ロナルドくんが撃たれて、一日が経った。
「……残念ですが」
あの後、駆けつけてからほぼ付きっ切りで看病をしていたマスターさんが、重々しく頭を振る。
「あなたはもう、帰らなければ」
「でも……」
一度も目を覚ましていないと聞いている。こんな状態で彼を置いて帰るなんて。食い下がる私に、マスターは穏やかに微笑んだ。
「ロナルドさんなら大丈夫です。もともと銀の効かない特異な体質の方でしたから。……ただ心臓に当たったので、修復にやや時間がかかっているだけですよ」
「そう、ですか……」
「ええ。いくら効かないとはいえ、心臓ですからね……ですが時間さえあれば元通りです」
含みある視線に唇を噛み締める。あなたに時間はないと、遠回しに言われているような気がした。
「……分かりました」
支度があるから城へは追って向かうと言い、マスターさんを門まで見送り、夜特有の刺すような冷たさのなか、吐いた息の先を辿って視線を天へと伸ばす。
濃紺の夜には、一か月前と同じような美しい満月が浮かんでいた。
三階の、一番西の部屋。扉を開け、思わず瞠目した。家具が一つもない。部屋の真ん中に、大きな棺桶があるだけの、殺風景な部屋だった。埃っぽい空気に顔を顰める。空気を入れ替えるためにカーテンを軽く開いて窓を開けた。冷たい夜風が、重たいカーテンを弱々しくはためかせる。
「ロナルドくん」
棺桶の傍にしゃがんで声をかける。返事はない。寝ているのだろう。
「私もう帰るね」
構わず話しかけながら、棺桶を背もたれに、膝を抱えて座る。
吸血鬼平行世界トリップさんの力は、満月の夜にのみ発動させることができるらしい。今夜は満月。だからもう、行かねばならない。月が沈む前に、朝が来る前に。私は元の世界に帰らなければ。
「冷蔵庫にオムレツがあるから、起きたらチンしてね。あ、そうだ、ミルクティーのレシピも書いておいたから、よければ作ってみて。茶葉を開かせる工程、絶対省いちゃだめだからね。横着しないで作るんだよ」
話しながら、これこそ手紙にするべきだったかなと一瞬思う。けれど、やっぱりこれでいいかとすぐに考え直した。言いたいことはまだまだあったし、紙に書いていたらキリがない。それに、別の世界の人間である私が、これ以上形あるものを残してはいけないような気がした。
「最後は喧嘩みたいになっちゃったけど、一か月、楽しかった。……告白の練習、付き合ってくれてありがとう」
最初は無茶苦茶言うなと思ったけど。提案してきたときの無邪気な笑顔を思い出して笑う。
「……すき」
まさか料理を一緒にしてくれるようになるとは思わなかった。あまつさえ、一緒に食べてくれるなんて。だってほら、ドラルクさんが人間の食べ物を口にしてるところは見たことないから。だからびっくりはしたけど、反応が素直な彼と食卓を囲むのは楽しくて、嬉しかった。
「好きです」
私よりうんと年上なはずのに、子どもっぽくて、真っ直ぐで、やさしくて。ロナルドさんにそっくりだけど、ロナルドさんでは絶対にない。そんなあなたと一ヶ月を共にできて幸せだったと、本当に思っている。
「――だいすき、ロナルド」
だから『死にたい』なんてもう言わないで。
ズ、と背後で重たいものが擦れる音がした。顧みれば、ぴっちり閉まっていた蓋が外されている。ゆっくり起き上がったロナルドくんは、立てた片膝に腕を乗せ、じっと足元を見つめていた。銀の髪が流れ、額を半分隠す。
「今のどっち?」
病み上がりだからか、その肌はいつも以上に青白く、月に照らされると怖くなるほど無機質になり、陶器のように見えた。月光を吸い込んだ深い青が、瞬いてきらめく。
「俺? それとも、『俺』?」
「……そんなの、決まってるでしょ」
わざわざ答えるまでもないと顔を逸らし、「それより具合は?」と話題を変える。ロナルドくんはしばらくじっとり睨んでいたが、あきらめたように溜息を吐いた。
「へーき。銀効かないって言ったろ」
「でも撃たれたらたいていの人は危ないよ」
「人≠ネらな」
「……死ねなくて残念だったなって思ってる?」
ロナルドくんは大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。その虚を突かれたというような表情に私もきょとんとしてしまう、てっきり間を置かず肯定が返ってくるだろうと思っていたのに。ロナルドくんは少し思案してから、困ったように笑った。
「ちゃんと守れてよかったなって思ってた」
私が何か言うよりも早く伸びてきた手が後頭部に回り、彼の肩口へ顔を押し付けられた。消毒薬の匂いに混じって、ロナルドくんの匂いがする。条件反射で鎖骨辺りに手を置けば、動きを制するように力が強くなった。
「あんま動かれると傷がいたむ」
そんなこと言われたら動けない。渋々手を下ろして無抵抗を示すと、頭上から満足そうな「ヨシ」が聞こえた。骨張った手が後頭部をゆるゆると往復する。
「俺さあ。アンタが元の世界になんて帰れなきゃいいと思ってたんだよな。だから誰よりも先に吸血鬼を見つけて、で、そいつをどっか遠くに捨ててやるつもりだった」
「……なにそれ」
すごくひどいことを言われている。それでも負の感情が生まれてこないのは、彼があんまりにもあっけらかんとしていたせいだろう。なんなら私もちょっと笑ってしまった。
「もしかして最近いなかったの、そのせい?」
「まあな。結局マスターに先越されちまったけど。今からでもやってやろうかな」
冗談だと分かっていたので笑ったけれど、「本気だぞ」と脅すように声を低められた。しかしらしくなさすぎて、尚更おかしかった。
「……でもま、無理だな。正直、まだ歩くのもきついし」
頭を撫でていた手が止まったので、そっと顔を上げる。思っていたよりもずっと近い距離にあった彼の顔に緊張して、一瞬だけ体に力が入った。宥めるように後ろ髪を梳かされ、じんわりと脱力する。
お互い何も言わないまま、自然と顔が近付いた。鼻先が触れ合ったのがなにかの合図かのように、同時に止まる。長い睫毛が瞳に影を落としているのがよく見えた。
「……なあ。キスしてもいい?」
おずおずと囁かれたことで、熱に浮かされていた意識が現実へと引き戻される。律義だ、本当に。夢から醒めた心地で微笑めば、欲と期待でゆらめいていた青に落胆が射し込んだ。
「だめ」
「……ケチ!」
ケチじゃない。だって、いいかと聞かれたから。
わざとらしくむくれるロナルドくんに、私も大袈裟にけらけらと笑う。よいしょと立ち上がって、窓辺に向かい、カーテンを閉めて先程より低い位置にある満月を隠す。唯一の光源が断たれた暗い部屋の中で、こちらを穿つ青い目だけが、奇妙な光を帯びて浮かびあがっていた。
「さようなら、ロナルドくん」
◆
浮遊感。そして、落下。視界に移る事務所のビルの天井。
あ、ここからなんだ。これから大怪我をするというのに、妙に落ち着いていた。あの時と同じように、来る衝撃に備えて目を瞑る。
けれど次の瞬間、腕を強く引っ張られ、熱いくらいのぬくもりが私を包んだ。弾かれたように目を開けるも、視界は暗い。頭ごと抱え込まれていた。
「っと……大丈夫ですか?」
ロナルドさんは私を抱き締めたまま、階段から一気にビルの外まで飛んだらしい。
「おいロナ造なにしてる、人の忘れ物落としてくな」
「うるせえな、こっちはこっちで色々――」
「すきです」
ドラルクさんに噛みついていたロナルドさんの口から力が抜け、顎が落ちんばかりに開かれる。奪い取るように受け取ったばかりだった私のパスケースがその手から落ち、地面にぼとりと着地する。
「好き、ロナルドさんが好きです。好き」
「ヘ、エ、ア……ア?!」
「あっやっと言えたなおめでとう! でもなんで今?」
目に見えて狼狽しているロナルドさんから目を離さず、ただただ思いの丈を吐き出す。困らせているのは分かっていたのに、口を閉じることができなかった。
「好き、好きです、本当に好き、ずっと前から」
「えっ、ア、う……オ、おお、おれっ、おれは、おれも――!」
「――あなたが好き」
真っ赤な顔のロナルドさんがぐらぐらと揺れて、霞む。落ち着くために息を吐いたのに、なぜか胸の苦しさが増した。喉が締め付けられて、眦から熱いものが溢れていく。もう立っていられなくて、その場に泣き崩れた。
「すきなの、だいすきなんです」
「……泣かないでください」
「ごめん、ごめんなさ……すき……」
泣きたいのか、想いを吐き出したいのか、もはや自分でも分からない。蹲った私の背中を、ロナルドさんがしゃがみこんでぎこちなく撫でる。
「おれもあなたが好きです。……だ、大好きです!」
気恥ずかしげに、それでもしっかり紡がれた言葉に、頭を殴られたような衝撃が降りかかった。そういえば、こんな直接的なことは一度も言われなかった。口にしなかった――『彼』は。
今更気付いた事実に、また涙が一つこぼれる。
首筋に残る牙の痕が、じくりと痛んだ。
【完】