しんしんと雪が降る中をただ歩く。突き刺すような冷気に触れられた先から感覚が痺れていき、温度も感情も、ごっそりと抜き取られていくような気がした。無駄に絢爛豪華な店先の『新春』の文字の前を無感動に通り過ぎる。新春。新春だって。さっきまで十二月に入ったばかりだったのにな。こんなこと気にしたって、もうしょうがない。もう時間を確かめる気も起きなかった。
「おい!」
どうしようかな、これから。富士かなぁ、やっぱり。名所というし。でも本音を言うなら森より海がいい。青い海。朝焼けを見てからがいいな。よし、海にしよう。このくらいのワガママいったってもういいでしょ。バチなんてすでに一生分食らったような身だ。交通カードはまだ使えるだろうか。使えなくても、まあ、現金あるからいいか。
「おいってば!」
腕を引かれて体の向きを変えさせられて、ああ、こんなこと前にもあったなあ、なんて。もはや私だけの思い出だけど。
「あんた、大丈夫かよ」
慎ましくひっそりと彼は言葉を押し出した。桜みたいに散っていく雪が、鼻頭を赤くした彼をちらちらと暈していく。傘、今回は持ってないんだ。雨じゃなくて雪だからかな。でもまた息が荒い。見知らぬ女を追い掛けてくるなんて、ほんとうに慈愛溢れるやさしい人だ。
「なあ、なにか依頼があったんじゃ――」
「間違えただけです」
そんなやさしい人にさえ、私は見放されたんだ。
慮る声を、明らかに他人へと向けられた声を聞きたくなくて、無愛想に言葉を被せる。そうだ、間違えた。ずっと間違っていたんだ、私は。
「あそこは私の帰る場所じゃなかった。ご面倒をおかけしてすみません」
疲れてたのかなと口角を吊り上げて笑顔を貼り付ける。頼むから、もう踏み込んで来るな。私にかかわろうとしないで。どうせ忘れるんだから。
「もう二度とこんなバカな勘違いはしないので」
やっぱり一年前のあの日に私は終わるべきだった。目先の欲に囚われた結果がこれだ。なんて愚かなことだろう。受け入れてもらえるなんて、少しでも期待してはいけなかった。
「あんた――」
「もう迷惑かけません――大丈夫ですから、ほんとに。わざわざごめんなさい」
彼と顔を突き合わせていたくなかった。時間はどうして未来にしか飛んでくれないのか。一年前に戻ってくれないかな。もし戻れたら、私はあのぬくもりを受け入れたりしない。呼ばれない名前や、『あんた』という呼称に傷付く未来なんて、絶対に選ばない。
振りほどこうと腕を捻る。それでも外れない手に、ぴくりと目元が痙攣した。
「放してくれません?」
「……い、いやだ」
苛立ちのまま睨むと、彼は怖気付いた様子を見せる。しかしそのくせ、私の要求はしっかりと拒否した。「だって」腕が握り直される。僅かに開いた口から、白い煙が漏れていった。
「だって、なんか、だめなきがするんだ」
「はあ? 意味が――」
「ここで離したら、行かせたら――あんたはまたひとりで泣くんだろう」
なに、言ってるんだ、彼は。この人の前で泣いたことなんてないのに――いや、一度だけ、あるけれど。でも、寝ていたじゃないか。ちがう、そうでは、だってきみ、忘れたんじゃ。
「俺は多分、それがいやなんだ。いやだったから、せめて隣にいたかった、悲しませたくなかった」
籍を切ったように、信じられない言葉がとめどなく溢れていく。忙しなく動く口を自分でも止められないのか、彼は私以上に困惑しているようだった。
「さみしいなんて、二度と言わせたくなかった。いつかの別れを事ある毎に持ち出してくる癖、なんとかしてやりたかった」
言葉を重ねる代償みたいに顔色がどんどん白くなっていく。掴まれた腕から震えが伝わってきた。
「安心してほしかったんだ。俺の隣なら大丈夫だって、ずっと、そう思ってほしかった――そうだよ、俺、そう思ってたんだ。なのになんで――なんでこんな、朧げなんだ?」
絶対、そう、思ってたのに。
恐怖でいっぱいの表情を浮かべ、彼は絶句した。ぎょろりと見開かれた瞳は焦点が定まっていない。紫色になった唇が戦慄く。片手が性急にこめかみへと動き、ぐしゃりと頭皮を掻き毟るように爪をたてた。
「な、なんで、ちがう、忘れてない、ちがう、ちがうから! すぐ、いや、おぼえてる、ちゃんとおれ、おぼえてるから――っ、う、あ、くそ――なんで!」
「ロナルド君!」
支離滅裂な台詞と過呼吸を起こしそうなほどの取り乱し様に、咄嗟に名前を叫ぶ。ぴたりと声を止ませた彼は、虚ろに私を凝視しながら、ゆっくりとした瞬きを数度する。青い目の奥からじんわり光が滲み、きらきらゆらりと波が充ちた。
「いかないで」
苦しそうな吐息の隙間から、子どもみたいなたどたどしい掠れ声が紡がれた。手首を掴んでいた手が、するりと伝い降り、指が絡まる。
「揃いのマグも、メモも、並んでたシャンプーも、ドライヤーも、かわいい服も、いいにおいの化粧水も、花柄の折り畳み傘も――全部、あんたのなんだろ」
雑貨屋で買った青と白のマグカップ。仕事の都合で会えなかった時に送り合った他愛ないメモ。お気に入りのシャンプー。ある日いきなり買ってきてくれたお高いドライヤー。選んでもらった服。たまに彼の顔に塗っては遊んでた化粧水。いつかの梅雨に貸した、折り畳み傘。
「なんでか分からないけど、全部、捨てられなかった。捨てたくなかった」
苦しげな声がじわりと胸の奥へと染み込んでいく。勝手に顎が震えだしたので、慌てて唇を噛み締める。今にも嗚咽が溢れてしまいそうだった。
何年経ったかは分からない。でも使う人がいないそれらは、きっとさぞ邪魔だっただろう。無意味で無駄な、そんな、世界にとってはガラクタ同然な、私の幸せで大切な思い出たちは。
「『おかえり』って微笑んでたのも、俺の名前を呼ぶ声も、きっと全部あんたなんだ」
忘れてしまったことには、違いないんだ。でも、完全になくなったわけじゃなかった。たとえ無意識だとしても、私はちゃんと彼の中に残っていた。その事実に、冷え切った指先に熱が灯り、ロナルド君の指の間でぴくりと動いた。
「頼むよ、なあ――おれ、まだ、伝えられてないんだ」
荒い息の合間を縫い、必死になって吐き出される言葉は、まるで自分自身へ懇願しているみたいな響きを含んでいた。掴めぬ記憶に縋り付こうとするその姿が痛ましくて、私はもういいと呟く。もういい、もう充分だ。やけくそではなく、心からそう思っていた。
「もういいよ」
「よくねえよ」
上擦った声で繰り返したが、すぐさま切り捨てられる。その事実にまた喉が苦しくなったけれど、ぐっと感情を呑み下す。
「いいんだって」
「いいわけねえだろ! だって俺は、まだ……っ!」
握られた手がますますくっつき、少しの隙間もなくなる。苦痛に耐えるような表情で、ロナルド君は無理やり声を絞りだした。
「言って、ない――あんたが、あんたのことが、ずっと――ずっと前から、好きだったって、好きなんだって――言えてないんだよ!」
人目を憚らずそう叫んだ彼の目尻から、色のない血が溢れ出た。名前も思い出せない誰かを思って流されたそれは、緩やかに頬を滑っていく。
握られていないほうの手を、二度と開かないようにする心算で硬く握り締める。どこかに力を入れていなければ、立っているのもやっとだった。本当はこのまま倒れて、一生目覚めたくない気持ちだけれど。だって今が、きっと一番だろうから。
「おーい!」
ロナルド君の背後から、さっきの吸血鬼が駆けてきている。知り合いだろうに、ロナルド君は私を見つめたまま、ぴくりとも反応しなかった。
「突然飛び出してなんだ五歳児雪に大興奮かこの猿ってッドワー?! ま、まえ、ロナルド君まえ! 前見ろ前ェ!」
「っ、くそ、うるっせぇなクソ砂! 前がなんだって――」
大きなベールを掛けられたように、視界が暗くなる。目の前のロナルド君を、そして立ち尽くす私を、背後から伸びた揺らめく影が飲み込んでいた。
「ハロー」
落ち着き払った低い声が降ってくる。声に誘われて、首が自然と回っていた。昇っていたのは、まあるい紅。
「うお、ドラルクの……!」
「こんばんは、次元の歪みより出でし子よ」
「御祖父様、なぜここに?」
「さみしそうな子の気配がしたから」
追いついてきた丸い生き物を抱えた吸血鬼に『おじいさま』と呼ばれた、熊のように大きな吸血鬼は、じいっと私を見下ろす。しばらくそうして、やがて、彼はその目にほんの少しだけ哀れみをのせた。
「いじめられたんだね」
淡々と「可哀想に」と続けられる。単調な声音に、堅くなっていた心がなぜかするりと解けた。涙腺が決壊し、ぼたぼたと涙が零れていく。ロナルド君がぎょっとしたのが、繋いだままの手から分かった。
「え? きみなんかしたの? うわサイテー」
「ちげ、いや、ぐ……ちが……」
「否定しきれてないじゃん。とりあえず手離せば? 汗だくなのが不快なんじゃない?」
「うるっせーよ黙れ死ね殺すからな後で」
言い争う二人を他所に、おじいさんはうーんと立派にたくわえた髭をもしゃっと動かし、こてんと小首を傾げた。
「一緒に来る?」
「は?! だ、だめだ! だめに決まってんだろふざけろジジイ!」
ロナルド君は、おじいさんから隠すように私を抱き寄せた。なつかしい、あったかい、心臓の音。また涙の勢いが増す。あまりの量に、身体中の水分が全部涙に変換されてる気がした。ぎこちなく頭を撫でられる。
「お気に入り?」
「……大事な人なんだよ」
思い出したばかり、いや、まだ思い出しきってはいないはずなのにそうはっきり言い切って、彼はぎろりとおじいさんを睨み上げる。その剣呑な眼差しを華麗に受け流したおじいさんは、「人?」と不思議がった。
「その子、人間じゃないよ」
邪気なく落とされた言葉に呼吸が止まる。私はそんな、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けていのに、ロナルド君は少し眉をひそめただけで大して驚いていなかった。
「……異世界人だからか」
「そう」
……そっか、私、人間じゃなかったんだ。衝撃的ではあったけれど、しかしその事実は、一度繰り返しただけで、殊の他すとんと胸に落ちてきた。人間じゃないなら、時間が飛ぶのも仕方ない気がする。……でも。
「だとしても、俺は――」
「どうしたら人間になれますか」
ロナルド君から胸から離れ、涙でグズグズの顔も厭わずおじいさんに話しかける。その場にいる全員の視線が突き刺さるのを感じた。赤い目でつぶさに見下ろしてくるおじいさんは、相変わらず感情の読めない顔をしていた。
「人間になりたいの?」
平坦に聞かれて頷く。人間じゃないから、私はこんな目に合ってるんだろう。なれるならばなりたい。
「人間になったら、普通に生きれるんでしょう?」
ちょっと考えた後、首が縦に振られる。それなら、と、頼みこむために息を吸った。
「置いてかれるの、さみしいよね」
「……、……はい」
思いがけない切り込みに、うっかり素直に答えてしまう。すんなり認めてしまったことによって、また涙腺をなぞられた。
「ロナルド君の傍で生きたいんです」
あんなに色々必死に堪えていたはずなのに、どうしてかこの吸血鬼を前にしたら、なにも我慢しなくてもいいような――もしくはなにかを許されたような、そんな気持ちになっていた。
繋がる手に力が込められる。そのあたたかさに、ずっと押し殺していた想いが押し寄せてきた。
「もう離れたくない、いやなんです。春も夏も秋も冬も、雨も雪も、月夜も朝陽も、夕空だって、この世の全部を彼と一緒に見届けたい」
ギシッと手がまた強く握られ、痛みに今頃気付く。けれど、今はそんな痛みでさえも心地いい。「そっか」軽く肯定するおじいさんは、先程と相も変わらぬ凪いだ表情だ。というのに、どうしてかどこか満足そうに見えた。
「それなら、大丈夫。それが言えたなら、もう誰もきみを連れて行けないから」
「……ほんとう?」
「ホント」
この吸血鬼に言われると、なんでこうも簡単に信じてしまえるんだろう。安心して息を吐くと、涙の余韻で喉が引き攣った。
「……俺、この人の記憶が曖昧なんだけど、それも治るのか?」
「治んないけど、治してあげようか」
「えっ」
なんて事も無げに言ってのけるおじいさんに、ロナルド君が瞠目する。私はというと、泣き疲れたせいかやっと冷静さが戻ってきていた。再びロナルド君の胸に頭を預け直す。さっきからこの吸血鬼たち、何者なんだろう。ていうかロナルド君は吸血鬼と友達なんだ。吸血鬼退治人なのに……。
「でも多分、すっごい痛くて辛い。前やってあげた子がそう言ってた」
「は、上等だよ」
「膝笑ってルド君」
「ううううるせー!」
「……痛くて辛いなら、別にやらなくていいよ」
時間はもう飛ばないというなら、私はそれだけで満足だ。これからも一緒にいれるなら、忘られたままでもそんなに悲しくない。これからがあるんだもの。しかしロナルド君はムッと口を曲げた。
「それだとあんたがずっと痛くて辛いだろうが」
「私?」
どうして私の話になったんだろう。おじいさんと、ついでにドラルクさん? を見れば、うんうんと生暖かい眼差しを向けられた。この二人、あんまり似てない。似てないのに確かな血の繋がりを感じる。とにかく、分かっていないのは私だけらしい。戸惑っていれば、深い溜息を吐いた彼に、「俺が思い出したいんだよ」とおでこを弾かれた。
◆
重たい扉が厳かに開く。カーテンを閉め切った暗い部屋の奥から、数日ぶりにふらふらと姿を現したロナルド君はげっそりと窶れていた。大丈夫、と駆け寄ろうとして足を前に出す。
「鳥」
たった一言で、床に影を縫いつけられてしまった。動けなくなった私の代わりに、ロナルド君が一歩二歩と、近付いてくる。ちょうど陽光の射し込む位置で立ち止まると、開けっ放しにしていた窓から、冬日和の世界を廻った空風が吹き抜けていった。草木の香りを含んだ風が銀のクセ毛を楽しげに擽る。昼間のやわらかい陽が、青く澄んだ瞳の中に宿って煌めいていた。ゆるい弧を描いていたロナルド君の口が、再び開くのが、スローに見える。
「好きだ」
今度こそ地面を蹴って、光の中へ躍り出る。泣きじゃくって飛びついた私を、ロナルド君はふわりと受け止めた。
(完)