小脇に抱えられている。ハンドバックのように。
鬱蒼と並ぶ木々のどれもこれもが残像で、灰色にぼやけて見える。腹部の圧迫感につい抱える腕へと手を伸ばすと「じっとしてろ」という言葉とともに力が強まった。別に逃げようとしたわけじゃないんだけどなあ。しかし弁明しようにも、迂闊に口を開けば舌を噛んでしまいそうなスピードだった。あと普通に吐きそう。
あの後、飛びかかってきたロナルドさん(仮)に為す術もなくあっさり拘束された私は、森の奥深くへと運ばれていた。紳士というか奥手というか、身も蓋もない言い方をしてしまうと女慣れていないあのロナルドさんが、女である私の腹を緊急事態でもないのに何の躊躇もなく触れている。うーん。やっぱり別人なんじゃないだろうか。別吸血鬼。
立派なお城の前で、ロナルドさんはやっと足を止める。見上げるほどに巨大な扉を片手で押し開けたロナルドさんは、広い玄関口から「マスター!」と声を張った。
「いないのか? 怪しいやつが――」
「ロナルド、どうしたんだ、その子」
「サテツ! ちょうどよかったぜ! 見てくれよこいつ。怪しいんだ!」
振り返りで一ブオン、猫のように両脇を抱えて高く持ち上げられ二ブオン。風を切る勢いのそれに思わずうぷと嘔吐く。さっきから感じていたけど、およそ生き物に対する扱いではない。こちとらただでさえロナルド特急のせいで三半規管をめちゃくちゃにされているのに。もう少しでいいから丁寧に扱ってほしい。逃げないってことは何度も伝えてるはずなのに……。
暗い室内に慣れてきた目が、目の前に立ちはだかるサテツと呼ばれた男性を捉える。退治人さんたちとは、ロナルドさん経由で数度お会いしたことがある。目の前の彼も、そしてなんだなんだとわらわら集まってきた顔ぶれも、耳の形状や格好に多少の差異はあれどやはりそっくりだった。完全に見世物状態……というか、いつの間にか大量の吸血鬼に取り囲まれている。これ、結構ヤバいのでは。「ロナルド」ショットさんと思しき吸血鬼が、神妙にロナルドさんを呼んだ。
「おう」
「誘拐はよくない」
「はあ⁈」
「イエスロリショタ・ノータッチ、だ」
謎の呪文を唱えたショットさんが、素早くこちらへと手を伸ばしてきた。「は⁈ なにすんだよ!」慌てふためいたロナルドさんによって、ブオン(三回目)と後方へと遠ざけられる。脳が揺れ、頭が痛い。
「誘拐じゃねーって! こいつ、怪しくて、だって空から、名前とか――」
「空? というかそんなふうに乱暴したら可哀想だよ」
「お前にロリはまだ早い。いいからほら、ショットさんに渡しなさい、ロナルド」
「な、な……ッノータッチなんだろ⁈ じゃあお前もダメだろ!」
「じゃあ俺かターちゃんが回収するか」
「え、いや、い、いや、いやいやいや! おれ、俺が見つけたんだぞ!」
ロリってまさか私のこと? いやまさか――え、まさかね? あれ、でももし彼らが本当に吸血鬼ならそうなるのか……? もはや数えられないほどブオンブオンと振り回されながら考える。よく分からないが、聞くところによると、彼らはロリの私の所有権争い? をしているらしい。私の意思……。
「……ウッ、」
一際強いブオンに、堪らず両手で口を抑える。ずっとされるがままだった私がいきなり動いたことで驚いたのか、ロナルドさんがハッとこちらを見上げた。ギリギリ締めてくる大きな手に、そっと触れる。改めて触れた素肌は氷のように冷たく、彼がヒトではないことをたしかに伝えてきていた。
「逃げないから、振り回さないでください。吐いてしまうので」
「……お、おお。ごめん……」
訴えを聞いたロナルドさんは、私のことをゆっくり床へと降ろす。初めてまともに意思疎通がとれたかもしれない。吸血鬼に囲まれてピンチなのは変わらないのだが、それでもなんだか嬉しかった。
「どうしたんですか」
不意にホールの奥から、ゆったりとした年配の男性の声が響いた。コツ、と靴音が鳴る。
「あ、マスター」
誰かがそう呟いたと同時に、風が吹いた。大きな影が覆い被さる。
「――ほう?」
――マスター。退治人組合、バー・新横浜ハイボールの店長である、マスター、名を確か、ゴウセツさん。お会いしたのは一度きりだ。その時はやさしく伏せられていた瞳が、今やしっかりと見開かれている。品定めするかのように、私を高い位置から射抜いていた。目が合っている。たったそれだけなのに、呼吸するのも憚られるような凄まじいプレッシャーを感じた。血の気が引いて、立っている感覚すら判然としなくなってくる。
「ロナルドさん、この方は?」
「ぁ……えと、お、落ちてきた、さっき――空から……で、拾った」
「空から。なぜここに?」
「……俺の名前知ってて、怪しいやつ、って思った、から……」
「名前を」
向けられた眼差しに身を竦める。喉奥が痙攣して、ヒ、と情けない声が上がった。「あっでも!」ロナルドさんが私の前に躍り出る。視線が遮られ、少しだけ緊張が和らいだ。
「あの、でも、すごい弱そうだし、ていうか弱いし、普通のニンゲンみてーだし、別に怪しくないかも――」
「お嬢さん」
ロナルドさんという壁が簡単に押し退けられ、再度マスターさんと対面する形になる。「なん、でしょう」なんとか絞り出した声は蚊が鳴いているみたいに情けないものだった。そんな私に、彼は息を吐くように柔らかく微笑んだ。
「落ち着いて。怖がらせたいわけじゃないのです。ただ、いくつか質問が。あなたはロナルドさんのことを知っているのですか?」
「は、はい」
「では私や、他の皆さんのことも?」
「はい」
こくこくと正直に頷く。どういうことかとざわつく周りを無視して、マスターさんは満足げに髭を撫でた。私は私で、回答が彼の意に沿うものだったらしいと分かって胸を撫で下ろす。マスターさんはパンと手を叩いて場を鎮めた。
「ロナルドさん、ひいては皆さん。彼女は恐らく異世界からのお客様です。丁重におもてなしするように!」
「――はああぁっ⁈」
許されるなら、私もみんなと一緒に叫びたかった。
◇
「吸血鬼平行世界トリップゥ?」
「そうです」
「平行世界トリップってなに?」
「自分がいた世界と似た、しかし確実に別の世界へ飛んでしまう現象を指すらしいですよ」
ほんとう、吸血鬼ってなんでもありなんだなあ。
ふかふかのソファに座り、用意していただいたイチゴミルクをストローで飲みながら、呆れとも感嘆ともいえる感想が頭に浮かぶ。背後で私をぬいぐるみのように抱き締め、頭を撫でていたマリアさんが、「聞いたことねえぞ、そんな能力の奴」と胡乱げにボヤいた。
「その吸血鬼がこの付近に入り能力を発動させたという情報を得たのは、本当につい先刻です。私も半信半疑でしたが……」
言葉を区切ったマスターと、イチゴミルクをちょうど口にたっぷり含んだタイミングで目が合い、びくりと固まる。「おいしいですか?」とにっこり尋ねられたので、返事をしなきゃと急いで呑み込んだら気管に入って噎せてしまった。ゲホゲホする私の周りを、見たことのあるような顔立ちの、まんじゅうみたいなマスターの使い魔さんが『大丈夫?』と言わんばかりにくるくる漂う。
「ふふ、ゆっくりどうぞ。そう慌てずとも、誰もとらないですよ。……彼女が落ちてきたというタイミングも聞くところぴったりですし、能力は本当なのでしょう、きっと。それにロナルドさんも察知していましたが、彼女はこの世界に棲まう人間とはどこか違う匂いをしている」
匂い。別に悪いことをしているわけでもないのに、なんとなくギクリとしてしまう。頭上から「あー、なんとなく分かるかも」というマリアさんの声がした。便乗するように、ターちゃんが「そうか?」と顔を寄せてくる。
「ん……わからないね、私は」
「や、やめ、今日お風呂まだ入ってないので……! あんまり嗅がないでください」
「別に気にしねーよ」
「そうある。ニンゲンなんてみんなこんな匂いね」
ターちゃんは私の前髪を撫でつけてそうふんわり微笑んだが、それ、いまいちフォローになってないと思う。むしろなんか、猫吸い的な愛玩動物扱いをされている気がしてならなかった。複雑な心境を甘いイチゴミルクと一緒に飲み込む。
敵――ではないのかもしれないけど、それでも正直、まだ得体の知れない彼らへ真っ向から反論やらをする勇気は起きなかった。いのちだいじに。心を無にしてイチゴミルクの吸飲に専念していれば、不意に両脇に手が差し込まれ、身体がひょいと高く浮く。コップを持つ手に力を入れながら首を回すと、仏頂面のロナルドさんがまた私を抱え込んでいた。
「おい、なにすんだよロナルド。こっち戻せよ」
「私まだ撫で足りない。独占だめね」
「もう十分だろ。こいつ、いやがってる」
「は? いやじゃねーよな?」
「え、あ……」
本心を言っていいなら、ちょっといやだ。彼女らのそれは、乱暴ではないにしろ、文字通りの猫可愛がり方だったから。でもぶっちゃけていいものか判断に迷い、どうしようかと言葉を探す。脇の手がお腹へと移動してぎゅっと力が込められた。潰れたカエルのような声をあげる私の顔を、ロナルドさんがずいっと覗き込んでくる。落ちてきた銀の髪が暖簾のように顔を覆ってきて、毛先が頬やら鼻に当たってこしょばゆい。
「いやだよな?」
「いや、んん、えっと――」
「な?」
「はい」
「ほら。聞いたろ?」
「言わせてんじゃねーか!」
「言わせてねえよ」
言わされた感は、まあ正直否めないが。けれど若干もにょりを感じていたのも事実なので、笑って誤魔化すことにした。日本人の処世術である。一連のやり取りをずっと見ていたマスターさんが「ふむ」と小さく呟いた。
「ロナルドさん、最近ヒマリさんが独り立ちして寂しいんでしたっけ」
「へ? まあ……でも俺もいい歳だし、別に言うほどじゃ――」
「ならちょうどいい! 件の吸血鬼を捕獲するまで、彼女を引き取ってあげてください」
再度城内に木霊した一同の「はあああ⁈」に、今度こそ混ぜてもらいたかった。のだが、今度は呆気にとられすぎて声を出すことができなかった。