仕事帰り、何気なく昨夜の公園に寄ってみた。遊び方のよく分からない球体のジャングルジム、謎の大きな木、ブランコ、砂場。それから――。
「ねえええちゃああああん!」
「うわっ!」
滑り台を高速で転がり滑り、着地するなり弾丸のように飛んできた銀髪の少年に悲鳴をあげて避ける。が、ふしぎなちからによって空中で直角に曲がった彼にあえなく飛びつかれた。ひい。なぜ。どうして。彼の周囲の空間だけ物理法則が乱れてる……いや空間の乱れ云々は私が言えたことじゃないけど。
「おそいぜ!」
「いやなんで?」
「昨日約束したじゃんか!」
「してない」
「で、だからおれ持ってきたぜ!」
「聞く耳〜……」
少年は「ほら!」と、どこからともなくノートを取り出した。『にいちゃんかっこいいノート』と赤文字で、でかでかと書かれている。何の話だとつい目が細くなった。約束なんてした覚えない。ついでにこんなに懐かれる覚えも。
「な、な、ほら! 読んで! 一緒に読も!」
「どっち?」
子どもらしからぬ強さで腕をグイグイ引かれてベンチへと押される。腕外れるかと思っていれば、少年は私の隣にぴったり寄り添って座ってきた。私の膝を台代わりにしてノートを広げる。結局一緒に読むらしい。未就学児……ではなさそうだけど、それでも身内でもないほぼ知らん子とこの距離は全然アウトなのでは。事案という二文字が脳裏を過り、胸がひやりとする。
「あの、離れて――」
「ね、これがにいちゃん!」
「かわいいね」
「ちげーよ、かっこいいんだぜ!」
「すみません」
足の生えた毛玉かと思って濁した感想を伝えたが、お気に召さなかったらしく、少年はぷくぅと頬をぱんぱんに膨らませてしまった。すごい、ほっぺってそんなに膨らむの? 柔らかそう、つつきたい。いやだめだろ。
「にいちゃん、吸血鬼をな、こう、こう……こう! こうやって! 倒しちゃうんだぜ、バーンって!」
「かわいい」
「かっこいーんだってば!」
「ごめん」
大きな身振り手振りをして必死に兄のかっこよさを教えてくれる少年がとてもかわいく見え、つい零れてしまった。おかしいな、子ども苦手だったはずなのに。色んなことがありすぎていつもの感覚が麻痺してるのかもしれない。いやでも、今のは誰が見ても可愛いよね? あれ、これ事案ですか? 密かにそんな混乱に陥っていると、「分かってねえなあ」とぷんぷんしてたはずの少年が無邪気さ全開でにぱーっと笑っていた。
「ね、おれな、ねえちゃんにこれ見せたくて待ってたんだぜ」
「かわいい」
事案です。まずい帰ろう。これ以上自分が自分でなくなる前に唯一無変の我が家に帰って正気に戻らなきゃ。しかしさすがにこんな子ども一人残して帰れないので「きみ、」と隣を見る。
「もう帰っドッッッおいなに脱いでんだ!」
なんか静かだと思ったら! いそいそとズボンを脱ぎ終わった少年は、ズボンを頭に被った。被るな。
「みてこれ、ちんちんセロリなんなかった!」
「よかったね履け」
腰に手を当て得意げにする少年に、被っていたズボンを奪って押し付ける。少年はぺたんと座って素直に履きだした。下半身全裸で地べたに座るなと言いたいところだけど……もうこの際そんなこといいか。小言いって履くのいやがられたら困るし。なんかこの一瞬でドッと疲れた気がするな。そう深い溜息を吐いたところで、少年がモゾモゾと丸まってなにかしていることに気付く。
「なにしてんの?」
「あげる」
「なにッッッァアア?!?!!! ダックッバッ、このッ……オイ!」
めちゃくちゃでかくて脚の多い、やたら光沢のある虫を手の平に乗せられ反射的にぶん投げる。声を荒げた私に、少年はぎゃははと腹を抱えて笑っていた。なに笑ってんだしまいにゃシバくぞガキ。
「もう帰れ!」
「おう! また明日ー!」
大人しく従ってくれたことに安心してまた溜息を吐く。タタッと軽やかに駆けた少年は、昨日と同じように出入口付近から元気満々に手を振った。とりあえず振り返しておく。
「あっそれもあげるからー!」
「え? ああ……」
「まーたーなー!」
にいちゃんかっこいいノートのことらしい。うーん、正直扱いに困る……そしてまたはない。今度こそない。やっぱ子どもは苦手だ。再認識できてよかった、私は正常。
◆
いや、べつに。夜だし。一人で待たせたらまずいし。立ち寄った公園で、目を輝かせた少年と相対しながら、誰ともなくそんな言い訳を頭の中に連ねる。こんなことを始めて、ずるずる早くも二週間が経とうとしていた。もし一人だったら、と変な同情心を働かせてしまってついつい寄ってしまい、もう無限ループだ。帰れと一喝できればいいのだが、この『あそぼあそぼ!』というキラッキラした純粋な目を見たら何も言えなくなってしまう。だってこの顔でしゅんとされるとなんかすごく可哀想になっちゃうんだもの……うう、中身はすぐズボン脱ぐバカガキなのに……。こんな暴言にももはや躊躇がなくなるくらい距離を縮めてしまっている。だめだ。もう本当に今日こそ絶対次がないことをしっかり教え込もうと覚悟を固める。それから、もうこんな時間まで外に遊ばないように、と。
「今日はなにする? ケードロ?」
「二人で? いや、今日は――」
なんとなく妙な胸騒ぎに駆られ、言葉を切って少年の背後をじっと見る。何の変哲もない木々が並ぶだけだ。でもなぜか言い知れぬ不安が神経をじくじくと刺激していた。
「ねえちゃん?」
どうしたの、と不思議そうに呼ばれ、林から視線を外す。目線が合ったことで、少年は嬉しそうに口角を上げた。つられて私の頬も緩む。なぜか過敏になっていた感覚が安堵で少し和らぐ。
「なんでもない」
「変なの。な、それよりこれ――」
生後二週間とはいえ、私はいい大人なので、ある程度この世界にも慣れ、解ることも増えていた。例えばあの偽LINEはリネではなくそのまんまラインと読むということ。スナバのラインナップは基本的に変わらず、抹茶ラテはやっぱり美味しいこと。一昨日でたヴァミマの新作は値段の割に微妙だということ。
そして、この世界には『吸血鬼』という生き物が当然に存在しているということ。
枝葉を大きく揺らし、勢いよく飛び出してきたのは、吸血鬼でかい蚊だ。下等吸血鬼らしいこの生き物は、この二週の間で私も何度か見たことがあった。けれど今目の前で口を開き凶悪な牙を見せつけてくるそれは、見知った吸血鬼とは随分違っている。サイズだって私と同じくらいで、通常のものの倍近い大きさだ。いつかテレビで見たもの並にデカい。節ばった細長い手足や、銛のようなギザギザとした口吻は、普段の吸血鬼が可愛く見えるほどの禍々しさを醸し出していた。大きな蚊は、半透明の羽を高速で動かし、宙に高く浮かび、ブンブンと神経に障る不快な低い音をあたりに轟かせている。無数の目が集まってできた大きな目玉が、目の前のちいさな獲物をぎょろりと見下ろした。
私は咄嗟に立ち竦む少年の腕を掴んで引っ張り、蚊に背を向けて抱え込んだ。うなじ辺りが一瞬熱くなり、すぐに燃えるような激しい痛みが襲ってくる。痛みになんか慣れてないから、堪えきれず呻いた。鋭い牙が皮膚を食い破り、肉を抉る感覚。じゅうじゅうと血を吸う音。漂ってきた生臭い鉄の臭い。痛みや恐怖を煽られて目の前がちかりと白くなる。いたい、いたい。こんなのに喰われて死ぬんだ私。こんな訳の分からない世界で、訳の分からないまま。体温が下がり、力が抜けていくのが分かる。……でも、いっか。そしたら、だってかえれるかもしれないし。
「ね、ねえちゃん……」
悄然とした声に落ちかけていた意識をなんとか持ち上げる。最後の気力を振り絞り、『今のうちに逃げなさい』と伝えるつもりで腕の中で震える子どもを見遣った。涙を滲ませる瞳、青白い顔――皿にした手で蠢く、脚がめっちゃ生えてるでけえ虫。が、顔面に飛ん――。
「アアアアアアア?!?!!!」
痛みも忘れて背中が折れるほど仰け反ってそのまま背後の蚊ごと地面に倒れ込んだ。口器が深く押し込まれて痛かったが、それよりも下敷きにしている化け物も苦しそうな悲鳴をあげたことに意識がいった。ピクピク痙攣する脚が視界の端に映り込む。私は迷わずそれを掴んで思いっ切り背負い投げし、近くの大きな木の幹に叩き付けた。みるからに瀕死状態の蚊を見下ろし、ハアハアと胸を上下させながら両手を天に突き上げる。くっっっそ重かった。腕もげるかと。完全に火事場の馬鹿力だった。
「え、うわ、えっ……ね、ねえちゃんすげー!」
「フ、フハ、ハハハハ! 吸血鬼だろうと所詮は虫よ! 人間様の敵じゃないわ!」
「血が噴水みてぇ!」
「そっちかよ」
キャッキャしてる少年に脱力する。たしかにめちゃくちゃ噴き出てるけど。しかし今はアドレナリンがドバッてるらしく、全然痛くなかった。
「な、な! すげーかっこよかったぜ! ねえちゃんなのに、にいちゃんみてーだった!」
「……あ、そう」
「うん! 助けてくれてありがとう!」
興奮で紅潮した顔でお礼を言われ、息が止まった。爛々と輝く満天の星に射貫かれて硬直していれば、少年は何かに気付いたように公園入口のほうへ顔を向ける。赤い服に銀髪の男性が猛ダッシュで走ってきていた。
「にいちゃん!」
「お前またこんな時間まで……! 今すぐ帰れ! ここらにこの前退治し損ねた『めっちゃデカい蚊』が――って、アレ?」
「ねえちゃんが倒しちゃったんだぜ!」
「ねえちゃん? ねえちゃんって……あっ」
少年に『にいちゃん』と呼ばれた男性は、四肢をピクつかせて目を回すデカい蚊に間の抜けた声をあげる。少年が大人になったらこうなるんだろうなという顔付きの男性は、私に気付いて目を瞬かせた。
「あんたがあの……いつも弟が世話になってるらしいの」
「あっいえ、こちらこそ……お兄さんのお噂はかねがね。ビームだせるんですよね」
「おう、見せてやろうか? 今夜にでもこの俺のスーパービームを」
「うわっ、え? あ、そういう感じなんだ……」
「やめろその反応! 普通に傷付く!」
この二週間軽く洗脳されていたからややショックだ。コンビニでフルーツサンド買ったら具が詰まってるのは切り口だけで、端の方はスカスカだったみたいなガッカリ感。「しかし」肩を落としていたお兄さんだったが、真面目な表情で私を見た。見れば見るほど少年とそっくりだ。
「なにからなにまで本当にすまんな。弟を守ってくれたこと、心より感謝する。お詫びとお礼がてら、真面目に今度飯でも奢らせてくれんか?」
「や、それよりこの子のズボン脱ぎ癖なんとかしてください」
「やれたらやっとるわ大変ご迷惑おかけしてますゥ!」
はいほんとに。でもお兄さんも苦労してるんだなっていうのがよく伝わってくる直角謝罪に免じてこれ以上チクチクするのはやめてあげよう。
「しっかし、『めっちゃデカい蚊』を素手で倒すとは……お前さん、退治人に向いとるんじゃないか?」
「はは、ご冗談を。見てくださいこの血飛沫を」
「ウオーッ?! 背中からマーライオン!」
「マー、なに? あ、なんかクラクラしてきた、背中痛い、死ぬ」
「救急車ァ!」
お兄さんが呼んでくれた救急車はすぐにやってきた。担架に寝かされながら、退治人なんて冗談じゃないと考える。こんなの命がいくらあっても足りない。
「ねえちゃん!」
救急車の扉が閉まるギリギリで、いつものように溌剌と弾んだ声が響く。この呼び名で反応するのも、もう当然になってしまった。そんな自分に内心で苦笑しつつ目線を少年へと向ける。
「なに?」
「またな!」
「……うん、またね」
寒い車内でピッピッという規則的な機械音や薬の匂いに包まれる中、静かに瞼を下ろす。
――『ありがとう!』
浮かんでくるのは、そう笑った少年の表情と声だ。少年にとっても、そして私にとっても取るに足らないただの会話の延長戦のはずなのに、鮮明に焼き付いて離れない。心臓が、そして目の奥が徐に、少しだけ熱くなってくる。今更泣きそうなのはアドレナリンが切れて痛みがぶり返したからだろうか。でもなんとなく、そうではない気がした。
ああ、私、この世界で案外うまくやれてしまうのかも。
なんの確信もなかったけれど、不思議と胸にはそんな自信と勇気が満ちていて。漠然と安心しながら、私は忍び寄ってきた微睡みに意識を委ねた。