9
 まだルーマニアがルーマニアとして自治しておらず、オスマン帝国の支配下にあった時代。十九世紀初頭、のどかな田舎を収める領主の一人娘として、私は生を受けた。
 生まれて間もない頃から、私は既に両親から見放されていた。父親は自身の地位を上げることにしか興味がなく、母親は本当に父への愛情があったのかと疑うほど遊び更けていて。やる気のない乳母だけが幼い私の話し相手――いや、話し相手ですらなかったか。雀の涙程度の賃金だったので、乳母でさえ私の世話をろくにしていなかった。しかしそんな職務放棄がバレたとて、雇い主がそれを咎めることがないだろうと乳母も分かっていたからだ。
 誰も私を相手にすることがない、そんなつまらない日々を無為に過ごすことおよそ十年。真夜中に御屋敷を抜け出したのは、特になにかを思ったが故の行動ではなかった。
「人間……?」
 ただ、眠れなくて。さして広くもない屋敷内を練り歩くのにも、飽き飽きしていて。なにもかもがつまらなくて、御屋敷近くの夜の森へと繰り出しだけだった。
 きょとんと目を瞬かせる男の子の顔は、月明かりのせいにするには無理があるくらい血の気がなかった。それこそ、そう、『人間』とはとても思えない顔色だ。薄く開いた口からは、鋭い牙が覗いている。極めつけのような尖った耳に、私も声を震わせた。
「きゅ、吸血鬼……!」
 吸血鬼の存在が確認されたという新聞の記事は読んだことがあった。でもそんなものは与太話だと、これまで全く本気にはしていなかったのに。だって、吸血鬼なんてそんなの、架空の生き物のはずなのに。
「あの……?」
「ヒ、う、あっ……こ、ころさないでくださ――」
「えっ殺す?!」
 少年は私の命乞いにビクッーと過剰に反応を示し、そのまま全身を砂にした。ヒュッと息を呑んだ。え、なに、砂、吸血鬼が死んだら塵になるってことは、創作でも有名だから知っている。つまり、私は今この少年をころして――。
「あ、や、ごめ、ごめんなさ、ちが、わたし、えっ、え、わたし……!」
 罪悪感と困惑と混乱、濁流のように押し寄せてきた許容量外のパニックに目の前がチカチカ点滅する。誰ともなく拙い謝罪を繰り返す。死んでしまった相手にはもう届かないのに。しかし無意味とわかっていても口が止まらない。
「すみません、ほんとうに、ごめんなさい――」
「あ、だ、だいじょうぶ……大丈夫です、大丈夫なので……」
「……え?!」
 外套の中でゆっくりと蠢く砂から、蚊の鳴くような声で宥められ、また卒倒しそうになった。
 これが、ドラルクと私の最初の思い出だ。
 ◆
 死にやすいという不思議な体質のおかげで箱入り息子だという彼とは、それなりに話があった。私は箱入りとは真逆だけれど、日々に抱く鬱屈とした思いを共有することはできたから。私達はすぐに友達になり、毎夜屋敷を抜け出して森で会うようになった。
 彼のお父様は過保護と聞いていたから、こんなに毎日会っても大丈夫かと私は心配だったけれど、当のドラルクは父親に対する隠し事を楽しんでいるようだった。こんな密かな逢瀬は彼の御祖父様にはバレてしまったが。「お父様には内緒にしてて下さい」とドラルクが必死に頼み込むと「オッケー」と拍子抜けするほどあっさり許可がおりた。驚く私に、御祖父様は「たまに交ぜてね」と丸を作った指を向けてくれた。
 それから五年。時たま御祖父様に振り回されたりはしたけれど、それでも、かつてないほど楽しい日々だった。
「ドラルク、しばらく来れないと思う」
 ある夜、ごめんね、と御祖父様に謝られるまでは。その隣に、ドラルクの姿はなかった。多分、そこからだ。私の人生に闇が絡みだしたのは。ドラルクと会えなくなって数ヶ月後、父は新たな事業を見つけた。商人としての仕事だ。
 吸血鬼を殺すための道具を、退治人達へと流す仕事は、父にとっては面白いほど――そして私にとっては絶望的なほどに軌道に乗った。
 ◆
 『しばらく』が具体的にどれくらいかは、結局教えてもらえなかった。だから私は月に一度、必ず夜の森へ足を運んでいた。来たよ、という印だけが未練がましく積み重なっていく。もうやめようか、と木の幹を指で撫でるのも、もはや何十回目だろうか。ナイフでつけられた無数の跡は、見てるだけで虚しく痛々しい。私の心のようだ。
「……ドラルク……私のことなんてもう……」
「なんだい?」
 記憶よりも少し低くなった声音に振り返った。風が吹き、葉が鳴き、辺りに月光が降り注ぐ。光の中心に立つ男は、思い描いていたよりも背がずっと伸びていて、顔も精悍に成長していたけれど、それでもしっかりと昔の面影を残していた。
「ドラルク……」
「やあ、素晴らしい月夜だね?」
 のほほんと受け答えするドラルクに、嬉しいやら怒りやら、熱い感情が込み上げてくる。いてもたってもいられなくなり、衝動的に彼へと抱き着いた。私を受け止めた彼の骨張った手がしっかり背中へ回る。嗅ぎ慣れない香水の香り、触れる身体の硬い感触。私も彼も、出逢った頃とは違い、今や大人になっていた。
 私の涙が落ち着くと、ドラルクは抱き締めたまま、不在の間の話をしてくれた。彼の父親の友人のところで吸血鬼としての生き方を叩き込まれていたらしい。あまりいい思い出はないのか、終始険しい顔をしていた。
「でも、癪なことだが料理の腕はかなり上達したんだ」
 今度きみの好きなものを作ってあげる、と微笑む顔は、六年の空白など感じさせないほど純真なままだった。
 ◆
 それは恐ろしく苦く、味蕾に触れた瞬間、無様に顔を顰めてしまいたくなった。瓶の中身をすべて飲み干した私に、父は満足げに小さく頷く。
「支度をして、日没後、すぐに向かいなさい。あまりもたもたしている時間はないはずだ」
 父は窓の外の黄昏を見るため、椅子から立ち上がった。向けられた背中に、私は息を止めてブロンズの像を手に取る。空気を揺らさないように注意を払いながら、重たいそれを、頭より高く振りかざした。
 ◆
 入浴は嫌いじゃない。吸血鬼の彼を想ってからは、宗教だとかはどうでも良くなっていたので、私はよく父が設置したバスルームをよく使っていた。流行りものが家に溢れるようになったのは、父が名を馳せたところの唯一の良い点だ。フランスで流行りだというシャワーは、気軽に身を清めることが出来るから好きだった。でもそれすらも、今は億劫だ。絶え間なく肌を打つ雫を重く感じる。湯船を張った方がきっと楽だったけれど、そんな悠長にはしていられない。気怠い体に鞭打って、皮膚が赤くなるまで全身をくまなく擦った。

 身体が寒く、普段は十分程度の距離が、今日はいやになるほど遠かった。それでも私は、夜の森をひた走る。
 風呂上がりの温かさを、夜の冷たい空気が容赦なく奪っていく。本当はもう少し整えた状態にしたかったけど、髪を乾かす元気もなかった。頭が石のように重たくて、首が痛い。血管の中を毒がぐるぐると這う感覚がはっきり分かって、込み上げる悪寒で顎が痙攣した。気持ち悪さで胸が押し潰されて、吐きそうになる。それでも走って走って走り続け――霞む地平の遠くで、ぽつねんと佇む吸血鬼をやっと捉えた。安心で、と言いたかったけれど、毒のせいで立っているのもやっとだ。今すぐこの場に倒れてしまいたかった。
 今の自分がみすぼらしいのは、嫌になるほど分かっていた。それでも少しでも自分をよく見せたくて。彼の目に、すてきに映りたくて。時間をかけて身なりを無意味に取り繕ってから愛しい彼の名前を呼ぶ。
「ドラルク!」
「ああ、随分遅かったじゃ――」
 振り向いたドラルクの胸に倒れ込む。私の奇行に、彼は息を飲んで言葉を止める。体温がほとんどないはずの彼の胸の中があたたかく感じるのは、私が冷たいからなのだろうか。
「ドラルク、お願いがあるの」
「……なんだ?」
「私、あなたに綺麗にしてほしいの」
「……え?」
 ほっそりした首に腕を回し、首元に頬を擦り寄せる。
「私をあなた好みの女にして」
 ああ、こんなに分かりやすかったのね、あなた。興奮を分かりやすく上下する喉に、ちいさく笑って視界を閉ざす。開けているだけでひどい疲れを感じていた。

「苦しいかい?」
「……ええ、すこし」
「ふふ、だろうね。だがま、我慢したまえ」
 息を吐く様が、あんまりみっともなかったのかもしれない。コルセットを締めてくれている彼からの言葉にどきりとしたが、敢えて取り繕わず返す。
「もう少し絞った方が一番美しいシルエットになるのだよ」
 背後からのご機嫌な声に、気付かれてはいないと分かり、胸を撫で下ろす。楽しそうな彼に、私も「たのしみだわ」と笑った。
 ◆
「どうかね?」
「……とても、すてき」
 姿見に映る自分を見つめる。彼の選んだ赤いドレスを着て、彼の好む色のルージュをひき、首元が惹きたつような美しい髪型にされている。多分、人生で一番綺麗だと思う。もうよく見えないけれど。今の私は、気力だけで立っていた。
「そうだろうそうだろう! 父が不在で良かった、存分に時間を掛けることができた……ドレスはね、これ昔から似合うんじゃないかと実は思ってて――ああほら、ここの編み込みとか我ながら――」
 拘りを事細かに説明しようとするドラルクを振り返る。じっと見つめると、彼は声を詰まらせ顎を引いた。
「……アー、それにしても、どうしたんだい? らしくないことを……何かあったのか?」
「どうして?」
「どうしてって……」
「それより、ねえ」
 すっとぼけて当惑するドラルクの腕に自分の腕を絡める。自分でも初めて聞く甘える声に面白くなった。こんな声をだせたのね、私。
「もっと広いところにいきましょう? 世界で二人だけ、みたいなところに行きたいな」
「またなんと漠然とした無茶振りを……しかしいいだろう」
 ドラルクはにやりと人相悪い笑みを浮かべ、私を自慢だという花園に案内した。色鮮やかな花が何処までも咲き乱れている。たしかに美しくて見事だと、曖昧な視界でもちゃんと分かった。
「きれい……」
「ふふ、だろう。いつか見せようと思っていたんだ」
 そうなんだ、よかった。今日お願いしなければ、その機会を逃してしまうところだった。
「……しかしこんなに我儘を言うなんて初めてじゃないか? まあこんなの我儘にも入らないがね。もっと言っていいよ」
「……そ、ね」
 落ちかけた意識で、返事をしなくちゃと無理やり喉奥から声を捻り出す。もう身体に力を入れてられなくて、ほとんどドラルクに寄り掛かっていた。
「おい、どうしたんだ」
「うん……」
 返事をしなくちゃ。会話を、ドラルクとの最後の話を。ずるずると頽れていく私に、ドラルクが声を荒らげた。
「……は? きみ、きみ――っ具合が悪いならなんで早く言わない?! いや気付かなかった私も馬鹿だが! コルセットか? 今緩めるから待って――」
「いらない」
 せっかく美しく――彼の理想になれたのに。それを崩されるのは、例え彼自身だとしてもいやだった。抱き留められた体勢で、ドラルクの手を掴んで彼を制する。力なんて全然篭ってなかったはずなのに、ドラルクは石像のように動きを止めた。やさしい。どこまでも私を尊重してくれる。そんな彼が大好きだった。
「あのね……お父様が、あなたをころせって」
「……そう」
 そんな大好きな彼を害す選択肢を、他でもない自分の父がしてしまった。突然の告白に、戸惑いを含んだ声が耳朶を打つ。
 父はきっと、『白銀の狼』と呼ばれる吸血鬼の息子であるドラルクを消すことで、成果を上げて、界隈での更なる地位の確立を望んだのだ。うちの家業は、彼の同胞を減らすこと。これ以上そんな現実から都合よく目を背けることはできなかった。
 母は父に愛想を尽かし、若い男と夜逃げした。私が屋敷に残っていたのは父への愛などではなく、この場所以外どこへ行けばいいのか分からなかったから。
 もう許せなかったのだ。父も、自分も。地位ばかりに関心を寄せ、これまでずっと家族をないがしろにしてきたくせに、こんな時ばかり父親という仮面を被って、娘が好いてるという相手を殺せと唆してくる。こんなおぞましい人間の血が皮膚のすぐ下を流れている事実が、もう耐えられなくなった。醜い自分は、もうドラルクの近くにいてはいけないと強く思った。
「父を、殺してしまった」
「それは、……そうか。しかしなぜ、きみまでこんな……」
「毒、飲んじゃった」
 近くにいてはいけないと思ったくせに、最後はドラルクの腕の中がよかった。美しいと思われたかった。本当、どうしようもなく自分勝手で、害悪な性分だ。ごめんねと謝ると、息を呑んだ音がした。どのくらい沈黙が続いたか分からないが、やがてドラルクは「決めたぞ」と硬い声をだした。
「きみを吸血鬼にする」
「いや」
「頼む、なってくれ、そうでなくては――死んでしまう」
「だめ、毒、のんだんだってば」
 やめてと緩慢に首を振る。再生力がどうとか、言っていたから。あの男があれだけ自信満々だったんだから、それなりの威力なんだろう。万が一があったらいやだ。震える手で彼の口を押しやると、指先の向こうで唇が噛み締められる感覚がした。
「勝手にしたこと、気にしないで――もういいの――」
「いいわけないだろう! いいわけが、こんな、死――……!」
 激昂したドラルクを見上げる。ここまで怒る彼は珍しいから、もっとよく見たかった。けど、もう視覚がろくに機能していない。
「すきなんだ」
 手が重なり、長い指が縋るように絡んでくる。ぽた、と頬にあたたかい雫が落ちてきた。
「愛してる、初恋だ、きみ以外いない――吸血鬼にとって六年なんて刹那のはずなのに、会えない時間が千年にも感じたんだ、ほんとうに――本当に、ずっと会いたかったんだ」
 矢継ぎ早に紡がれ、ぼんやりと再会のときを想起する。あんなに涼しげな顔をしてたくせに。言ってくれたらよかったのに。お師匠さんの所から帰ってきてから、彼はやたらとカッコつけるようになってしまって。気障に笑ってばかりだから、あの時、私だけが嬉しいのかと思ってしまったじゃないか。
「いやだよ、頼む――そんな、毒なんて私は大丈夫だから……すぐ死ぬけど、蘇ることができるんだよ。きみだって知ってるだろう、何度も見てきただろう――信じて、大丈夫だから、おねがい……」
 拒否を示して首を横に振る。比喩なしで虫の息の私の抵抗なんて、簡単に払い除けることができるだろうに。ほんとうに律儀だ。そういう所が、好き。
「この先もう二度と笑ってくれないつもりなのか? きみのいない世界で、私にどう生きろというんだ?」
 血を吐くような、怨嗟にも近い恨み節に心の中で笑う。私も、私だってずっと愛していた。初恋だった。くしゃくしゃになった彼の泣き顔が朧になって、視界が黒く狭くなっていく。
「どらるく」
「なに、いい? なってくれるの? 噛んでいい?」
「フ、や、だめ――ね、来世」
「え……?」
「私の来世、見つけて」
 来世の私が今の記憶を持っているかなんて知らない。多分、持っていないだろう。なんとなくだけど、そう思う。
「人間の私を、また好きになって」
 その私もきっとまた、あなたを好きになるから。
 生まれ変わるなんて確証はない。もしかしたらこんな罪深い私に、来世なんてないかもしれない。
「――またね、ドラルク」
 しかしそうと分かっていて、私は最愛の彼に無責任な呪いをかけた。彼には生きていてほしかった。たとえその隣に、私がいないとしても。
「だいすき」
 ひどい嘘で騙したばかりの舌で、最後に本当の言葉を口にする。これだけは、未来がどうなろうとほんとうだから。
 そう、これだけは本当なの。私、命なんて捨ててもいいと思うくらい、あなたを愛していたの。
「……うん、必ず――絶対、また。愛しいきみよ」
 ……ああでも、我儘を言うなら――もし本当に生まれ変われるのならば。来世の私は、今の私よりきれいな人間だといい。ドラルクの隣に並んでも遜色ないくらい清廉で潔白な、そんな人間。そうでなきゃ、認めてあげられないだろうから。
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