今日こそは。
「ロナルドさん!」
「はい⁈」
そんな決意と覚悟で、目の前に座る彼、ロナルドさんの名前を呼ぶ。気合を入れすぎて、不必要に大きい声になってしまった。驚いたのか背筋をピンと伸ばし緊張した彼に罪悪感を抱きながらも、ぎゅっと目に力を込める。
「ろ、ロナルドさん」
「はい……?」
「わ、わた、わたし――あの、えっと……す……す……」
「す……?」
こてんと顔を傾けて続きを促され、ますます息が詰まる。いや詰めてる場合かさっさと言え。ロナルドさんだってほら、困ってる。今日、今日こそ、今日こそ、は――……。
「ッ、ス、す……き……っ屋に行ったんですけどこの前!」
「数寄屋⁈ 茶の湯を行うあの⁈」
「そ、そうです。お茶、お抹茶を点ててまいりましたの」
「そ、それは結構なことですわね……?」
俺やったことないです、とぎこちなく笑うロナルドさん。……の横で、呆れ果てた顔の吸血鬼とアルマジロ。似た者主従からの視線が気まずくてつい顔を背ける。う、うそじゃない。先日茶の湯体験コースに参加したのは事実だ。
「楽しかったですよ。伝統的な日本文化の侘び寂びに触れることができたので……ロナルドさんも今度いかがですか?」
「へえ……じゃあ是非。あなたさえよければご一緒させていただきたいです!」
「おやおやおやおや御二方! それはつまりデートということですかな? ン?」
「デッデデデデデデデェッ⁈ バッカ雑魚クソ違うわボケ純粋なご厚意とロナ戦の取材じゃダボカス!」
「茶の湯のどこにロナ戦要素見い出してんだ」
ドラルクさんの至極冷静なツッコミにほんとにそうと内心で頷く。デートでいいじゃないですかもう。むしろデートじゃダメですか。そう言いたかったが、今日の(今日も)私は敗北者のため、彼らのぎゃいぎゃいとしたやり取りに口を挟むことはできなかった。
……仮に挟めたとしても、こんな大それたことは言えない気はするが。
◆
「――じゃあ詳細はまた後日連絡しますね。お邪魔しました」
「あ、はい。……あー……」
立ち上がった私に、ロナルドさんは何か言いたげに煮え切らない態度で唸ってから、「あの!」とやけに力んだ声を上げた。
「やっぱ送ります、というかむしろ送らせてほしいです。……だめですか?」
「え? いやほんとに大丈夫ですって。すぐそこですし。結構です」
「あっそうですか……」
だめというか、今日は別に休業日でもないのだから、送ってる場合ではないだろう。この事務所から我が家は徒歩十五分もない。売れっ子退治人の時間をこれ以上無意味に独占するわけにもいないし。ていうかロナルドさん毎回申し出てくれるなあ。毎回断ってるのに。律義。やさしいな、好き。そんな温かい気持ちで、はっきりと、いつも通りお断りする。なぜかひどく落ち込んだロナルドさんの背後で、ドラルクさんがまた先程のように呆れた顔で、「きみも大概だな」と訳の分からないことを呟いていた。
「それじゃあおやすみなさい。お仕事、お気を付けて」
「はい、ありがとうございます……」
「きみも帰り道気を付けたまえよ」
最後まで凹んだ様子だったロナルドさんを怪訝に思いながら、事務所の扉を閉める。薄暗い廊下をトボトボと歩きながら肩を落とした。今日もだめだった。『好き』の二文字を口にできず誤魔化して、いったい何回目になるだろう。もう『すき』から始まる言葉のレパートリーが底を尽きそうだ。本当、私というやつは。なんて意気地なしなのか。はあ、と溜息を吐く。
「せめて恋人ができる前に告白だけでもしておきた――」
「あのこれ、忘れ物――」
「えっ⁈」
突然かけられたロナルドさんの声に心臓が撥ねた。たたらを踏みながら、慌てて振り返る。やだ、今の独り言聞かれてないよね? そんな大きな声でもなかったし、多分――。
「――え?」
すぐ後ろの床を踏むはずだった踵がガクンと落ち、身体が勢いよく背後へと傾く。間の抜けた自分の声が、誰か別の人間が言っているかのように、どこか遠くから聞こえた。
ロナルドさんが走ってくる。黒い手袋に包まれた手が伸びてきた。それを掴もうと私も手を伸ばし――掴み切れず、指先を掠めることすらなく空を切る。瞬間、どうしてか、もうだめだと直感してしまった。
ああ、これは死ぬ。死んだな、私。
見開かれた、澄んだ真冬の早天のような蒼穹と、視界の端で撒き上がった髪の毛。叫ばれた名前。届くことのなかった自身の手が、重力に従ってゆっくりと降ろされていく。全身に纏わりつく、不快さを伴った浮遊感。内臓がふわりと浮き上がるのを、いやに鮮明に感じていた。全く鍛えてない私がこんな高さから落ちたら、きっと無理。ドラルクさんじゃないんだから、死んだって生き返れないし。
こんなことなら、ちゃんと言っておくんだったなあ。
人生はトライアンドエラーである。しかしあまりにもエラーが多すぎたせいで、神様も飽きてしまったのだろう。これは何度もトライさせてもらったくせに、結局なんにもできなかった私への天罰に違いない。あーあ。少しの後悔を胸に、来る衝撃に備えて目を瞑る。
……ああでも、最後に見るのが好きな人の顔なら、それは悪くないどころか、もしかしたら最高の終わりかもしれない。
自分でも不思議なほどすんなり死を受け入れられている理由が腑に落ちて、こんな時なのに少し頬が緩んでしまった。
◇
死を受け入れたといっても、痛いのは普通にいやだ。だから全身の筋肉に力を込めていたはず――なのだが、一向に痛みがこない。されど落下の浮遊感は続いたまま、どころか、肌を突き刺す空気の冷たさは増しているし、耳の横ではヒューッという風の音がするくらいで。落ちたら死んでもおかしくないほどの高さといえど、さすがに長すぎないか? 恐る恐る目を開け、
「は?」
視界に飛び込んできた夜空に唖然とする。
わあ、きれいなおほしさま。え、ビルの天井……あれ、吹き飛んだのかな? 音もなく? いやンなわけ。な、なんでいきなり外にいるわけ、私。意味の分からなさに喉が引き攣り、瞳が潤む。さっきまでの余裕がうそのようだ。いやだって、だってちがうじゃん。事務所の階段から落ちて死ぬのと、いきなり空に放り出されて死ぬのって、全然話が違うじゃん! こんなのぜったいおかしいよ!
妙に達観してカッコつけてしまった罰なのだろうか。神様、私のこと嫌いすぎでしょ。どんだけだよ。許してくれよそのくらい。絶望している合間にも、星空はどんどん遠ざかっていく。見ていられなくて、再び固く瞼を閉ざして胎児のようにぎゅっと身を丸めた――その時だった。背中、ではなく、身体の左側にドンと振動が走った。スパイスが混じったような焦げ臭い香りが鼻孔を擽る。咄嗟に身を捩るが、背中や膝裏をがっしり拘束されていて、うまく動かすことができなかった。困惑しながら目を開けると、胸元で祈るように握り締められた自身の両手が映った。次いで左側に、大きく肌蹴たシャツから覗く逞しい胸筋。筋に沿って視線をゆっくりと上へと這わせる。金の十字架の留め具に、大きく立った紫色の襟。跳ねた銀の襟足、結ばれた厚い唇から僅かに飛び出す鋭利な牙。そして、尖った耳先に、どこまでも深い真夏の海のような紺碧。
「え……?」
見覚えのありすぎるその面立ちに零れた声は、吹き曝す風が攫っていく。呆然と硬直している合間に、私を抱えた彼は軽やかに地上へと着地した。別にそう長いこと浮いていたわけでもないけれど、色んな情報をいっぺんに頭へぶち込まれたせいか、なんだか何年振りかに地面へと足がついたような心地だった。うまく立てずにふらついた私の肩を、ロナルドさんそっくりの彼が支えてくれる。走った痛みにそちらを見遣ると、鋭く赤い爪が食い込んでいた。
「っと……おいアンタ、大丈夫かよ? なんで落ちてたのかは知らねえけど――」
「ろ、ロナルド、さん?」
「へ」
声までそっくりだった。もう我慢ならなくて、彼の言葉を遮って、震え声で問いかける。否定してほしいような、肯定してほしいような、自分でも何とも言えない気持ちだ。どちらかといえば肯定してほしい気持ちが強い気もするが、いやでもこれ、この姿、完全に――。
彼がぽかんと口を開くと、肉を食い破るのには最適そうな鋭い犬歯がよりはっきりと見えた。青い瞳がぱちぱちと数度瞬たく。やがて眉が険しくひそめられ、眉間に皺が寄った。
「……なんで俺の名前知ってんの?」
窺うような調子だった声が、がらりと色を変え、そして警戒を含ませて低くなった。あからさまな敵意を込めて睨まれる。意図せず頬が引き攣って――きっとそれが、彼にはへらへらと笑って馬鹿にしているように見えたのだろう。向けられる圧が強くなった。
「アンタ、何者だよ」
じゃり、と彼が足を擦る。美人の静かな怒り顔は怖かった。普段と違い前髪が上がっているせいで、綺麗な両眼がはっきり見えているためなおのこと迫力がある。それでも私は笑みを――というか顔の強張りを解くことができなかった。
だっていきなり空に放り出されたかと思えば、見知らぬ森に、まるで吸血鬼のような姿をした、私を知らない想い人。こんなの、冷静になれというほうが無茶だ。私のちっぽけの脳みそでは処理しきれない。完全に理解の範疇を超えていた。キャパオーバーもいいところ。エラーエラーエラー。
途方に暮れて天を仰ぐ。雲居の隙間から、煌々とした満月が顔を見せていた。