「ご馳走様でした。美味かった」
「いえ……お粗末さまでした」
テーブルにコンビニ飯と、冷蔵庫の奥で萎びかけていた野菜たちをぶち込んだだけの超絶簡単味噌汁が並ぶ。コンビニご飯のほうは、夜の内――私が意識を落としたあとに彼が買ってきたものだ。味噌汁はロナルド君の要望で私が作った。メンヘラの相手をさせた上に洗濯もさせ、さらには寝床まで奪ってしまった。そんな迷惑やば女の汚名を少しでも返上したくて、なにかやることはないかと起きた彼に尋ねたら、「……じゃあ、味噌汁つくって」とそわそわした様子で頼まれたからだ。
ロナルド君は、急拵えの味噌汁を何度も「うまい」と連呼して、大事にそうに、そしてゆっくり食べ切った。ダシも台所にあった普通のパックだし、まじでそんな大した物じゃないのに。大袈裟な反応に気恥しさを覚える。いや本当にお粗末さまでした……。
「……あのさ、俺、考えたんだけど」
コンビニ弁当も綺麗に完食したロナルド君は、食器を端に寄せ、真剣な顔をこちらへ向けた。
「一緒に住まないか、ここで」
やや早口で紡がれたのは、弱り切った今の私にはこれ以上ないくらいの甘言だった。緊張が湛えられた双眸に、少しだけ目を伏せる。
ロナルド君。幼い頃から知っている彼。このめちゃくちゃな世界の中で私を忘れない、唯一の人。
やめろと脳が警鐘を鳴らす。断らなきゃいけない。これ以上はきっとだめだ――依存してしまう。
「……うん。……よろしく、おねがいします」
分かっていたのに、弱い私は断ることができなかった。情けない声とともに少し頭を下げる。けれどそれ以降、時間が止まったかのような静寂に包まれた。あんまり反応がないので、痺れを切らして目だけで前を窺うと、驚いたように目を見開いくロナルド君と視線がかち合う。
「ロナルド君?」
「ッ、あっ、えと、あ、あの……」
恐る恐る呼びかけると、彼はビクッと震え、意味を成さない言葉を零す。その口は、笑うのを我慢しているみたいにぴくぴくと動いていた。え、どういう反応なんだろう、これ……。困惑してじっと見ていれば、ロナルド君の顔が、じわじわと下から赤く染まっていく。とうとうおでこまで茹で上がらせた彼は、きゅうっと目を細めた。ロナルド君の頭が、ゆらりと後ろへ微かに倒れる。
「っ、だぁー!」
次の瞬間、彼は大きな声と一緒にがくっと頭を落とした。額をテーブルに叩き付けたその振動で、まだ片付けていない食器がカチャカチャ音を立てる。声量と奇行に驚いて、私はちょっと身を竦めた。
「あー……よか、……」
「あの、ロナルド君……?」
彼は緩慢に腕を机に乗せて肘をつき、少しだけ頭をあげて私を覗き込んだ。乱れた前髪の間から見える額は、打ち付けたせいでほんのり赤くなっていた。しかしそれ以上に顔全体がふくふくと上気している。ロナルド君の顔は、さっきまであんな真剣な顔をしていた人とは思えないほどゆるゆるに溶けていた。
「よかった」
「えっ」
「断られたら、どうしようって」
眦を蕩かして、彼はもう一度噛み締めるように「よかった」と繰り返す。幸せでしょうがないというキラキラした瞳が、私を捉えた。
「うれしい」
その笑顔を見た途端、凄まじい速さで煮え滾る熱が全身を駆け巡る感覚に襲われた。喉が詰まる、うまく返事が、息ができない。でもずっと黙ってたら変に思われるし。
「う、ん、これからよろしくね」
なんとか口角を上げて声を絞り出す。っしゃオラ舐めんなその場の調子に合わせるのには慣れてんだ。いつも通りの対応ができたことに勝ったような気持ちになる。ここで負ける訳にはいかない。なにと戦ってるんだかって感じだけど。
「ん、へへ、これから。うん、よろしく」
が、そんな決意もゆるゆる笑顔を直視し虚しく砕け散った。反射的に引き攣った喉奥に敗北を理解らせられ、不必要に細かく瞬きをしてしまう。いや、ちがうよ、この笑顔が嫌いなわけではない、いやじゃないよ。でも、けど、なんかだめなんだ。自分の調子が保てなくなる。
その理由を深く考えてはいけないと、無意味に首裏を触りながら俯いて無理矢理視線を外す。流れた髪で顔を隠した。触れた箇所が熱い気がするのは、きっと思い違いのはずだ。
◆
一緒に暮らすとなれば、色々としなくてはならないことがある。生活必需品の準備だったり、家事分担、好き嫌いにアレルギー、家賃や、その他諸々の取り決め。まだ試していないが、銀行の口座も恐らく使えないので今の私は無一文だ。質に入れれるような物も携帯くらいしかない。もちろんアルバイトを探すつもりではあるが、しばらくは無収入になる。それを伝えれば、彼は微妙な顔をした。
「金とか別に要らないんだけど……これでもちゃんと貯金してるんだぜ。結構あるし」
「いやいや何言ってんの。その貯金は将来のためにとっておかなきゃ」
「将来?」
「そう。生きてればなにがあるか分からないし。怪我したときとか、老後とか……あとは結婚するときとか」
「ケッコン?!」
ロナルド君が裏返った声をあげたので、あえて白けた目で見遣る。「そうだよ」と詰め寄れば、彼は赤い顔で瞳を潤ませて、乙女のように胸元で両手を握り締めた。
「けこ、ケッ……え、ア、す、する……? や、おれは全然めちゃくちゃもうすごい、あの、うれしいです、けど」
「は? 知らないよ、私は」
「えっ」
「とにかくそういうのは将来の恋人と決めなよって話。いつか好きな人ができたら、そういう資金が必要になるかもしれないでしょ」
「……へ……将来のって、好きな人って……」
「……あれ、もしかして恋人もういる? 居候を許してくれるくらいだからいないのかと思っちゃったんだけど……」
わざとらしく眉を下げて首を傾げる。ロナルド君は愕然と私を見下ろし、なにか言いたげに口をぱくぱくと動かした。
「……いるかよ、恋人なんて」
「あ、よかった! もしいたらさすがに申し訳が立たないもの」
地を這う低い声の不機嫌さに気付かないふりをして、先に確認しとくべきだったねと明るく言い放つ。ロナルド君の顔がまた一段と険しく顰められた。
「っ、……お、おれは――!」
「それと私の名前なんだけどね」
「えっ名前?!」
一瞬にして無邪気な子どもみたいに期待で輝く。食い付きの良さにちょっと素で笑いそうになってしまった。「そう、名前」また機嫌を損ねないように急いで口を回す。
「共同生活するなら知らないと不便だろうし、知っててほしいなって」
「不便って……いや、それはそうだろうけどさ……。……なんか、さっきから……」
違和感を言葉にできないのか、それともしたくないのか。言葉をまごつかせる彼はどこか寂しそうだった。
ただでさえ依存してしまうのだから、私は一緒に暮らすにあたり、せめて出来うる限り彼と距離を作って接さなければならない。いつか彼に恋人が――“本当に好きな人"ができたときに、何事もなくさっぱり出て行けるように。もはやこの世界でただ一人の私を決して忘れない相手を特別に思ってしまうのは、もう仕方ないことだ。そこは割り切ろう。しかしせめて、友人でいなくては。友人という立ち位置なら、きっとまだ依存も緩和できるし、彼が見知らぬ誰かと家庭を築いたあとも、交流が許されるだろう。……と、思いたい。
妙齢の男女が二人、共同生活。絶対おかしな空気にはさせない。するもんか。唸れ、私の倫理観! たとえ今はもう同い年くらいだとしても、幼少期から知ってる子と間違いなんて死んでもおかしたくなかった。
「……名前、知りたくない」
「えっ」
「そんな……必要に迫られたからしょうがなく、みたいなの。やだ」
「やだって……」
私の扱いは、今後提出される書類上だと、ひとまず彼の事務所の従業員ということで処理されるはずだ。唐突な上司の駄々に眉根を寄せる。
「前私が教えたいって思ったときに聞いてくれるって言ったじゃん」
「言ったけど、でもこれは違うだろ、なんか。……うん。だから公的書類の名前欄は全部自分で書いてくれ。郵便物も、俺は基本受け取らないようにするから」
「え、ええ……? なに、そんな……無駄に徹底するじゃん……」
「無駄じゃねえよ」
むすっとした態度の彼に、いや無駄だよ、と言い返したくなる。けれど折れてくれる気配はなさそうだし、余計頑なにしてしまいそうだから飲み込んだ。困り果てた気持ちで口を曲げる彼を見上げる。いや、たしかにしち面倒にはなるが、彼が提示した通りにやれないこともない。だから困る理由なんてない――一つを除いては。
「な、名前で……」
こんなこと絶対に言わないほうがいいと分かっていた。なのに勝手に零れた声に自分でも驚く。慌てて止めたけれど、私の声は当然目の前の彼の耳にも届いていて、ロナルド君は眉をぴくりと動かした。
「なんだよ」
「いや……」
「……なに?」
言い淀んでいると、一変して柔らかく聞き返された。変わった声の調子に、また落ち着かない心地に苛まれる。だめだと分かっているのに、意思に反して口が開いていった。
「だから……名前……」
「うん」
「……なまえ、呼んで」
聴こえるはずないのに、彼がぱちりと瞬きした音が聴こえた気がした。なに言ってるんだ、私は。内容もさることながら、なんだこの甘えた声は。でも今ならまだ誤魔化せる。弁解しなきゃと、痛いほど噛み締めた唇を開く。
「名前で呼ばれたい……呼んでほしい」
今のは違うと。名前を知らなきゃ面倒でしょと。言い含むつもりで、そのために、息を吸ったはずだった。それが、なに? このザマ。そんなこと思ってな……い、とは言えないけど。でも音にするつもりなんて本当になかった。
「ほんとうに?」
「ほんと、ロナルド君、ロナルド君に呼んでほしい」
なかったのに、ロナルド君の声が、目が、顔が、もう全部がやさしいから。やさしいせいで。どんどん口が溶けていく。恥ずかしさに耐えきれずかたく目を瞑ると、頭上から鶏を締めたような呻き声が聞こえた。
「……そ、それなら? まあ? そんなに言うなら? しょうがねえよな」
朱の滲んだ顔で、しかし照れ以上に満足そうな笑顔。それを見てまた走りだした心拍に、今後に対する危機感をひしひしと感じる。倫理ちゃん、頼むからもっと激しく唸って。それこそ心音に負けないくらいの爆音で。
「じゃあ、さ、教えてくれよ」
「……鳥」
「鳥、サン?」
「要らないよ、どうせもう歳変わらないし」
それもそっかと零し、彼はまた私の名前を小声で繰り返して、へらりと笑う。完全に見られていないと思っているその様子に、一人の時にやってくれと顔を顰めた。そんな顔みせられても困る。
◆
「あ、雪」
単発バイトの帰り、白い息を吐きながら、ちらつく雪に手を伸ばす。今日は鍋にしようなぁ。辛いやつ。〆にチーズ入れた雑炊作ったら喜ぶだろうな、ロナルド君。
ロナルド君と同居を始めて、約一年が過ぎようとしていた。倫理観のバグは時々生じたけれど、まだギリギリなんとかなっている、と思う。多分。
この一年、時間は一度も飛んでいない。私も彼もいつ飛ぶかと身構えていたのに、拍子抜けだ。飛びたいわけじゃないから嬉しいが。こういうSFじみた事象に理屈を求めるのは無駄なんだろうなと割り切ることにした。切り替えの早さだけが私の取り柄なので。
「すげー! 新ちゃん、雪降ってきた!」
「へへ、見てろ、おれ、口でキャッチしてやっから!」
膨らんだエコバッグを片手にスーパーを出て、入口付近でたむろしていた小学生たちをちらりと見る。三人組の男の子たちが揃って空を見上げていてちょっと面白かった。そんな自分に、子どもに対する苦手意識も薄れたものだなと我ながら感慨深くなる。
「さみー!」
「ドラルク、寒すぎて死んでんじゃねー?」
はしゃぐ子どもたちの声を背に、帰路を進む。カンカンと事務所の階段を登りながら、ロナルド君はまだ帰ってないだろうなと、鞄から鍵を取り出す。
出版社の人と一日打ち合わせがあるとかで、今日は事務所はお休みだった。もうすぐ彼の自伝小説が発刊されるので、最近はなにかと慌ただしい。ブログが評価されたと聞いた時は本当に驚いたよね。だって彼が自身のブログにて『異世界転生したお姉さんとのイチャラブ同棲日記』というタイトルの……なんか……明らかに特定の誰かさん達をモデルにしたラノベを綴っていることを知っていたから。いや、ロナルド君についてググッたら普通に出てきちゃったからさ……読んでしまったこと、うっかり零さなくてよかった。めちゃくちゃ気まずくなるとこだった。彼視点のエピソードは、新鮮で面白かったけど。でも読んでてすごい恥ずかしかったな、あれ……色々と明け透けで……。思い出してまた気まずくなりながら、使い慣れた私専用の鍵を事務所の鍵穴に挿し込む。
「……え?」
入らなかった。突き刺した状態から、一ミリも動かない。裏表を確認して、裏、表、とそれぞれ挿し直して、それでもやっぱりだめで。いよいよ床に膝をつく。勢いよくしゃがみすぎて、膝の皿がじんわり痛かった。しかし気にせず震える手で鍵を握りしめる――入らない。無理矢理ねじ込もうと押せば、扉がパッといきなり開き、支えがなくなった反動で地面に手をつく。ついた先は、見慣れた事務所の床だ。
「なんだね、さっきからガンガンガンガン――ってウワッ?!」
憮然として蹲る私に影を落としたのは、異様に血色の悪い見知らぬ男性だった。男性――その吸血鬼は、一瞬怯えたような声をあげたが、すぐに咳払いをして「どうしたのです、お嬢さん」と気障ったらしい作り声で語りかけてくる。
「そんなところに座り込むなんて。汚れてしまいますよ。それにお寒いでしょう。さ、よければお手を――」
「おいドラ公、なにしてんだよ!」
この一年ずっと聞いてきた声がやっと鼓膜を揺らす。その安心感に大声で泣きだしそうになった。もう帰ってたの、かぎがこわれた、このひとだれ――いやそれより、いつもみたいに『鳥』と呼んでほしい。
一刻も早く、ここは――彼はなんともないのだと、確信したかった。
吸血鬼の背後からひょいと顔を見せた私服姿のロナルド君は、へたり込んだままの私を見留めて、顰めていた眉を高く上げる。
「もしかしてご依頼の方ですか?」
すみません、こんな格好で。
ロナルド君は申し訳なさげにそう言って、分かりやすい愛想笑いを私に向けた。
それは、会ってから一度として見たことのない、『赤の他人』への顔だった。