策士のハニーに夜は更けて


 背中を押して追い出す試みは、隣の部屋の住人が部屋から顔を出すまで行われた。
「どうかしたんですか、こんな夜中に」
「あ、いや……」
 親切に尋ねるような口ぶりをしつつも、その顔には隠しきれない不機嫌さが滲んでいた。もう日付けも変わる時間だ。どたばたと煩かったのだろう。ちくちくと責めるような視線に愛想笑いで謝罪をし、私と男は私の部屋へと引っ込んだ。
 中断を余儀なくされ、なんとも居心地の悪い沈黙が玄関口で広がる。こんな時間になにやってんだ、という顔の隣人を思い出してちょっと泣きそうになった。それ、私が一番聞きたい。
「……さっきの人、私のこと一度も見なかったね」
「え? そうなんですか?」
「ああ、視線が――……ねえ、私のこと携帯で撮ってみてくれないか?」
 出し抜けな提案に対する不審感で、口がへの字に歪んだ。なぜ突然他撮りを要求してきたんだこの男は。初対面の女の家の玄関でインスタ映えを狙うな。別に映えないから。しかし理由を聞くのも拒否をするのも億劫だったので、言われた通り、携帯をカメラモードにして男へ向けて構えた。
「……あ? え……えっ? は?」
 “なにも映っていない画面”と、目の前の男を何度も見比べる。いない、いる、いない、いる――は? 素っ頓狂な短い音が口からぽろぽろと零れていく。
「やっぱりね」
 私の反応に、男は一人納得してしたり顔でふむと頷いていた。なにがやっぱりなんだ。もう一度画面を覗いてみるも、そこには何の変哲もない廊下の先が映っているだけ。ああ、本当にそうだったらよかったのに! 画面を見詰めながら顎がわなわなと震える。
「き、きも……!」
「はあ?! き、きもいとは失礼な!」
「だ、だって、だってもう意味分かんないし……!」
 揺らいだ声と鼻をすする音に、男はぎくりとしたように目を剥いた。
 何度エレベーターに押し込んでも私より早くソファに座っていて、下まで付き添ってマンションの外まで押し出しても、自室に戻る頃には彼もとっくに戻っていて。それだけの数の実験と検証を繰り返せば、彼には悪意がなく、そしていよいよこの現状がどうしようもないことなのだということが分かってくる。
 しかし分かるからといって、はいそうですかと飲み込めるかといえば、それはまた別の話だ。有り得ない事態の連続に、もう脳の許容範囲を超え、心労もピークに達していた。
「も、やだ……かえ、かえって……」
 濡れる目元を抑えながらその場に座り込む。しばらくそうして一人でぐずぐずしていたが、不意に空気が流れ、目の前の男がしゃがむのが分かった。顔に布が触れ、反射的にすんと動いた鼻が馴染みのない柔軟剤の匂いを嗅ぎとる。「あの」言葉を探すような沈黙のあと、控えめに前置かれた。
「……ごめんね。私もできることなら、はやく帰りたいんだけど」
 ほんと、どうしたもんかね。
 宥めすかすような声は、私と同じくらい疲弊していた。
 ◆
 いい歳した大人が玄関に座り込んでギャン泣き。冷静になると恥ずかしい。というか怖い。会ったばかりの彼に泣かれてうわっとなったのを忘れたのか、私というやつは。きっと彼もうわっとなっただろう。それなのに謝って慰めてくれるとは、なんて度量が広いのか。薄々勘づいてはいたが、やっぱり悪い人ではない気がする。顔は少し怖いけど。渡されたハンカチを素直にお借りして、目元を拭いながら立ち上がった。ピシッと端までアイロンがけされていたであろう布が水分を吸い込んでくたりとする。
「なにか胃に入れたほうがいいんじゃない? よければ作ろうか、私」
 ほら、やっぱり親切だ。料理は得意でね、と言う男に少し考えてから首を振ってお断りする。しかしこれだけではあまりに無愛想だな、と補足するために口を開いた。
「お気遣いありがとうございます。お腹は空いてますけど、なんだか食べる気分にもなれなくて」
「うーん……その気持ちは分からないでもないけど……」
 男はもごもごと言葉尻を濁していたが、結局「まあ、いいならいいか」と肩を竦めた。
「あの、さっき『やっぱり』って言いましたけど、画面に映らない心当たりでもあるんですか?」
「うん。説明するから、ちょっと来てくれる?」
 そう言って流れるように手を差し伸べられ、瞠目する。そんな別に、歩けなくなるほど全力の号泣じゃないのに。男は胡乱に手を見遣る私に気が付くと、パッと手を引っ込めてにこりと笑った。
「ああ、すまない。つい癖で。如何なる時も紳士たれというのが我が一族の教えなもので」
「はあ……」
 一族。『おじい様』とか言ってたし、この人、お坊ちゃんなのかな。喋り方や纏う雰囲気も言われてみればそんな感じだ。いちいち偉そうだし。
 最初のようにリビングへ通されるのかと思いきや、男は廊下の途中にある洗面所で足を止めた。見てご覧と誘導されて隣に並び、目を見開く。洗面所の大きな鏡に映っているのは、私の姿のみだった。
「さっきの住民も、私のことが見えていなかったんだと思う。目の動きがそうだった」
 絶句する私に男はさらりと続けて、眉を少し下げる。
「私、幽霊みたいなものなのかも」
 ◆
「成仏してくださいお願いします」
「いやですお願いします。というか多分無理です」
 テーブルを挟んで腰掛け、二人して額を擦り付ける勢いで頭を下げる。無理って、いややってみなきゃ分からないじゃないか。
「この前塩一キロ買ったんですけど、試しに摂取してみませんか」
「死ぬわ、幽霊じゃなくても」
 彼が自身を幽霊だと言い張る根拠は、鏡に映らないこと、そして私以外には見えていなさそうだという二点からだった。
「まあ後者は微妙か。『見える』『見えない』が一人ずつで今のところイーブンだし。今後検証していくということで」
「今後ってここから出られないのにどうやっ…………ここから出られない?」
 特に深い意味を持たずに放った自身の言葉で、はたと口を止める。男は「お気付きになられましたか」と妙に芝居がかった口調で真剣な顔をした。
「そう。私はここから出られない――ので、しばらく同居させてください」
「どう…………は?! む、むり! むりむりむり! むりです、絶対むり!」
「でも無理ったって仕方ないだろう、出られないんだし」
「……あっ窓! まだ試してないですよね! 飛び降りてみたらどうですか?」
「さっきからきみ自殺教唆ギリギリだぞ」
 分かってる? と呆れ気味に首を傾げられ言葉に詰まる。た、たしかにあまり考えずに発言をしていた。むり連呼とかも、失礼だったかも。この人だって知らない女と同居など業腹だろうに。しかし反省しながらも、「だけど」と食い下がってしまう。
「幽霊かもっていっても透けてないし、普通に触れるじゃないですか」
「ねー。そこは私にもよく分からん。まあ見えて触れる幽霊だと思ってくれればいいから」
「見えて触れる幽霊はただの人間なんですけど……」
「まあまあまあ……ほら、私が紳士であれと教え込まれて育てられてきたことは先にも述べたし、実演もしただろう? だから今後は許可なくきみに触れないと約束するよ。きみが構わないなら、家事の一切を任せてくれていい。幽霊だからか不思議と空腹は感じていないから食費もかからないし、電気代不要且つ高性能なルンバとでも思ってくれたまえ。あ、でもお風呂は気分的に入らせてほしいかな。外に出ないとはいえ、最低限の身嗜みだし。きみだって同居人が不清潔なのはいやだろう?」
「ほ、はあ……?」
 つらつらとのべつ幕なしに捲し立てられ、呆気に取られる。情報量についていけない。疲れや空腹のせいで頭が回っていなかった。唯一まともに拾えたのはルンバくらい。いやルンバて。いいのか、それで。
「ね、どうだい? お買い得だよ」
「…………じゃあ、お願いします」
 なんとなく買い損ねた春キャベツが脳裏を過ぎり、気が付いたらそう口にしていた。……あれ、家主なんだからこの台詞っておかしいのでは。私がお願いされる側なのでは。そんなことを口にしてから思い至るも、もう遅い。
「ああ、これからよろしく頼むよ」
 事の運びがお気に召したのか、男の口角が満足げに上がる。蜂蜜のような色の瞳が、弓なりに歪んだ。
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