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会社を出て一歩で足を止める。黒の外套に映える艶やかな赤。ああ、またいる。忘れ物をしたわけでもないのに、今すぐUターンしたい気持ちになった。ただでさえ今日は残業して疲れているのに。会いたくなかった。いっそこのまま会社に泊まっちゃおうかな。……そんなことしたって、多分彼はずっといるんだろうけれど。それを予想できてしまう自分もまた嫌で、一人がっくりと肩を落とす。いつまでもここに立ち尽くして自動ドアを無限反応させるわけにもいかない。私は仕方なく、ガードレールに寄りかかり、私を待っているであろうその吸血鬼に歩み寄った。
「ドラルクさん」
口角を穏やかに持ち上げ、ご機嫌に花を愛でていた彼の名を呼ぶ。すぐに上がったその瞳はきらりと躍っていて、一瞬にして彼の周辺だけパッと華やいだ。その嬉しくて堪らないといった顔は、例えるなら『長らく会っていなかった恋人と再会した』というようなもので。秘かに口内を噛んで平静を装う。彼がどんな顔をしようが、なにを思おうが、私は別に何も気にしない。気にしてなんかない。
咳払いをしてわかりやすい歓喜をしまい込んだドラルクさんは、今度はその顔に、ハードボイルドでニヒルな――と自分では思っていそうだが実際は偏屈な印象を受けるような――仮面を貼り付けた。「やあ」気障ったらしい声に、また始まったよと目を眇める。どうせ、また。
「今晩は、愛しい人。今宵こうして邂逅に叶ったことは何にも勝る望外の喜びだ。その美しいかんばせに月さえも恥じて隠れてしまったが――しかしどうだね、この静謐さ……まるで世界に私ときみだけのようじゃないか? ああ、蜜月を過ごすになんと相応しいのだろう! 絶好の吸血鬼日和だと思わないかね?」
「思いません。お帰りください」
「グゲェにべもない!」
いつも通りお断りすると、砂山にでかい花束がサクッと刺さった。最後まで聞いてあげただけ有難く思ってほしい。ていうか吸血鬼日和ってなに。
溜息を吐きつつ、ひんひん泣き震える砂の中から赤いブーゲンビリアを拾い上げる。目が眩むような鮮烈とした赤い花弁と、漂ってきた濃い香りに少し眉をひそめた。
「……おや、ブーゲンビリアは嫌いだったかね」
「いえ、そうではないですけど」
花は嫌いじゃない。特にこの花は昔から好きだ。しかしもう少しペースを考えてほしい。三日前に渡されたスノウドロップも、一週間前のガーベラもまだまだ元気なのに。ドラルクさんと出逢ってから数ヶ月。会う度に吸血鬼化へのお誘いとともに大きな花束を渡してくるので、私は些か困っていた。いや、誘いは普通に断ればいいからいいんだけど。でも花は捨てるに捨てられない。ゴミ箱に突っ込まれる生花ってなんか悲しい。
「私を花屋にするつもりですか」
「お、いいじゃん開けば? 手伝うよ私。仲睦まじい吸血鬼夫婦の営む小さな花屋……うん、いいじゃないか」
「は?」
「ガチトーンやめてすみませんでした」
調子に乗りましたと書かれた小さな白旗が、再び出来上がった砂山のてっぺんで揺れる。それから瞬く間に人型に戻った彼は、外套の襟元を軽く正した。
「ま、その花が好きなのは知ってたさ。なんたって――“前のきみ”も好きだったからね!」
「……そうですか。じゃ、さようなら」
意図して表情を無にし、得意げな彼にくるりと背を向けて大股で歩き出す。「待て待て待て!」と慌てたような声が追い掛けてきた。慌ただしい靴音から逃げるように、花束を抱える腕に力を入れ、動かす足の速度を早める。
「どうしたのよそんな急に競歩して! ちょっ待てよいやお待ちなさいってば――アッうそやだ足速ァ――送る、送るから!」
息を切らした切実そうな声に、少しだけ歩幅を狭めた。しょうがないので。いやほら、周りから私が意地悪してるみたいに映ったらやだし。
“前のきみ”――つまり、前世の私。ドラルクさんは、私の前世と知り合いだったらしい。街中でいきなり腕を掴まれ、咄嗟に振り解こうと抵抗したら腕を掴む手以外が砂になったときも驚いたけれど、その話を聞いたときも同じくらい驚いた。
彼曰く、事の起こりは今から二百年程前。私たちは種族は違えど幼い頃から友として仲が良く、周囲の大人に隠れてこっそり会っていたのだとか。そして病気がちだった私が、若くして息を引き取る間際、愛を誓いあった、と……。
「以降、私はきみ以外の女性に愛情を向けたことはない」
連れ込まれたファミリーレストランで小一時間ほどそんな話をつらつら語った彼は、「だから」と固い意思を宿した眼差しを私に向けた。
「きみを同族にしたい。……今度こそ、私とともに生きてほしい」
「宗教勧誘ですか?」
いつ言おうかと構えていた言葉は、間髪入れずに伝えすぎて食い気味になる。こんなテンプレみたいな怪しい状況って実在するんだと、私はちょっとテンションが上がっていたのだ。ドラルクさんは塵になった。
これがドラルクさんと私の最初の思い出になる。要するに、私は前世の記憶なんてこれっぽっちも覚えていなかった。なので「同族にする」とか息巻かれても困るのだ。記憶のない私には、もはや何一つ関係のないことなんだから。いきなり人間をやめろと言われましても。あんまり執拗いから前世云々のことは一応信じることにしたけど。自称高等吸血鬼の彼が、私のようななんの面白みもない人間を騙すメリットもないだろう。それに彼がそんな吸血鬼ではないということは、少し関わればすぐに分かった。
「全く……きみは相変わらずお転婆だな!」
コツコツと靴音が鳴り、やがてドラルクさんが隣に並ぶ。憤っているような呟きだけど、声は隠しきれない喜びで明るく弾んでいた。横目で彼をこっそり見遣る。「うん」私の視線に気付かず、ドラルクさんはひっそりと郷愁湛える笑みを深めた。
「“前”と変わらずだ」
噛み締めるようなしみじみした声に、自分の胸がすっと冷えていくのを感じた。
――前世では、前は、前のきみは。
事ある毎に持ち出されるそんなワードたちは、別になにか特別な意味を込めたものではないに違いない。きっと、彼にとってはなんでもない言葉。ただ『事実』だから口にしているだけで。
「ドラルクさん」
「ん? ああ、もうついてしまったか」
辿り着いた我が家を見て、ドラルクさんは名残惜しげにそう言う。
「きみと過ごす時間は本当にあっという間だ」
「……送ってくれてありがとうございます。お花も」
「いいよ、このくらいさせてくれ」
からりと気負いさせないようなさっぱりした笑顔を向ける彼に、私もかつての接客業で培ったスマイルを浮かべる。それを見てドラルクさんはぱちぱちと数度瞬きした。強ばった笑みで、僅かに困惑を含んだ声で名前を呼ばれる。
「私はこの花、あまり好きじゃないんですけどね」
「……え」
「じゃ、おやすみなさい」
お気を付けて、と付け加えてから扉を閉める。閉まる直前に見えた彼は、呆気に取られた顔で呆然としていた。
扉に背をつけ、ずるずると玄関口で座り込む。最低だ、私。酷いことを……八つ当たりをしてしまった。後悔と罪悪感。しかし先程まで抱いていた反発心は、それらを自覚しても尚残っていた。
顔だか魂だか知らない。もう、なんでもいいけれど。とにかく『前世の私』と『今の私』は別人だ。それなのに彼の瞳はいつだって雄弁に愛を伝えてくる。懐かしさで咲く笑顔や、すべてを許容する温和な声音。それらを向けられる度に気が狂いそうに――勘違いをしそうになる。
靴も脱がずに蹲ったまま、こめかみを抑えた。脳の奥から、頭蓋に向けてを突き刺すような鋭い痛みが刺激してくる。最近いやに夢見が悪く、寝不足気味だった。夢の内容はとんと覚えていないけれど、とにかく起きる頃にはいつもひどく疲れていた。痛みを逃がすため、そして自身を戒めるために息を吐く。
期待してはいけない。自惚れてはいけない。
彼が好きなのは、私ではないのだから。
結局突き返すことのできなかった花束が、腕の中でガサリと音を立てた。あんなに綺麗だった赤が今やくすんで見える。瑞々しい芳香にひどい吐き気を煽られ、頭痛の勢いが増して顔を顰めた。
大好きだったはずの花が、今はただただ不快でしかなかった。
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