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突き出た枝に服が引っ掛かり破けるのも気にせずに、夜の森をひた走る。
風呂上がりの石鹸の匂いに混じり、土や草の泥臭い匂いがした。長く量の多い髪はまだ乾き切っていなくて、風が吹くごとに悪寒が襲ってくる。息を吸うと血の味がして、吐けばすぐに喉が引き付けを起こしたように痙攣した。心臓がはち切れんばかりに膨らんでいて、押し潰された肺が痛い。それでも走って走って走り続け――やがて視界の先で捉えたぽつねんと佇む吸血鬼の姿に、足を止める。ガクガクと膝が笑っていて、立っているのもやっとだった。過呼吸が気持ち悪くて、泥も気にせずこの場に蹲まってしまいたかった。
数度深呼吸をしてなんとか息を整え、髪を片側に寄せる。天然のドライヤーのせいで乾いてはいたけれど、みっともなく膨らんでいた。ネグリジェの裾を無意味にはたいたところで、自分の行動がふとおかしくなる。こんなにボロボロになってしまった今、こんなことをしてなんの意味があるのか。
「ドラルク!」
「ああ、随分遅かったじゃ――」
呼びかけつつ駆け寄って、振り向いた彼の胸に飛び込んだ。私の奇行に、彼は息を飲んで言葉を止める。反射か、抱き締め返すように腕が上がったけれど、まだ触れるのを戸惑っている気配を感じた。
「ドラルク、お願いがあるの」
「……なんだ?」
「私、あなたに――」
そう言いながら、ほっそりした首に腕を回し、彼の顔を寄せ――。
「うわあアアアア?!」
意識が一気に引き摺り上げられた衝撃で跳ね起き、荒い呼吸で戦々恐々と首を回す。なんてことはない、森でもドラルクさんの腕の中でもなく、いつも通りな自分のベッドの上だった。穏やかとはいえない覚醒のせいか、心臓がバクバクと轟音を立てている。
今のは夢――というか前世の記憶だろうか。そう思いたくはないけど、あまりにリアルだった。さっきまで本当に鬱蒼とした森の中を走っていたような気さえする。足の裏で踏み付けた小枝や枯葉の感触や、シャトルラン四十周目くらいの疲れが、まだ鮮明に全身へこびり付いていた。
もしかして今までも記憶にないだけで、私はこうして前世を覗いていたのだろうか。そう考えれば寝起きの極度な疲労感にも納得がいく。しかしそれならずっと記憶になくてよかったんだが。最近やっと彼が私を見てくれだした(気がする)というのに、とんでもねえ悪夢だ。なに見せてくれてんだあの女。油断ならない。いや、それにしても。
「ドラルクさん、全然変わってなかったなあ」
あの女は彼を見つけてすぐに抱き着きやがったので、そこまではっきり見れたわけではない。でも頬の痩け具合だってほとんど変化がないように思えた。今日確認しよう。溢れ返った花々に水を遣りながらぼんやり考える。護衛が始まってからもう一週間が経っていた。
◆
「吸血鬼じゃないと思うんだよねえ」
花束がない日は、デートの日だ。でも今日はあるので普通に帰る日。菫のブーケを片手に「そうなんですか?」と聞き返す。ブーケくらいなら、小さいので素直に喜べる。一度よくネタ切れにならないなと呆れと感心半々で呟いたところ、「きみに贈りたい花はまだまだたくさんあるよ」と言われて自爆した。
「うん、なんとなくだが」
隣を歩くドラルクさんは思慮深げにそう言った。
「高等吸血鬼の勘ですか」
「まあそんなとこ」
たしかに、吸対と退治人達がこんなに長く張っていて成果ゼロというのも妙だ。ドラルクさんの目が憂慮を帯びて伏せられる。
「ロナルド君も最近はもうずっとピリピリしててさぁ。同じ空気吸ってるだけで死にそうなくらい窮屈なんだよね、事務所」
正体は煙ほども掴めぬ一方で、被害者は着実に増えていた。正義感と責任感の強いロナルドさんだから、きっとかなり神経を張り詰めてしまっているのだろう。
「ていうか思ったんですけど、こうしてデートみたいな恋人紛いのことしてたら尚更危ないのでは」
「……たしかに。でもこんな物騒な街の夜を一人で歩かせるのは不安すぎて多分冗談じゃなく毎秒死ぬので……いやでも、被害女性の中に吸血鬼はいないし、やっぱり吸血鬼になるのが最善――」
「いやです」
「せめて最後まで言わせて?!」
ドラルクさんのことは好きだけど、吸血鬼になるつもりはない。絶対にそこだけは絆されないぞという、自分でも不思議になるほどの固い決意があった。菫の花弁を見つめながら「だって」と呟く。
「吸血鬼になったら、こんなことしてくれないでしょう」
「こんなこと?」
「だから……こう――護衛を理由に、一緒に帰ってくれたり、とか……」
それきり、街の雑踏しか聞こえなくなってしまった。普段ペラペラ喋るくせに、どうしてこういう時は黙るんだ、この吸血鬼は。無言の時間が続いて気まずくなり、堪らず瞳だけで彼を見て、すぐに見なきゃよかったと後悔した。最近知ったことだけど、顔の赤みは――羞恥心は伝染する。まじで。視線に気付いた彼は、すぐさま襟を立て、首を竦めて赤い顔をすっぽり隠してしまった。ずるい。
「……別に、このくらい全然幾らでもいたしますけどね」
「……そうですか」
上擦った「うん」という声へ、熱に浮かされたまま「はい」と返してしまい俯く。いまの、完全に会話になっていなかった。なんに対するはいなんだ。きっとドラルクさんもそう思っただろうに、特に突っ込まれることはなくて、再びなんとも言えない沈黙が流れる。
ドラルクさん程はさすがに無理だが、私もちょっと素直になってみることにした。が、こんな空気にばっかりなるので、前の方が気侭で過ごしよかったなあと思うこの頃だ。……この空気も、まあ、いやというわけではないけれど。いたたまれなさは凄まじいが、なぜか同じだけの心地よさも感じていた。
「……じゃ、じゃあ、今日もありがとうございました」
「いいえ。……にしても、本当に菫が似合うねえ、はな君は」
自宅の扉の前での別れの挨拶も、すっかり習慣になった。ドラルクさんは菫のブーケを持つ私に心底感心したというように呟いた。どうもドラルクさんは私と紫色の組み合わせがいたくお気に入りらしい。どうしよう、これからは紫で身の回りを固めようかな。
「ブーゲンビリア、本当に好きじゃないの?」
唐突に投げかけられた脈絡のない問いに瞬きをする。なぜいきなり、と当惑する私に、ドラルクさんは目を少し泳がせ、やがて私を真っ直ぐ見据えた。
「だって、いつも嬉しそうにしてくれるけどさ。あの時のはな君、いつもよりずっと嬉しそうだったよ。……とても嫌いには見えなかった」
自分ではそんな大袈裟に表情を変えたつもりはなかったので、意外な言葉に瞠目する。
「そのくらい分かるよ。もう何回花束を贈ったと思ってるんだ」
したり顔をされてもよく分からない。そんなものなのかと曖昧に返事をしながら、例の花を思い浮かべる。
ブーゲンビリア。昔から大好きな花。特に赤が好きだった。ドラルクさんが赤い目をしていると知ってからは、もっと好きになった。なんとなく赤が好きだなと軽く思っていた過去の自分を、手放しで褒めてあげたくなるほどに。
「ねえ、おしえて」
赦しを乞うみたいな音の震えに全てを曝け出したくなる。でも、本当にいいのだろうか。好きと言ってしまったら、また重ねられてしまうんじゃないだろうか。せっかく私をちゃんと見てくれるようになったのに。
「大丈夫だよ」
見透かす言葉に、情けない不安を声に出してしまったのかと思った。
「大丈夫だから」
なにが大丈夫なんだろう。なにも知らないくせに。それでも、鷹揚な海のように深い声音は、神経にじわりと沈み溶けていく。張り詰めていた緊張がふやけて、どうしてか泣きたくなるような気持ちになった。
「すきです」
なんとか紡ぎだした言の葉がはらりと落ちる。ドラルクさんの眼が、やさしく細められた。
「すきです。本当は、一番好きなんです」
「……そっか。なら、どうしてあんなことを?」
当然の質問だと分かっていても返答に困り、声が詰まった。前世の自分に嫉妬して、なんて、彼からしたらきっととんでもなくバカバカしい理由だろう。そんな下らない理由かと一蹴されるのが怖くて唇を噛み締める。下らないのは分かってる、でも私にとっては、どうしようもなく悔しくて悲しくて寂しくて。でもこんなの、伝わるわけが――分かってもらえるはずがない――そうだ、うそを――だめだ、なにも思い付かない。
「……まあ、大方の検討はついてるんだけどね」
「えっ」
思いがけない声に思考が止まる。ドラルクさんは苦々しく口元を歪めて笑っていた。長い眉が八の字になっている。
「狡いよね、私。哀しませておいて、ほんとにごめんね――でも、はな君の口から聞かせてほしくて」
おねがい、と指先をちょんと握られ、控えめに引かれる。ついこの前の振り解けない程の力がうそみたいだ。拒絶を恐れているような弱々しい熱に、心臓をきゅうっと掴まれたような心地になる。こんな、こんな大きな手の男の人が、私のような存在に縋るみたいな。なんだろう、この感覚。拒まないよと伝えて抱き締めたくなる、そんな感情の渦に突然襲われ、ひどく困惑した。自分の感情に戸惑いながら、震える口を開く。
「私は――」
二人だけだった静かな夜闇を、無機質な携帯のコール音が切り裂く。指先に砂塵を感じたと思えば、私の手だけが虚しく宙に取り残されていた。砂山の頂点に座する携帯が光って――『御祖父様』とある――発信を報せて震えている。
「…………ごめん」
「……いえ、どうぞ」
夢見心地だったのが一気に現実に引き戻された気分だ。訪れた物寂しさを隠すように指先を内側に畳み、爪が食い込むほど握る締める。
ドラルクさんはのろのろと携帯を耳に当てた。私もちょうど来ていた知人への連絡を返そうと携帯を取り出し、彼らの話を耳にいれないように注意する。下半身を砂にしたまま手短になにごとかを話したあと、電話を切ったドラルクさんは、完全に人型に戻ってスッと立ち上がった。
「あの……ごめん、ちょっと私、今すぐ御祖父様に会わなきゃいけなくて……」
「そうですか。よろしくお伝えください」
「いやそんなことしたらほんとに会いに来るからあの人」
青い顔になったドラルクさんに、何か悪いことがあるのだろうかと首を傾げる。……私が会うことでなにか――。
「別にきみに会わせたいとかじゃないけどね! ただほんとめちゃくちゃな人なので! 軽率に会うと疲れちゃうよだってホラ明日も仕事でしょ?」
「……そうですね」
肩を掴んで、なにやら必死の形相で言い含められる。純粋な配慮だったみたいだ。たしかに、こちらももてなす用意なんてないから迂闊な発言だった。そう納得する私を横目に、ドラルクさんは安心したように息を吐いていた。
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