10
夢見はいいとも悪いとも言えなかった。こんなん見せられて私はどう反応しろと? シェイクスピアかよ。ただ一つ言えるのは、夢の内容とは無関係にめちゃくちゃ身体が痛くて重いということ。首から足の爪先まで、もう筋肉という筋肉がパンパンに張り詰めていて、ただ横になっている状態なのに継続ダメージが入っている感じがする。全身を蝕む圧迫感を、息を吐いて紛らわせる。体以外のこと以外に意識を向けたくて、硬いマットに手をついて身を起こした。衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。
機械的に時を刻む電子音、それから薬の匂い。服も肌触りはすべすべで動きやすい。ここは病院、な気がする。暗くて確信は持てないけど。本当に目を開けてるのかと不安になるくらい、部屋は真っ暗だった。ベッド脇の心電図を示すモニターだけが弱々しく発光していた。
「起きても大丈夫なの?」
なんの予兆もなく声をかけられ、心臓が飛び跳ね過ぎて肋骨から飛び出したかと思った。暗闇に慣れ始めた目で急いで声の出処を探す。
「……ドラルクさん? なんでそんな暗いところに……」
「吸血鬼だから。暗い方がよく見えるんだよ。でもきみは人間だしね、すこし灯りをつけようか」
ドラルクさんが動いたのか、空気が流れたのを肌で感じた。後ろでパチ、という軽いスイッチ音がして、ヘッドボードからの小さなオレンジ灯に背後から照らされる。思ったよりずっと近い位置からぬっと現れたドラルクさんの顔にぎょっと身を固めた。硬直した私を置いて、彼は何事も無かったように体勢を戻して離れていく。
「吸血鬼なら暗闇でも平気だし、化け物に易々と乗っ取られたりもしないし、簡単に命の灯火を消したりしない――私だってすぐ蘇るんだから例外とはいえないだろ」
「……まだなにも言ってないですよ」
「言いたげにしてた」
たしかに言いたくなった。本当にはっきり見えているらしい。私からはドラルクさんの表情ははっきり見えないのに。小さなオレンジの光だけじゃまだ明るいとはいえず、心許なかった。彼が足を神経質に組みかえると、座っている丸椅子が少しだけ揺れる。言い回しにどこか棘を感じた。
「きみもなにか面白い能力に目覚めるかもしれないよ」
「Y談ビキニ野球挙……」
「なぜそんな駄目な例ばかりあげる」
「じゃあ……催眠阻害とか?」
病院着の胸元で不思議に煌々と光る赤い石を見下ろす。着替えたのにこれだけは外されなかったんだ。贈り主の強い意向だろうか。そう当人を見れば、少しバツの悪そうにしていた。
「ドラルクさんの血が入ってるんですよね、これ」
「ああ、うん、まあね。御祖父様にお願いして……気付いてたの、というかどこまで意識あったの」
「うっすらですけど、一応ずっとありました」
一番はっきりしているのはドラルクさんに声高と呼ばれた時だ。行かなきゃ、という強い思い。それから私のせいで彼が死んでしまうという焦り。この二つが特に色濃く記憶に残っていた。
「……私、吸血鬼にはならないです」
「ま、だよね」
「吸血鬼にはならないって、言ったのに」
「……うん? そうだね?」
人間でいたかったのも事実だ。けれどそれよりも胸の奥にずっと巣食っていた忌避感の正体が、やっとついさっき分かった。感情が昂って声が震える。その掠れに、彼は訝しげに眉をひそめてから、なにかに気付いたように瞬きした。あ、これ、絶対見当違いなこと言われる。
「ドラルクさん」
「ごめん、病み上がりだったね。待ってて、今ナースコールを――」
「好きです」
本当は思い出したことを告げるつもりだった。なのに口から飛び出したのは全然違う四文字で、我が事ながらばかみたいに狼狽える。けれどナースコールに手を伸ばしかけた妙な姿勢のまま、無言で驚愕するドラルクさんを見たら少しだけ自分の動揺が和らいだ。
「あなたが好きだから、私はあなたのために生きます」
私なら簡単に諦めたりしない。勢いに任せて毒なんて飲まないし、悲嘆にくれた哀れなヒロインぶったりしない。違う自分に嫉妬したりは……してしまうけれど。
「あなたが好きなんです。宗教勧誘ですかとか言ったけど、でも本当は腕を掴んでくれたときから惹かれてた。それからもうずっと、話すうち、関わるうちにどんどん好きになっていってたんです」
ドラルクさんと会ってからの気持ちの転がりようが怖くて、今まで二十云年生きてきた自分じゃないようで、素直に認められなかった。心の中ですら言い訳を並べて屁理屈を捏ねて。それでも、やっと最近ドラルクさんとちゃんと向き合い始めることができた。
「あなたのために命を捨てる女のことなんてもう忘れてください。あなたとこれからを生きれる私を、どうか好きになってください」
彼の手が力なく落ち、その振動でベッドが僅かに揺れる。投げ出された剥き出しの手をとって、祈るように両手で握り締めた。冷えきった手は、ピクリとも動かない。私の気持ちが少しでも伝わって、それでついでに体温も移ればいい。そんな気持ちで自分の手を押し付ける。
「……すきだよ」
低く押し出された硬い声に首を振る。ちがう、あなたのそれは私の求めるものではない。
「はな君が好き」
「違うんです、そうじゃなくて――」
「ブーゲンビリアが好きで、フルーツタルトをだせばこっそり微笑んで、意地っ張りで素直じゃなくて、不器用でかわいいはな君が好きだ」
遮られた言葉の羅列に驚いて彼を見ると、ドラルクさんも私を見ていた。
「最初は、記憶がなくて寂しかった。前のきみとのあまりの違いに――ごめん、正直ガッカリもしたよ。顔だって特別似てるわけじゃないしね」
詳らかになっていく彼の胸の内は、大きな反発心もなく、そうなんだとストンと胸に落ちてきた。似てないの、知らなかった。私が前の自分の顔見たの、ドラルクさんに着飾ってもらったときくらいだから。化粧のせいかなってあんまり気にしてなかったけど、顔すら似てないんだ、私たち。
「共通点を探したし、見つけては嬉しくなった。でもそんな喜びは、いつの間にか『懐かしいな』ってだけになってた」
このちがい、分かるかなぁ。わかってほしいなぁ。
ゆったり間延びした声とともに、片手を添えられ、包み込むように摩られた。震えがどちらのものか分からなくなる。
「強がって感情を隠そうとする時の、顰め面のような笑顔は可愛くて、でも切なくなる。そんな顔をさせてばかりだなと不甲斐なさを覚える」
私、そんな顔してたっけ。してたのかも。自分じゃ分からないけれど、彼がいうのだから、きっと。「あのね」子どもが内緒話をするみたいに、ひそひそと付け加えられる。
「私に見られてないと思ってる時の笑顔……幸せを噛み締めてじんわりひそやかに笑う様はね、もっとかわいいんだよ。きみ、バレてるって知らなかっただろう。蕾が花開くようで本当に美しいし、そうやって一瞬一瞬を大事にしようとする心を、とても愛おしいなと思うんだ」
ドラルクさんの目が線のようになり、へにゃりと眉が垂れる。薄暗さにもすっかり慣れていたので、その眦に滲む涙もちゃんと見えていた。
隠れて笑うことはあった。だって溢れる幸せを抑えきれなかったニヤケ顔はきっとひどく情けないだろうから、彼に見られたくなくて。でもそれを指摘されたこともないし、気付かれてないと思ってた。だからこうして告げられた内容は、私にとってすごく恥ずかしいものなはずなのに、どうしてか嬉しいと感じている自分がいる。嬉しい、恥ずかしい、信じられない、信じたい。色んな感情が胸の中でぎゅうぎゅうと膨らんでいて、自分の心が分からなくなってくる。混乱のせいで声が出なくて、無意味に開いた唇が細かく震えた。
「私はもうずっと前からはな君に恋をしてたよ」
うそだ、と言おうとして息を吸う。なのに喉奥が痙攣して結局まともに喋れなくて、ちいさな嗚咽だけが落ちた。そうして気道の苦しさを認識すれば、途端に全身をが燃えるような熱を主張しだす。指先までもが沸騰しているようにピリピリした。目の奥が痛むくらいに熱くて、意識が朦朧としてくる。ドラルクさんの姿が、ぐらぐらと重なって見えた。
「ちゃんときみのことを愛してる。……“ちゃんと”と言うと、なんだか可笑しな言い方になるが」
ドラルクさんが苦笑しても、私は返事ができなかった。まばたきをしないように、目にばかり意識をやっていたから。だって、まばたきをしたら泣いてしまうと思った。だからしないように目を見開いていた。それなのにばたばたと涙が勝手に溢れていく。ゆっくりと近付いてきた指が、そっと目元に触れた。冷たさは感じない。私が熱すぎるからかもしれないけれど。
「哀しませてるって気付くの遅かったよね。無神経なことして、今までごめん」
血が滲むほど噛み締めていた唇を労わるようになぞられ、力が抜ける。
「好きになってくれてありがとう」
もう泣くのを我慢するのはとても無理で、背中を丸める。傾いた私の上体を、ドラルクさんが受け止めた。ちがう、そんなつもりじゃない、服が濡れてしまう。離れようと肩に手を置くけど、寝起きのせいかうまく力が入らない。せめて涙を止めようと頑張ったけれど、「すき」という言葉が雨のように降ってくるせいで、泣き止むこともできなかった。
◆
「たまにはフルーツタルト以外が食べたくならないの?」
怪異は去り、街に平和が戻った。が、ドラルクさんはまだ私の送迎をしていた。「恋人なんだからもう理由はいらないでしょ」とにっこにこで言われたが、いやでも恋人になる前から出待ちして家まで送ってたよなぁ、この人、と思った。今や文句なんてないから、別に何も言わなかったけれど。
いつものようにガードレールに凭れて待っていた彼から、呆れ顔でそんなことを言われる。満面の笑みでケーキが入った箱を受け取ったばかりだった。今日は一緒に――と言ってもドラルクさんは食べないが――うちでお茶会をする日だ。
「花も、毎回ブーゲンビリアだし」
「じゃあケーキも花もリクエストとらなきゃいいじゃないですか」
「や、ほら、希望があるならできる限り沿いたいっていう恋人心がだね……でも私としては、やっぱりもっと色んな花に囲まれたきみも見たいんだが」
ちょっと不貞腐れた顔で言われても困ってしまう。だってどちらも飽きないし。
「花屋でも寄りますか? 囲まれますよ」
「もしかしてだけど、はな君の中に情緒と飽きるって概念ない感じ?」
「失礼な……一途なんですよ、私」
一度好きになれば、それこそ輪廻も時代も超えて好きなのだ。
「だからきっと、来世の私もドラルクさん――と、ブーゲンビリアとフルーツタルトが好き」
「そこ並んじゃうの? 同じ扱い?」
「まさか。飛び抜けてあなたが一番好きですよ」
「……、……素直すぎるのも考えもの――いや待て来世?! え、吸血鬼にならないの?!」
ドラルクさんは血相を変え、「なるでしょ? なるよね?!」と声を荒らげて私の肩を掴んだ。
「ええ、分からないです」
「分からないです?!」
「だって、人間の私を何遍も好きになってほしいからなぁ」
微笑むとドラルクさんの瞳が卵のようにまん丸くなり、手の力が弱くなった。その隙に拘束をパッと払い除け、ケーキを抱えて花屋の方へと歩き出す。今日は私がドラルクさんに花をプレゼントしよう。この人にはなんの花が似合うかな。……いや、でもなあ。
「悪魔――この小悪魔! 人の心とかないのか?!」
簡単に人間をまっとうして、このかわいく愛しい彼を来世の私に渡してあげるのもいやだな。前世の私とは違って、今の私はかなり嫉妬深い自覚はあった。とてもきれいとは、清廉で潔白とはとても言えない。でもそんな私でも彼は好きになってくれたのだ。やっぱりバカな女。ざまあみろと、昔の自分に内心で舌を向け、ついでに迫ってきた気配に駆け出す。
「ア?! おいこら走るな――私を置いて行くな!」
もう“人”生に未練はない。朝焼けだって一緒に見れたし。それなら、彼の願いを叶えるのも吝かでは――あ、だめ、未練ある。見つけたりゆうに足を止めて振り返ると、やがてドラルクさんが追い付いてきた。肩で息をした彼は、恨みがましそうにじろりと私を窺う。
「なんで突然ガンダした? 若さ自慢か??」
「ドラルクさん、吸血鬼、なってもいいですよ」
「……え。ま、まじ?」
「ええ、まじです。『タルトに飽きたら』ですけど」
吸血鬼になったら味覚がどうなるかは未知数だ。博打にはでたくない。輝かんばかりだったドラルクさんの顔が、一瞬で絶望的なものへと変わる。
「つ、つまりノーってことじゃないか!」
そうは言ってないのに、また随分と早とちりするなぁ。百八十年待てたなら、もうあと数十年だけ待ってくれてもいいじゃないか。飽きるかはわからないけど。わなわな震えるドラルクさんの指先を掴む。見開かれた彼の大きな瞳には、顔を綻ばせた私が鮮明に映っていた。
「まぁた、嬉しそうにしちゃってさあ。まったくこの子は……」
「ふふ、だって」
「だってなんだっていうのよ」
おちゃらけた口調で詰られるが、ドラルクさんの顔は優しかった。だって、自分の言葉一つでこうも狼狽えてもらえて、嬉しくないわけがない。でもさすがにこれを言うといじけてしまいそうなので、もう一つの本音を舌に乗せる。
「あなたが好きだなあって」
手の中の指がぴくんと跳ねた。呆気にとられた表情に、じわじわと朱が滲んでいくのを見て、さらに口元の力が抜け、自身の笑みが深くなっていくのが分かる。ああ、ほんとうに大好き、かわいい。この『愛おしい』という感情を誤魔化そうとは、もうちっとも思わなかった。
「ね、タルトに飽きるまでに、私は何百本のブーゲンビリアを頂けますかね?」
「……ふん、舐めるなよ。何千、いや何億本だって贈ってやる」
冗談めかして言ったつもりなのに、予想外の返答をされてついぽかんとする。そんな私に、ドラルクさんはしてやったりという笑みを浮かべ、するりと指を絡めて手を繋ぎ直した。指と指を挟むしっかりとした感触に、私から離すのは困難だろうなと感じる。
何億本。仮に一日二十本だとしても、途方もない数字だ。それだけの花が積み重なりきった頃には、きっと今よりもっとたくさんの色彩のブーゲンビリアが開発されていることだろう。ドラルクさんの料理の腕も更なる向上を遂げていて、フルーッタルトレベルも完凸を超えた完凸になっているに違いない。そんな遥か遠くの、来るかもしれない未来に思いを馳せながら、私は「楽しみです」と笑った。
【完】
【<< back Fine】
>>HOME