空が紺の帳を下ろし始めた頃合いで、部屋から出て階段を降り、そっと居間を窺う。ソファのひじ掛け部分から、銀のくせ毛をした頭が飛び出している。……まだ寝ているようだ。足音を立てないように注意しながら、明け方と同じ行動をとるべく、急いで厨房まで向かった。水を並々注いだコップを零さないように、ソファへと近付く。ロナルドくんは、窮屈そうに大きな体躯を折り畳んで身を縮め、眠りこけていた。吐いてはいないようだ。コップをローテーブルに置き、ロナルドくんの肩を叩く。
「ロナルドくん、ロナルドくん」
「ん、あ……?」
「もしかしてずっとここで寝てたの?」
呆れ声、信じられないという顔を作って腰に手を当てる。ロナルドくんは眩しそうに眼を眇め、ぼんやり私を見ていた。まだ寝ぼけているみたいだ。仕方ないなというふうに溜息を吐いて、二の腕を掴んで無理やり体を起こさせる。姿勢が変わったことでやっと意識がはっきりしてきたのか、ロナルドくんは緩慢な動作で額を抑えた。
「頭、てか全身イッタ……」
「そりゃこんなところで寝てればね」
顔を顰めたまま、ロナルドくんは受け取った水を一気に飲み干し、手の甲で口元を乱暴に拭った。
「昨日はあんなに飲まないって駄々こねてたのに」
「う……てか昨日……おれ……」
「サテツさんとショットさんが送ってくれたんだよ。サテツさんがここまで運んでくれた。覚えてない?」
「お、おぼえてる、めっちゃおぼえてる」
白々しく繰り返した彼をしばらくじっと見つめれば、ロナルドくんは顔を背けながら「すみません」と弱々しく呟いた。
「別にいいけど。でもこれに懲りたらあんまり変な飲み方しないようにね」
「……はい。ご迷惑をおかけしました……」
「いいってば。それより食欲は?」
「ある――あ、て、手伝う」
「いいよ、休んでて……というかお風呂入ってきたら?」
立ち上がろうとした彼をソファに押し留める。「でも」と食い下がる彼に「一つお願いがあるの」と言葉を被せる。
「今日じゃなくていいからさ、今度一緒にマスターさんのお城行こう」
「え」
「最近二人で揃って行かないでしょ? だからショットさんたちに『喧嘩したのか』って心配されちゃったんだよね」
少し迷ってから、ロナルドくんは「分かった」と小さく頷いた。よかった、断られるんじゃないかと、少し心配していたのだ。寝起きか、はたまた本調子ではないからか、ロナルドくんはいつもよりポヤポヤしていた。
了承も得られたことだし、と踵を返す。吸血鬼にもシジミの味噌汁とか効くのかな。このお城にシジミなんてないのでどうせそれは作れないけど。うどん、おじや……顔色はそんな悪くないし、お粥ほどの病人食でなくてもいい気はする。……やっぱうどんかな。うん、うどんだな。私も食べたいし。
そう決めたところで、背後から「あっ」と声がしたので振り返る。ロナルドくんがソファの背もたれに片腕を預けて上体を捩じり、こちらを見ていた。
「あのさ、ショットたちだったとしても、一人のときはあんま簡単に出迎えたりすんなよな」
「ああそれ、サテツさんにも言われた」
二人して心配性というか、マメというか。
思わず笑った私を、ロナルドくんは「真面目に言ってんのに」とむっつりと睨んだ。
よかった。
取り出した鶏もも肉を持ったまま、閉じた冷蔵庫の蓋に額をゴンと打ち付けた。静かに、そして長く息を吐き出す。息を吐き出しきるや否や、ドッといやな汗が噴き出た。心臓が今更爆音を奏でていて、全身が緊張からの疲労を訴えていた。
よか、よかった! 覚えていなかった! 半ば賭けだったけれど、そうだよね、かなりの泥酔状態だったし。最後の私の言葉を聞いていたのかすら怪しいところだ。
ギリ、本っ当にギリだが、なにもしてない。なにもなかった。「なんでだよ」と呟いた直後、ロナルドくんが気を失うレベルで急に眠ってくれたので、妙なことにならずに済んだのだ。まあおかげで私は一睡もできてませんけどね。だってあんなこと、なんかまるで、まるで――……いや、これ以上考えるのはやめよう。当の彼だって覚えていないのだから。
肉、それから人参や椎茸、株、生姜などを無心で切り分けていく。野菜煮込みうどん、個人的には最初にごま油で軽く火を通すのが好き。菜箸をとろうとキッチンを見回し、その流れで、うっかり水切り台の上に逆向きで置かれたコップを見てしまった。コップ。昨夜、様々な経緯を経て床にコロコロされた可哀想なコップくん。転がった原因、は――。
「先に洗い物をしよう!」
誰が聞いているわけでもないのに、一人きりの厨房でわざわざそう声高に宣言し、思いっきり蛇口を捻った。