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 ピンポン、のピの時点で私は立ち上がっていた。たいして意識を向けていたわけでもないニュースを切って廊下を走る。扉付近で急ブレーキをかけた。深呼吸して、軽く頭を撫でつける。スカートを無意味にはたいてちょっと直してから、覗き穴を窺い、外にいる人物を確認した。もう一度だけ呼吸を整えてから鍵を回す。冷静そのものを装って扉を開けた。
「きみも(吸血)鬼にならないか?」
 挨拶もせずにねっとり告げられた台詞にすんっと気持ちが鎮まっていく。手の甲を見せつけるように右手を構えるドラルクさんに、少し考えてから口を開いた。
「私はきみが嫌いだ」
「スナッ」
「……とお返しした方がいいですか?」
「本当にすみませんでした」
 砂になった彼を呆れて見下ろす。自業自得だ。忠実にいくならそういう流れでしょうに。
「きら、えっきらい……?!」
「ほら、早く行きましょう」
「うう……。いや、ちょっと待ってくれ」
「な、なんですか」
 蘇った彼に無言でじっと見つめられてたじろぐ。おかしなところはないはずだ。むしろ、ブラウスからスカート、靴まで新品だし、なにか言われるとしたら――込み上げる期待を隠すことができず、声が少し上擦ってしまった。「……きみ」ドラルクさんは上から下までたっぷり見下ろしてから、静かに切り出す。どこか驚いた声をしていた。
「いつも以上に美しいな」
「は?!」
「な、なぜ怒る」
 怒ってない、驚いただけで。スカートの裾を握り締めると、ドラルクさんは「皺になるぞ」と諌めた。だって、もっとこう、部位的に褒めてもらえるかと。
「いやぁ、あまりに美しいからつい驚いてしまった。不躾にすまなかったよ」
「……いえ、別に」
「髪の毛をセットしている姿は新鮮だなぁ。結構時間かかったんじゃない? かわいい、見れて嬉しいな」
「そ、そんなでもないです、軽くなので、楽なやつだし……」
「そうなの? 器用なんだ。それに、ああ、そんなに紫が似合うなんて知らなかったな。……香水も新しい? きみの華やかさを惹きたてるやさしい香りだ」
「う、あ――いや、あの――……いや。なんとなく買ってみただけなんですけど? 髪も服も香水も別に他意なんてないんですけど?」
「う、うん。分かってるよ?」
「グッ……ウウッ……!」
「なぜ威嚇を?!」
 自分で言ったくせに肯定されて唸る私を見て、ドラルクさんは当然の困惑をしていた。分かってない、だってこれは、……。……いや別に突然昨日新しい服が欲しくてたまらなくなっただけですけどね。別に今日のために買ったわけじゃないですし。ドラルクさん意識の紫スカートじゃないですし。誰かのためとかではなく、自分のためなので! だから全然、ほんと、なにもかもたまたまなんですけど!
「……紫、ほんとうに似合ってますか」
「うん。はな君のために生まれた色みたいだ」
 つい余計なことを聞いてしまって自爆した。そこまで言って欲しかったわけじゃない。熱が滲んで来る感覚に、慌てて顎を引く。
「……紫は初めて見るな」
 静かな独り言に、浮かれていた心が一気に沈み込んだ。こんなに小さな声だったのに、どうして聞こえてしまったのか。
「いやしかし、こんな美しいきみをロナゴリなんぞにまで見せてやるのは、さすがにもったいない気がするな」
「え?」
「ん?」
 時が止まり、夜風がピュウと間抜けな音を立てて私たちの間を通り過ぎていく。そういえば詳細は聞いてなかった、気がする。RINEではただ【明日の夜会いたい】とだけ。
「……今日ってどこ行ってなにするんでしたっけ」
「え? ドラルク城マークUで最近多発している事件の詳細についての説明を……あれ、言ってなかったっけ」
「すみません着替えてきていいですか」
「なんで?!」
 部屋の中に戻ろうとする私の腕を、ドラルクさんが珍しくがっしり掴んで引き止めた。普段は紳士然としているから、彼が私に触れてくることはあまりない。意外と力が強いんだな、すぐ死ぬくせに。ええい離せ。
「なんで着替えちゃうの?! かわいいよ?!」
「いいんですそんなことはもうどうでもいいから――とにかくスーツに着替えさせてください!」
「落ち着きなさいよあーた!!」
 だって、だって珍しく吸血鬼勧誘とかなかったから。変に飾り立てた長文もなかったから、つい、つい浮か――。
「うえーん! ころせー!」
「か、かわいい、似合ってるから、ね?!」
 ◆
 トボトボと夜の街を歩く。落ち込む私の手を引くドラルクさんは、なぜか大層機嫌がよろしくて、鼻歌まで歌っていた。
「とうちゃーく! ほら、ドラドラちゃん特製フルーツタルトが待ってるよ」
 『どなたでもお気軽にお入りください』の看板の前で、「元気をおだし、よく分からんけど」と頭を軽く撫でられる。よく分からんならやめろ、と振り払いたくなったけれど、正直今はそんな元気もなかった。
「おせーよ」
「ごめんねおさるのろなるどうっきっきーにおるちゅばんはきびちかったかな?」
「ブッ殺すと心の中で思ったので行動を終わらせた」
「ヌー!」
 灰の主人にジョンくんが切なく鳴きかける。ギャングルドさんはすぐ作画を切り替えて、穏やかな画風で私にこんばんは、と会釈した。
 三人分の紅茶とケーキが運ばれてくる。旬の果物をふんだんに使った、宝石みたいな輝きのフルーツタルトを前に、自然と口角が上がった。綺麗で美味しそうで、芸術品のようで手を付けるのがもったいない。けれど同時に、早く口いっぱいに頬張って心ゆくまで堪能したくなる。そんな幸せな矛盾を覚えてしまう、まさしく夢のようなおやつだ。
「さ、召し上がれ〜」
「……いただきます」
 こういうとき、一人分足りないことを――こんなに美味しいのに、それを一緒に共有できないことを寂しいなと感じる。言っても仕方ないので、言わないけれど。「それで」ケーキにフォークを突き立てながら、ロナルドさんがちらりと私を見た。
「今日来てもらった件についてなんですけど。ドラ公からどこまで聞いてます?」
「いえ、まだなにも」
 素直に答えて一口咀嚼する。冷たくてフレッシュなフルーツとバニラエッセンスがアクセントの甘いカスタードが神がかり的に絶妙。おいしい。なぜかドラルクさんが「アッ」と小さく声を上げた。
「お前かいつまんで教えとくとか言ってたじゃねえかなにしてんだ記憶力までザコボケおじいさん」
「うるせー黙れゴリ色々あったんじゃ」
「なに赤くなってんの? 素直にキショ」
  私に伝えなかったという失態をそんな恥ずかしいと思うのか。意外だ、そんな性格だったっけ。吸血鬼の赤らむ目元が珍しくて凝視していると、「はいはい見なくていいからね〜」と早口で言われ口にケーキを突っ込まれた。カスタードが若干染みた、バターたっぷりのサクサクタルト。おいしい。
「女性が次々に意識不明の重体に陥っている事件はご存知ですか?」
「あ、はい。ニュースで軽く知ってる程度ですが……」
 ちょうど出掛ける寸前まで見ていたニュースだ。職場でも先日話題になっていた。
 新横浜の夜はなんやかんやで基本的に騒がしい。しかし今回の騒動――突然、街の女性がなんの前触れもなく意識を失っていく――からは、静かに、しかし着実に日常を侵そうとしているような、そんな明確な悪意を感じた。ニュースで聞く限り、被害女性たちは未だに昏睡状態だという。
「倒れた女性たちは『夜に襲われた』ということ以外の共通点はないんですよね」
 たしか、と公になっている情報を思い出す。だから漠然と吸血鬼絡みなのかと踏んでいたが、こうしてロナルドさんが関わっているというなら確実にそうなのだろう。しかしロナルドさんは「いや」と首を横に振った。ドラルクさんもいつになく神妙な顔をしていて、私も居住まいを正す。類に見ないほどの張り詰めた空気が事務所を満たしていた。
「たしかにそれも共通項の一つではあるんですけど、それだけじゃなくて。実は、彼女たち全員、倒れる直前に、恋人へひどい大怪我を負わせてて」
「怪我を負った側は誰も彼も重体ではあれど、それでも意識ははっきりしている。それどころか恋人を庇う始末」
 そんな調子なものだから、最初はなんだちょっといきすぎた痴話喧嘩かと処理されていたらしい。しかし加害者であるはずの女性たちが一向に目を覚まさないことに加え、立て続けに三件、四件……と同様の事件が連続していくうちに、警察もやっとなにかおかしいと気付いたという。
「んで、昨日やっと吸血鬼関連の案件だって線が浮上して、うちにも協力要請が回ってきたんですよ」
「余計な混乱を避けるためにこの詳細は民間には伏せられている情報なんだがね」
「そうだったんですね……でもなぜそれを私に?」
「だって私たち恋人じゃないか」
「帰ります。ご馳走様でした」
 美味しかったですと紅茶をしっかり飲み干して立ち上がると、ドラルクさんが「待ってェ!」と甲高い声で手首にすがりついてきた。やめろ離せていうかやけに触ってくるな今日。
「やーいクソキショ勘違い砂フラれルク〜」
「こ、この、この赤、ここぞとばかりに!」
「……まあでも実際、被害者の中には恋人になる前の実質両想いみたいなカップルもいたりしたんですよね」
「はあ?」
「ヒッ」
 それに私たちが当て嵌るとでも? ハハハなにを抜かしてくれるんだこの売れっ子退治人さんは。冗談も大概にしてここの住所を食べログに登録するぞと睨めば、ロナルドさんは子鹿のようにぷるぷる震えた。
「う、えと、あの……でも、相手の片想いとかでも結構危険だったりすると思う、ので……」
「……はあ。つまり?」
「だからこれからは私が会社帰り護衛するよって! そう、さながら私はきみだけの愛の騎士!」
「チェンジ」
 たった一言で死んでしまったプレパラートよりか弱い騎士を胡乱に見下ろして眉をひそめる。護衛にここまで不適切な人選ってあるだろうか。いやない。
「お話はそれだけですか? 私にはまっっったく関係なさそうですし、護衛なんて必要ありません」
「いや、たしかに私じゃ役不足にも程があるとは分かってるけど! でも“今度こそ”きみを守らせてほしいんだ!」
 身を切るような焦燥とした形相の彼に思いっ切り顔を歪める。なにが“今度こそ”だ。“私”はなにか危険な目にあったことなんて、一度もないのに。私を見てない相手と、恋人だなんてふざけないでほしい。不愉快を隠さず鼻を鳴らすと、さすがに癇に障ったのか、ドラルクさんの目元がぴくりと痙攣した。
「守るって、あなたに何ができるんです? すぐ死んでしまうくせに。他人の心配なんてできる立場なんですか? 余計なお世話なんですよ。大体、仮に何かあったとしても、自分の身くらい自分で――」
「私の手すら振り解けないのに?」
 鋭く刺々しい声音が、捲し立てていた言葉を遮る。いつの間にか腰を上げていたドラルクさんは、高い位置から覆うように私を覗き込んでいた。大きな目はつまらなそうに細められている。凍てつく眼差しに僅かに息を止めてから、逃げるように手首へと視線を落とした。
「別に、そんなの――……!」
「『そんなの』、なんだい?」
 振り解くなんて簡単だ、と。そう紡ごうとした口が力なく萎んでいく。手首を軽く一周している五指を砂にすることができない。掴まれた箇所に痛みはない。つまり『加減をされている』のは明らかだった。茫然と、油を差し忘れた機械のようなぎこちなさで上を見る。
「ほら、どうしたのかね?」
 香水に混じって、焼け焦げた灰、そして僅かに鉄の香りがした。慇懃に言葉の続きを促される。言えるものなら言ってみろというような冷たい挑発に臆してか、吐息が震えていた。瞬きさえ彼の琴線に触れるのではと思うと、貫く双眸から目を離すことができなかった。普段は白目がちであまり目立たないけれど、そうか、こんな炎のような紅だったのか、この瞳は。
「……たしかに私はすぐ死ぬけどね。でも先に逝ってしまったのはきみじゃないか」
 苦痛に耐えるような掠れ声に、止まっていたかのような時間が一気に動き出した。高揚感にも似た心臓の鼓動が、急激に落ち着いていく。
「もしまたきみになにかあったら、私は……ッブアアア?!」
 全力で足払いをかければ、さっきまでのままならさが嘘のように一瞬にして彼の全身が砂になった。
「あなたの後悔なんて知ったこっちゃありません」
 自由になった手首を摩りながら、砂山へ吐き捨てる。今や胸を占めるのは苛烈な憎悪だけだった。
「死んだらその時は、また来世まで待てば?」
 嘲笑を残して事務所を出ていく。湿った夜の匂いがして、雨が降りそうだなと頭の冷静な部分が判断していた。
 この前に引き続き、また最低な別れをしてしまった。けれど、ずっと誰かを重ねていた甘い目が、“私”に対し、初めて『怒り』で染まったことが嬉しかった。一瞬でも、例えそれがどんな感情だとしても、私は喜びを感じてしまっていた――なんて。もう本当にどうしようもない。喉から零れた笑いは、虚しさで砂のように乾いていた。

 ◆

「……拗れすぎじゃね」
 乱暴に閉められた扉の大きな音の余韻さえも消え去ってから、ロナルドはぽつりと呟いた。「拗……?」不思議そうな声とともに砂が蠢いて立体となる。
「まあ、私の想いが全くもって伝わってないのはたしかだが」
「伝わる伝わらないっていうか、なんか……え? うーんまあ多分全部お前が悪いわ、知らんけど」
「はあー? どこがだ言ってみろあんなに直球だろうが私はこれ以上どうしたらいいんだほんと教えろ頼む童貞ゴリッ」
「ゴリーヴェデルチ。つーか二百年同じ相手想い続けてるならお前もそうだろうが」
「ウゲエー! 人の心とかないんかお前!」
 てめーが言うなやと、ロナルドは砂を踏みつけて自身のデスクへと向かう。腰を下ろしてPCを開いたところでふと思い出し、「なあ」とテーブルを片していたドラルクへ話しかけた。あ? ヌー? 一人と一匹がシンクロしてロナルドを見る。
「さっきお前、『今度こそきみを守らせてほしいんダッ!』とか言ってたけど」
「おいロナカスその腹立つ顔と声はまさか私の真似か?」
「あの人の死因って持病の悪化なんだよな?」
 ドラルクの額に浮かんでいた青筋がすっと消える。ロナルドは違和感を思い出すように眉根を寄せていて、その表情の変化には気付かなかった。
「なんかあの言い方、まるで病気とは別のなにかのせいで死んだみてーな感じじゃなかったか?」
「……そう? 気にしすぎじゃない? そういう無駄に繊細で細かいの、まさしくゴリだな」
 パンチの風圧すら届かぬ場所へひらりと踊るように移動して、ドラルクは懐から携帯を取り出した。
「あ、御祖父様? ちょっと至急お願いがあるのですが。……ええ、まあ、はい。そうです、彼女のことで」

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