土曜日は帰宅するなりソファに倒れ込んで、気付いたら朝だった。日曜日は丸一日かけて卒アルやメールなどを隈無くチェックした。月曜日は有給をとった。電話をとった知らない上司から先日のデータ修正についての労いの言葉をもらった。その後地図を見ながら市役所に向かい、戸籍を確認しにいった。火曜日は出社してみた。知らない同僚たちと以前からのプロジェクトの打ち合わせを行い、何事もなく一日の業務を終え、家に帰ってすぐさまトイレに駆け込んだ。ここ数日ろくな食事をしていなかったから、吐き散らかされるのは胃液ばかりだった。汚れた口を拭きもせずトイレの床に座りこんでぼんやりしていると、玄関口で放り投げた鞄から電話の音が流れてくる。とらなきゃ、と思ったけれど、動くのがどうにも億劫で。しばらくそうして聞いていると音も消えた。確認しなきゃ、と今更義務感に駆られ、立ち上がる。足にうまく力が入らずそのまま無様にコケ、顎や膝、他にも至るところをしたたかにぶつけた。しかし不思議と痛みはない。うつ伏せのまま、前方に伸びた指先を茫然と眺める。
「しにたい」
掠れたつぶやきは、誰にも拾われることはなく、空虚な部屋をただ回った。
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目を開けると、真っ暗な廊下に横たわっていた。いま何時だろう。のっそり起き上がり、落ちていた鞄を引き寄せて携帯を取り出す。電源がつかなかったので再び鞄に戻した。壁を伝ってふらふら居間に行き、電気をつけて掛け時計を見れば、まだ帰ってから一時間も経っていないことが分かる。吐きそうなほど喉が乾いていたので台所へ行ってコップに水を入れる。蛇口から水が流れていく様を見ていたら、あっという間に溢れてしまった。水を止め、満たんのコップに口付けて傾ける。満タンだったせいでワイシャツがびしょびしょに濡れていった。飲み込む気力もろくになかったため、流しきれなかった水が口の端から零れていく。空っぽになったコップから指を放すと、プラスチック製のコップは重力に従って床に転がった。コップも服も顔もそのままにしてソファに座る。あんなところで寝ていたからか、全身の疲労がすごい。節々も痛いし、なんだか胸がむかむかする。一度目を閉じてふーっと息を吐き出した。さっきまで寝てたので眠気は一向にやって来ない。というか目を瞑ったことでズキズキ訴える頭の痛みに気付いてしまい、逆に冴えてきた。今日はもう眠れる気がしない。明日も仕事なのにどうしよう。気分転換に散歩でもしてみるか、と私はソファから重い腰を上げた。
◆
いつの間にかできていた見知らぬ公園の古びたブランコに腰掛け、キイキイ揺らす。夜風にあてられ、胸の辺りが重たく冷たい。服くらい着替えてくるんだったと後悔していれば、ザリ、と地面を擦る音とともに足元へ影が伸びてくる。顔を上げると、座っている私と同じくらいの背丈の、端正な顔の男の子が私を間近でガン見していた。派手な銀髪にキラキラの青い瞳。人外じみていると言っていいほど整った容姿だった。突然現れたそんな少年にビクッと驚く。
「ねえ」
「な、なにかな?」
「服、ぬれてるけど」
「あー……ちょっと水零しちゃって」
「おれ、ハンカチあるぜ!」
意気込んで少年がポケットから取り出したのは、しわくちゃのハンカチだった。「使っていいぜ!」ぐいぐい押し付けられたので受け取って胸元を拭く仕草をしてみせる。もう染みてるから意味無いんだけど、まあ、子どもの好意を無碍にするわけにもいかないので。少年は満足そうに口をにこにこと綻ばせた。
「ありがとね。……ところでもう夜だけど、きみ――」
「あんね、おれ、ヒ――」
「こらこらこら知らない人に名前を教えちゃいけません!」
名乗ろうとした気配を察知して慌てて口を挟んで阻止すると、少年はきょとんと首を傾げた。丸い目が不思議そうにもっとまんまるくなる。
「いま話してるんだから知らない人じゃねーじゃん」
「ガバーい……防犯意識ザルー……」
つい頭を抱える。こんなに目立つ美少年なのに、こんなんで大丈夫か? 今までよく誘拐されなかったなと戦慄した。
「あのね、大人に名前を簡単に教えちゃダメなんだよ」
「なんで?」
「悪い人かもしれないから」
「分かったぜ!」
元気のいい返事に「いい子だね」と褒めれば、少年はえへへと嬉しそうに頬を赤らめ、いそいそと私の隣のブランコに座った。ん? 雑談の姿勢に入ってないか? 帰れ。
「ちょ、きみ、もう真っ暗だし――」
「でね、あのな、俺の名前は――」
「分かってないね?!」
こらこらおいおいと咄嗟に声を荒らげ、しまったと口を抑える。怖がらせたかと少年を窺ったが、彼は怖がった様子もなく、逆に不満だとばかりに唇を尖らせていた。
「なんだよぉ」
「いや、あの……だめって言ったよね? 一応ね、お姉さんも大人なんだよ。わかるかな?」
「でもねーちゃんは悪い人じゃないだろ?」
「んん……」
そりゃあそうだけど。説明が難しい。でもこのままじゃホイホイ色んな人に名前教えかねないし……。少し唸ってそうだと口を開く。
「きみ、嫌いな食べ物ある?」
「セロリ!」
「大人に名前を教えたらきみはセロリになります」
「ウエェエェエヤダアアァァァァ!!」
少年の大きな目からビャッとホースのように涙が噴き出していく。め、めちゃくちゃ信じてる。思ってたよりガッツリ泣かせてしまった。我ながら安直すぎてどうかと思っていたのに。想像以上の純粋さに慄く。これじゃ本当に悪い大人だ。でもこれなら怯えて家に帰ってくれそう。
「ね、分かったらおうちに帰りなさい。もう夜だから」
「やだぁ! ひとりにしないでェ! セロリになっちゃうウウ!」
「え、なんないよ……ってウワちょっと!」
少年は泣き喚きながらブランコから転がり、ひしっと私の足にしがみついた。あれ、後半しか聞いてなかったのかな? それとも後半のショックで前半忘れた? こ、この子もしかしてバ……いや他所様の子どもになんてこと考えようとしてるんだ。今のなし。
「ねえ、」
「セロリいやあああ!!」
「……あのごめん今のうそ――」
「アアアアアア!!」
「うそ――」
「ヴェッポァウベアアアア!!!!」
「す、好きな人!!」
「ウェ、エ……んぇ……?」
とりあえず泣き止ませなきゃと、泣き声に負けないよう声を張り上げる。大きな声に驚いたのか、少年はぽへ、と私を見上げた。玉のような涙がぽろっと零れてスカートに落ちる。
「好きな人はいるかな?!」
「……い、いる……にいちゃん……」
「そっか。それならおうちで兄ちゃんが待ってるんじゃないかな?」
「にいちゃん、夜は仕事してるから」
「あっそっか……」
デリケートな話題だったかもしれない。また泣かせてしまうのではと危惧したが、そんな心配はいらなかった。彼は私の膝にしがみついたまま、まだ涙で目を潤ませながらもにへっと笑う。
「にいちゃん、吸血鬼退治人なんだ」
「吸血鬼退治人……」
聞いたことのある単語に目を見張った。オウム返しする私に、少年は満面の笑みで「そうだぜ!」と告げる。すっかり気持ちを持ち直したのか、もうその顔に翳りは少しも見えない。単純なのは子どものいいところだなと私はこっそり胸を撫で下ろした。
「――から、帰るぜ!」
「……えっ? あ、うん。バイバイ」
『帰る』という言葉にハッとして、意識を戻す。しばらく聞き流していたのでどういう道筋でそうなったかは不明だが、帰ってくれるらしい。よかった。「またなー!」公園の入口でブンブン腕を振る少年に小さく手を振り返す。またはない。子どもは苦手だ。
私も家に帰ろうと立ち上がる。先程とはまた違った、思いがけない疲労感のおかげで今ならちゃんと眠ることができそうだった。……ああでも、お腹空いたからなにか買って帰ろうかな。しかし近くのコンビニに寄ろうとして、携帯も財布も持ってきてないことを思い出したので私は大人しく帰宅した。
◆
朝起きて、充電された携帯に浮かんだ画面いっぱいの通知に驚く。どうやら私は一時間ではなく丸一日寝ていたらしい。む、無断欠勤……。社会人としてあかん過ぎる。戦々恐々と出社したが、厳重注意のみでたいしたお咎めはなかった。普段の真面目な勤務態度が幸をなした。
「大丈夫? これ、差し入れ」
心配そうな同僚から、ヴァミマというマークがプリントされたビニール袋を渡される。私の好きなお菓子がいくつか入っていた。
「……ありがとう。これ、好きなんだ」
「知ってるよ、よく食べてるもんね」
同僚は「だから買ってきたんだし」と当然のように言う。そっかと返す声は、自分でも思っていた以上に柔らかいものだった。