テッペンカケタカ ほととぎす


――『こうして迷子になったら、また手を繋いでくれる?』
――『いいよ!』

 電車の停止する強い揺れに足がびくと跳ねた。唐突な覚醒で心臓が激しく動悸する中、きょろきょろと辺りを回し、窓の外の駅名標を探す。寝ぼけ眼が捉えた最寄り駅の文字に、慌てて立ち上がった。「すみません」と誰ともなく謝罪をしながら、ドアの隙間にギリギリで体を滑り込ませ、電車から飛び出す。ホッと息を吐いたと同時に背後でプシューっと鳴り、ドアが閉まる音がした。遠ざかっていく電車に胸を撫で下ろす。快速だから、寝過ごしていたらとんでもないことになるところだった。ただでさえ今日は残業だったのに。時刻は二十一時ちょっと過ぎ。それでも駅には人がまだまだ溢れかえっていた。今日も一日頑張ったのは私だけじゃないんだなぁ。せっかくの華金なのにね。なんとなく安心したような気持ちで、改札を抜けた。
 自宅近くのスーパー、野菜売り場で、視界に飛び込んできた大きな赤文字のチラシに足を止める。キャベツが半玉で七十九円。お買い得のイチオシらしい。宣伝通りちゃんとよく売れているらしく、大きな籠に残っているキャベツも数玉だ。しかし普段自炊をしないため、これが果たして本当にお買い得なのかいまいちよく分からなかった。その場に立ち尽くして、設置された小さなモニターに流れる春キャベツ料理特集をぼんやり眺める。……ああ、ロールキャベツ、美味しそうだな。久しぶりに食べたくなってきたかも。ロールキャベツってコンビニにもなかなか売ってないよね。買っちゃおうかな、明日は休みだし、たまには料理……。悩みながらモニターから視線を外せば、ふとすぐ隣に人が立っていたことに気が付く。疲れた顔をした、同年代くらいの女性だ。心做しか迷惑そうにしている彼女へ会釈をして、キャベツを取らずにそそくさと立ち去る。そのまま肉売り場も素通りし、冷凍コーナーに向かった。もういいや、今日は……ナスと挽肉のボロネーゼ。これにしよう。ガラス扉を開き、目当ての商品を一つ。ついでに隣に陳列されている舞茸たっぷり醤油バターパスタも手に取る。これは明日用。さすがに明後日はなにか作ろなきゃ女としてあれな気がする。TKGでいいかな。でも冷凍のご飯あったっけなぁ。一昨日食べたので最後じゃなかったっけ。数は覚えてないけど、とにかく残り少ないことは分かる。明日炊かなきゃ。めんどくさいなあと思いながらレジに並ぶ。ご飯炊くだけでこんなダルく感じるくせに、よくロールキャベツとかいう物を作ろうとしたな、私。無謀すぎるでしょ。
 ◆
 桜の見頃もピークを越えつつあり、冬の寒さも少しずつ隠れていっていた。けれどまだまだ夜は冷え込む日が続いている。マンションの階段を上りながら、吹き抜けた強い風に身震いをして、トレンチコートの前をぎゅっと手繰り寄せた。寒いけどもう三月だし、暖房はさすがにもうだめかな。冷える部屋でテレビもつけず、ひっそりとチンした冷凍パスタを食す草臥れたOL。ふふ、虚しい。絵に書いたような侘しさに、一人でから笑いを浮かべてしまった。
 自宅の扉を開け、廊下の先――リビングから伸びる明かりに、パンプスの踵に手をかけた体勢で動きを止める。……電気つけっぱなしで家でちゃったんだっけ。いや、そんなわけない。冬場は限界まで布団でゴロゴロしていたくて、カーテンを開け閉めする時間すらも惜しみ電気をつけてしまいがちだった。けれど最近は暖かくなってきたし、余裕を持って起床することもできていたから、そんな不精はしなくなっていた。
 だから、朝の電気がつけっぱなし――なんて、あるはずがないのに。
 リビングを凝視したまま唾を飲み下す。音を立てないようにそうっと靴を脱ぎ、すり足でじりじりと廊下を進んだ。いや、考え過ぎの可能性もある。神経過敏になっているのかも。今日はたまたまカーテン開けずに電気つけて支度したのかも! 正直全然そんな気はしないけど。絶対消したっていうかつけてないとは思うんだけど。気休めにもならない気休めを考えつつ、恐る恐る扉を開けた。
「おかえり!」
 明るい室内で私を出迎えたのは、やたらと顔色の悪い白スーツ姿の男性だった。我が物顔でソファに腰掛け、足を組んで片手をあげ、ぺかっと笑顔で愛想良く挨拶をしてくる。私がそんな“異物”に動きを止めたのは、多分、一瞬だけ。
「あっちょっと――」
 冷凍パスタが入ったレジ袋を放り出す。引き止めるような声と、ドシャッという音を背後に、玄関へと走った。
 え、なに? あれ、え、な……だれ?! 混乱しながら、バカ長く感じる廊下を駆ける。ストッキングのせいで滑って、うまく走れなかった。その上足がもつれて、転びそうだった。なんとか辿り着いた扉のドアノブを握り、携帯を取るために空いた手をコートのポケットに突っ込む。け、警察、警察呼ばなきゃ、空き巣、強盗――え、ストーカー? 
「おっと、それは困るな」
「ヒッ……!」
 煤けた木材のような深くてほんのり甘みのある香りが、絡みつくように嗅覚を刺激した。耳のすぐ横からの落ち着き払った声音に心臓が飛び跳ね、喉が引き攣る。背後の存在に身を強ばらせていれば、あっという間に私の手から携帯が消えた。囲うように回ってきた片腕がぐっと伸び、私の手ごとドアノブを掴んで手前へと引き戻す。少しだけ開いていた扉が閉ざされていくのを、為す術もなく呆然と見つめた。手袋に包まれたしなやかな指先が、鍵を回して施錠する。カチャンという無情な音が、やけに鼓膜を突いた。
「やあ、驚かせて申し訳ないね、お嬢さん」
 恐怖のせいで、肺のあたりが痙攣している気がする。油を差し忘れた機械のように、ぎこちなく首を回した。
「お疲れのところ大変心苦しいのだが、ほんの少しだけ“落ち着いて”話を聞いていただけませんかな」
「ぅ、ア、は、はい、はい……!」
 重なった手がやや強く握り込まれ、吃りながら何度も頷く。依然として朗らかな男の雰囲気が、薄気味悪い恐ろしさを煽っていた。
 ◆
 短い逃走劇。そして短い人生だったなぁ。
 エスコートでもしているかのような恭しさで手を取られ、リビングへと連行されながら、死刑宣告を待つ気持ちでソファへ座る。彼はその場にしゃがみ込み、笑顔で私を覗き込んだ。
「さ、どうぞ気を楽にしてくれたまえ。あ、お茶でもいる?」
「いえ、だ、大丈夫です」
 あれ、ここ私の家だよね。私の家、のはずだ。なのになにこの人。いやまず本当に本当に、本っ当に誰この人。死ぬのかな、私。これから強姦された挙句嬲り殺されるのかな。しかしそれにしては流れる空気が穏やかな空気だ。しかし不法侵入してくるような異常者の思考は読み取れないし、これから豹変する可能性もまだまだ捨て切れない。……携帯もまだ、彼の手の中だし。
「最初に断っておくと、私は不法侵入者なんかではないからね」
 なにをいうとる。
 と心のままに反論したかったが、口を固く引き結んで堪える。迂闊なことを言って男の精神を逆撫でしてはたまらない。
「まったく信じてないね、きみ……たしかに説得力が全然ないのは自分でも分かっているんだが」
 男は疲れたように顔を顰めて額を抑えた。……あれ、なんかこの人、耳がちょっと鋭角じゃない? 目の錯覚?
「私も気付いたらこの部屋にいたんだよ。いや、最初は御祖父様発案のリアルクローズドシナリオかなんかに巻き込まれたのかと思ったんだが」
 どんなおじい様なの、それ。
 溜息を吐きながらボヤく男に、引き続き内心でツッコミをいれる。ちらりと覗いた犬歯が少しだけ不気味で、息を詰めた。
「だからその、まあ……ちょっっっとだけ――ほんとにちょっとだけね――あの、探索的なことをね。かるーくしてしまったんだけど。まあ特に指示やヒントも見つけられないし、外に繋がってそうな扉だって普通にあるし。きみが帰ってくる前にさっさとお暇するつもりだったんだよ」
 は? 探索?
 前半の聞き捨てならない部分に唖然としてしまったが、それでもなんとか後半に意識を移す。とにかく用はない、ってことなんだよね。じゃあ早く帰れ。いや帰ってください。口に出さずともそんな不信感はしっかり伝わってしまったのか、男は言葉を選ぶように低く呻いた。
「あー……あのさ、ちょっと一緒に来てくれる?」
 立つように促されて僅かに逡巡したが「来てくれたら携帯返すから」と言われ、大人しく従う。少し距離を開けて男の後をついて廊下を進んでいくと、今度は男が玄関の扉を開けた。男はそのまま歩を進め、とうとう家の外へと一歩踏み出した。靴も履かずのその行動にぎょっとしたけれど、男は特に頓着していないようだった。あ、え、いいんですか、靴。いやあなたがいいなら別にいいです。どうぞそのままお帰りください。あと携帯返して。
「…………は?」
「……うん」
 ごく自然な動作でくるりと踵を返し玄関内へ帰ってきた男に、ついにあけすけで不躾な音が零れる。「まあ、あの」男は気を悪くした様子もなく、ただただ口元を歪めた。
「つまり……こういう事情でして」
「こういうって……」
「……出たくても、出られないんだよね」
  へらりと笑うその笑みは、どこか困り果てているように見えた。
「……いや、ふざけないでください」
 先程から一向に犯罪めいた流れにならないため、うっかり、つい気が緩んだ。こんな状況、本来ならもっと警戒して、こちらも下手に出なければならないのだろうけれど、もうなんかちょっと、色々と精神が疲れていて。眉間に皺を寄せ、男を睨みつける。
「ふざけてない! 本気で! 足が勝手に動いちゃうんだよなぜか!!」
「なに言ってるんですか……?! も、もういいから出てって――あ、携帯返してください!」
「だからほんとに出られないんだって!」
 あと警察は勘弁してー! なんて言うなり、男はウエーンと泣き出した。別人のような情けない豹変ぶりに、思わずまじまじと見てしまう。……見知らぬ成人男性のガチ泣き。これはこれで怖い。ドン引きしつつ、「と、とにかく」と男を反転させる。
「早く出て行ってください……今出て行ってくれたら警察は呼びませんから」
 とりあえず今日は呼ばない。明日不審者の通報をしに行こう。「や、だから――」なにかを言い募ろうとしている男の背をぐーっと強く押し出した。うわこの人軽っ。男がたたらを踏み、つんのめるようにして外へと飛び出す。骨と皮ばかりな感触の背中から、手が離れた――直後、また男が玄関へと舞い戻ってくる。
「な、なにしてるんですか?」
「無理なんだって……もう何百回も試したよ」
「……あの、失礼ですが、もしかしてなにか脳の持病をお持ちだったりしませんか? なんか……部屋から出られなくなるというか、思った行動ができなくなるといった症状がでるって、聞いたことがあります」
「脳梗塞のスレの話か。たしかに私は偏頭痛持ちではあるけど……でもだからこそこまめに医者には罹ってるし、そういう診断を受けたことはないよ」
 お互い当惑したまま顔を見合わせる。「とりあえず返すね」思い出したように携帯を渡され、迷った末にポケットへとしまった。とりあえず警察はあとだ。
「……私がエレベーターまで押していくとかどうでしょう」
「あ、いいねそれ!」
 今までで一番明るい笑顔で男は「頼むよ」と背を向けた。折れそうだな。ていうか私こんな時間になにしてんだろ……。などと思いつつ、男の背中を押していく。押してる間、男からのさしたる抵抗もなく、エレベーターホールまで簡単に辿り着くことができた。
「あー……じゃあ……お騒がせしました」
「はあ……」
 箱の中からの気まずそうな会釈に応じ、私も軽く頭を下げる。電光掲示板が『1』までカウントされたのをしっかり見届けてから、元来た道を戻る。結局なんだったの、あの人。新手のストーカー? でも靴履いてなかったし、彼も拉致られた被害者ってことになるのかな。エッなぜ拉致会場にうちを選んだんですか?? こわい。主催者だれ? まさか『おじい様』なんじゃ。なんにせよ鍵は変えた方がいいだろう。盗聴器の類がないか探さなきゃな……。
 改めて自室へ帰り、鍵とロックをかけて施錠する。廊下に投げ出されていたレジ袋を拾うと、少し溶けていて、柔らかくなっていた。もうなんか、お腹空いてないなぁ……。
「つかれた……」
「お、おかえり」
 私を出迎えたのは、たしかに見送ったはずの男。しかしさっきとは違い、肩を縮こめてソファの端にちょこんと腰掛けていた。溌剌としていた作り笑顔は萎み、青白い頬には冷や汗が垂れている。さすがにもう足は組んでおらず、ずっと漂わせていた慇懃無礼さは、すっかり消え失せていた。
「…………警察呼んでもいいですか」
 呼んだとて、解決する気は正直さらさらしないけれど。
 やめてェ! とソファから滑り降りて祈りを捧げるように両手を握って懇願する男に、溜息を吐くほかなかった。
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