脱力する。駅からここまで歩いて来れたのが夢のよう。えらい、私。よく頑張った。自分で自分を慰めてしまうくらい、今の私は限界だった。
 だって朝から打ち合わせが四件。それを無事終わらせてオフィスに帰るなり他部署からのヘルプを押し付けられる。果てには定時間際に突然発覚した膨大なデータミス。それを全て修正し終えてやっと今だ。よっぽど会社に泊まり込みしようかと思ったくらいだ。けれど深夜から停電を伴ったビル点検が行われるとかで無理だったし。世界、どうして? 優しくないにも程がある。占いなんて信じていないが、絶対今日の私は最下位なはずだ。まあこれっぽっちも信じてないのでわざわざ確認なんてしないけれど。神も仏もこの世にはいないのだ。そういう非科学的なのは信じない質なので。
 とにかくあと少し頑張ればもう休みだということだけが、今の私の支えだった。この扉さえ超えればオーマイリルホーム。もうシャワって寝る、絶対寝る。髪も乾かさない、決めた。そう決意を固めつつ、ろくに手元も見ずに鍵を挿しこむ。疲れのせいか標準がズレたらしく、ガツンという音がした。うわ、傷付けちゃったかな……。改めて鍵穴へ視線を落として再挑戦する。挿さらない。
「は?」
 鍵穴を威圧しながらしゃがんでしっかり目線を合わせてもう一度押し込んだ。が、だめだった。少しも挿さらない。鍵の裏表間違えたかと反対向きにしてみても結果は変わらずだった。まさか部屋が違う? 降りる階間違えた? そう慌ててドア横の表札を見るが、そこに書かれた数字はどう見たって住み慣れた私の部屋番号で。
「もう、なんなの……」
 さいあく。意図せず零れた情けなく途方に暮れた声に、泣き出したい気持ちがますます強くなる。なにあれ、泣く前に一度管理会社に連絡しなくては。
 ◆
 おかしい。絶対におかしい。だって本当に挿さらなかったのに。未だ納得がいかなくて乱暴に歯を磨く不機嫌顔の自分を睨みつけた。ろくに乾かしていない髪から水滴が首筋にポタポタ垂れている。その煩わしさで鏡の自分の顔がさらに不細工に歪んだ。
 あの後、もう深夜に近いというのに管理会社の人はすぐに駆けつけてくれた。しかし念の為確認、と私がずっと握り締めて鍵を使って、いとも容易く扉を開けてしまった。簡単に、そして当然に開いた扉に二人並んで呆然とする。「なんにもなかったならよかったです!」そう口にしつつも迷惑を隠しきれていない諂った笑顔を思い出して、惨めさと若干の怒りが胸を占める。そりゃ、こんな夜中に大変ご迷惑をおかけしたと思ってる。でも開かなかった、さっきは本当に開かなかった! うそじゃないのに。動画でも撮っておくんだった。不貞腐れてベッドにダイブする。
「さいあく」
 枕でくぐもった先程と同じ言葉は、まだちょっと泣きそうだった。いいや、寝よう。寝たらきっと元気になるはずだから。
 ◆
 たっぷりお昼まで寝た。寝すぎでスッキリしない頭のまま、なんとなくテレビをつける。
「新横浜で吸血鬼退治人《ヴァンパイアハンター》大活躍……?」
 テロップを読み上げて眉をひそめる。流れているのはナマコの怨念みたいなのと、やたら派手な格好の人々が銃や剣を使って戦っている映像だ。なにかの実写だろうか。なぜ新横浜……? 変なの。それにこの局、いつもはニュースやってるはずのチャンネルなのに。……まあそういうこともあるか。休日だし。ファンタジーに興味はないが、惰性でテレビをぼんやり眺める。
「……ウワちょ、むりむりむり!」
 画面が突然大きな蚊のような生き物のドアップになったので、急いでテレビにリモコンを向けた。よく出来たCGですこと! だがいきなりはコンプラ違反だぞオイ。キレ気味で細めた視界に、赤い背中と銀色に光る髪が一瞬入り込む。よく分からないが頑張ってくれと顔も見えない誰かを応援しながら電源マークを押すと、プツンと真っ暗になった液晶にパジャマ姿の私が反射した。とりあえず着替えよう。
 ◆
 いつから私は新横浜の市民になったんだろう。
 天気もいいし買い物でもしようかと向かった駅前で、看板に書かれた『新横浜駅』の字面を唖然と見上げる。新横浜ってあれでしょ、神奈川県の。さっき映画かなんかの舞台になってたとこ。でも私が住んでいるのは××県△△市だったはずだ。それがどうして。そもそも昨日使ったときはたしかにこんな名前じゃなかった。夜中のうちに工事でもしたの? いきなりそんな、なんの告知もせずに……? そんなことある? だめだ、パニックになってきた。
 とりあえず友達に知らせよう。こういう時は第三者に改めて伝えて情報を整理するに限る。写真を撮って友人に送ろうとLINEを開いた。が、一瞬の違和感にホームに戻ってアプリを見直す。ら、り、RINE……? ま、え、私いつの間にこんなLINEの偽物アプリなんてインストールしたっけ。本物のLINEも消されてるし。え、やばい、乗っ取られてる、スマホ乗っ取られてる! トロイの木馬! ど、どうすれば……とりあえずパスワード控えて初期化? 携帯ショップに行く? まずはアプリを消した方がいい? こういうのは証拠として残しておくべきなの? なにをするのが正解なのか分からずその場に立ち尽くす。ああもう、昨日から散々すぎる、なんなんだ。
 震える指がまたRINEとやらをタップして起動させてしまって往来の真ん中で悲鳴をあげてしまう。じりじりと携帯を刺激しないように道の脇に移動して、恐る恐る様子を伺う。爆弾でも持ってる気分だ。これ以上迂闊に触らないよう少し携帯を遠ざけて薄目で画面をじっと見て、そこでまた浮かび上がる違和感。ずらりと並ぶトークルームの名前はどれも微妙に違っていた。たとえばヒカルはヒカリ、橋本さんは橋木さんに。でも一見するとそれだけなのだ。どのルームも、最後のメッセージは昨夜となにひとつ変わっておらず、そっくりそのまま残っていた。佐藤健なんて名前すら変わってないし……え、トロイの木馬様でもさすがに公式アカウントはいじれない感じなのかな? 乗っ取られた時ってもっとこう、なにもかもぐっちゃぐちゃのめちゃくちゃにされるもんだと思ってた。少し拍子抜けというか、気が抜ける。
 そんな安心感から、余計なことはしない方がいいと思いながらも、つい出来心で一番仲の良い友達――と思しき名前――とのルームを開いてしまった。
「は……なにこれ……」
 もう十年近い付き合いになる子だ。ついこの前に会ったばかりで、少し遡れば見覚えのある会話や、先日シェアした写真が目に飛び込んでくる。それなのに私の隣で愉しげに笑う彼女は、全く知らない人だった。どうせ手の込んだコラだろうと思う反面、わざわざこんなことをする意味も分からない。乗っ取り行為をするような犯罪者の思考を考えるだけ無駄ということだろうか。しかしそれにしても、こんな写真になんの疑問もなく『ありがとう!』と送る過去の自分のメッセージがひどく不気味だった。
 突然手の中の携帯が震え、驚きで落としかけた。電話マークと一緒に浮かんだ『母』の文字に安堵と肩透かしを食らった心地で「もしもし」とスマホを耳に当てる。最近は忙しかったからこうして話すのも久しぶりだ。
『元気? 仕事は順調、ってこれ一昨日も聞いたわね』
「……え?」
『いやちょっとね、なにか食べ物送ろうと思って。鳥、なんか欲しいものある?』
 懐かしいなと緩んでいた口元が引き攣り、硬直する。そんな私に当然気付かずペラペラ喋る声は、一度も聞いたことのないものだった。
『あんた昔から○○店の漬物好きだったでしょ。あの店ね――……だから――……ちょっと、聞いてるの? ていうかなんか騒がしいけどもしかして外だった?』
「……う、ん。そうなの、外。だから、……あとで連絡し直すね」
『あら、そ。じゃ、また。急に悪かったわね』
 知らない声は気を悪くした様子も見せず、軽やかな音とともに去っていく。携帯を持っていた手が、糸の切れた人形のようにだらんと下がった。
 知らない人、知ってる会話。知らない声、そして知ってる思い出。
 ここは多分、私の世界ではない。
 普段ならこんな非現実的なこと絶対に考えない。だというのに、どうしてか今はそうとしか思えなくて。そんな自分もまた信じられず、ぐらりと目の前がブレる。いやだ、なに、ここはどこなの。帰して。

 目の前を通り過ぎていく何の変哲もないはずの人の群れが、唐突に虚ろな幻影のように見え、空恐ろしく感じた。



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