瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
引っ越しをすることにした。
仕事も辞めた。この家もこの街も彼の影ばかりで、まともに直視できない場所しかない。このままここで過ごしていたら、気が狂ってしまうと思った。ドラルクさんとの日々を過去として大事に受け止める心の余裕が、私にはなかった。
「……毒でもいれてやればよかった」
百均で買った水玉模様の、使われなくなって久しいコップを見ながら呟く。牛乳なら毒――例えば洗剤とか――を混ぜてもきっとバレなかっただろう。……ああでも、洗剤入り牛乳を飲ませて昏倒させたところで、結局元の世界に戻るのが早まっていただけなのかな。私と暮らしていたドラルクさんは魂というか意識というか、思念体のようなものだと聞いた。よく分からないから聞き流したけど。まあとにかく、そんなことをしても無意味だったんだろう。じゃあやらなくてよかった。
いやしかし楽しかったはずの日々を思い出してこんなに憎悪に塗れた声がでてしまうのだから、この『引っ越す』という判断はやはり間違っていなかった。精神状態がギリギリだ。自覚できているだけまだマシな気もするけど……自嘲気味に溜息を吐いて、コップをゴミ袋の中に投げ入れた。
いつの間にか貯まっていた割り箸は便利なので持っていく。いつ買ったのかも覚えてないスプーンは……もう要らないか。サークル仲間の結婚式で貰った引き出物の皿は……いらないけど気まずいから一応キープしとくか。これはいる、これは捨て。そうしてあらかた片付け、整頓されたキッチン周りを見回す。あとは清掃かな。重曹あったっけ。
容量限界までぱんぱんに膨れ上がったゴミ袋に手を突っ込み、奥底から水玉模様のコップを取り出す。ちょっと眺めてからキープの袋へと移した。代わりに引き出物の皿をゴミ袋にいれる。まだ全然普通に使えるコップと、たいして仲良くもない男女の顔がプリントされた使いづらい皿だったら、断然コップのがいいなと思っただけだ。
重曹を探しに洗面所に行ったらドラルクさんのおじいさんが鏡の中でピースしてました。
「なんで?!」
『縁があるから』
なにとだ。この人、いまいち言葉が足らない節がある気がする。半年ぶりだというのに、おじいさんは『元気?』と以前のようにフランクに話し出した。変わらなさに苦笑しつつ、眉を下げる。
「あんまりですね」
『そっち天気悪いの? 雷?』
「え? いや、快晴ですけど。……あの、ドラルクさんと話すことってできませんか?」
『ドラルクは、きみのこと覚えてないよ?』
それでもいいの、と首を傾げられて言葉に詰まる。よくないかも。どちら様ですかとか言われたらその場で鏡を殴りつけてしまう気がする。それでも会いたい――けど――でも。
『なんにせよ、ドラルクはまだ動けないから難しいと思う』
「えっ、また怪我かなにかされたんですか?」
『いや、ドラルク、さっき目を覚ましたばっかだから』
「……はい? こっちではもう半年は経ちますけど」
『そういうこともある』
あるな! と叫びかけたが寸でのところで抑える。おじいさんに当たっても仕方ない。肩を落として深い溜息を吐く私を、おじいさんは凪いだ相貌で見つめていた。
『会いたい?』
「……はい」
『――じゃあ、来る?』
事も無げにさらりと告げられた言葉の意味をすぐさま理解することは不可能だった。ぽかんと目の前の男を凝視する。私も彼も声を出さない。蛇口から、膨らんだ水が落ち、ピチャンと音がする。静まり返った空間ではやけに大きく響き、ついびくりと大袈裟なほど肩が跳ねた。それを契機にドッと止まっていた心臓が動きだし、全身に物凄い速さで血が回っていく。あまりに急激で、ふわふわとした眩暈を覚えるほどだった。洗面台を必死で掴み、なんとか立つ。
「……わ、たしが……行けるんですか」
尋ね返した声は、みっともなく震えていた。冗談だろうか。もしそうなら鏡を粉々にするぞと拳を握り締めて構えたが、おじいさんは顔色を変えず、当然のように『行けるよ』と頷いた。
なにか言おうと口を開いた。けれど声がでない。はくはくと陸に顔をだした魚のように動くだけだ。そうやって口を開けているくせに酸素を取り込むこともままならなくて、まともに息ができなかった。酸欠のせいか、それとも歓喜か、目の前がぼやりと霞む。袖口で乱暴に滲む涙を拭い、一度息を勢いよく吐いて深呼吸をした。返事をするために、おじいさんを見上げる。
「い、行きた――」
『でも、人間じゃなくなるよ』
魂だけが飛んだドラルクと違って、肉体も魂も跨ぐことになるから。
淡々とした声の中に、慮るような気遣いを感じた。“在り方”の話だろう。やはりリスクはあるということらしい。それでも私は問題ないと首を横に振った。吸血鬼、もしくはそれ以外の生き物になるのだとしても、そんなことはもうどうでもいい、些末なことだった。
『元の世界には二度と帰って来られないよ』
「大丈夫です」
『記憶もなくなるよ』
「構いません」
繰り返される確認がもどかしく、食い気味で答えていく。会えるなら、それでいい。ドラルクさんにもう一度会えるというなら記憶なんて必要ない。夢に見るほど、頭がおかしくなりそうなほど焦がれたあの人に相見えた時の私が、まっさらで、もはや別人で、なにも分からないとしても。
「始まりだけがあればいいんです」
きっとそれだけで充分だ。帰り道も記憶も、今の自分だって必要ない。ドラルクさんと逢えるなら、他にはなにもいらなかった。
「私をドラルクさんの元へ連れて行ってください」
『分かった』
おじいさんが『おいで』と鏡の中で手を差し伸べた。戸惑いつつ、指先を鏡に触れさせると、そのままズ、と指が鏡の中へと沈みこんでいく。非現実的な光景が恐ろしくなって一瞬手を引こうとしてしまったが、一度怯んだら二度目はないだろうと直感的に思ったので覚悟を決めて手を押し込んだ。指先が、手触りの良いビロードに触れる。大きな手に、恭しく、そしてしっかりと握られ、鏡の中へと引き摺り込まれる。飛び込んできた私を、おじいさんは危なげなく受け止めた。
「きみには、ドラルク共々お世話になったから」
ループタイの宝石が、目の前でちかりと光る。
あれ、そういえばこれ、どこかで見たような。
◇
「――おじさん、こんなところでなにしてるの?」
「お昼寝してたら、迷っちゃった」
「わたし知ってる。そういうの、夢遊病っていうの」
「そうなんだ。ねえきみ、おヒマ?」
「雨が降ってるからおヒマじゃない」
「雨が降ってたらどうしておヒマじゃないの?」
「だって、かみなりが……」
「かみなり?」
「ほら、雲がまっくろでしょ。きっともうすぐかみなりが降ってくるの。かみなり、こわい、きらい。だからおヒマじゃない」
「正体が分かれば怖くないかも」
「は?……アアアアアア?!?! おかあさ、おかーさーーーん!!!!」
「ごめんね」
「やだ、やだ……ゆるさない……」
「どうしたらゆるしてくれる?」
「……じゃあ、それ」
「これ?」
「そう。そのキラキラ、くれたらいいよ」
「やっぱりうそ。こんなの貰ったら、お母さんにおこられちゃう」
「うーん。じゃあこうしよう。これは約束の証」
「約束?」
「いつか私の家族がこうして迷子になったら、また手を繋いでくれる?」
「いいよ!」
「じゃあこれは、その約束の証ね」
「……でもおじさんの家族って、どうやったら分かるの?」
「迷子になったら、多分きみのところに行く」
「どうして?」
「そういう“約束”を今したから」
「……? そっか!」
◇
強くて冷たい風に目を開けた。人々の営みで照らされる夜の景色が眼下に広がっている。灯りはどれも遠くで細々としているのに、それでもどうしてかひどく眩しくて目が痛い。寝起きだからだろうか。なんだかもうずっと眠っていたような、とろりとした倦怠感が指の先までをも蝕んでいるような感覚がした。
「……ここはどこ?」
「ここは新横浜」
回答を期待したわけではなく、ただ漠然と落としただけの言葉を拾われた。ついと顎を上げる。すぐ隣に、白金の御髪をしたクマのように大きな老人が立っていた。誰だろう、この人は。疑問をそのまま口にすると、男は「きみの保護者」と答えた。
「私はなに?」
「きみは吸血鬼」
「あなたは?」
「私も吸血鬼」
同じ存在なのか。そう思うと、なぜかえも言われぬ安堵が胸に広がった。
「私はなんでここに?」
「きみが望んだから」
背中に手を添えられた。
「行っておいで」
あの灯りの中に飛び込むのはイヤ、と思ったはずなのに、体が勝手に前へと傾く。長い落下を経て、私はすとんと大地へ降り立った。また足がひとりでに動く。どうやらこの体は、私よりも私のしたいことを分かっているらしかった。
コツコツと靴音を鳴らし、繁華街を歩く。明るい、眩しい。匂いが溢れていて、なんだか気持ち悪くなってきた。体が胸焼けや頭痛を訴える。それでも足は、止まらなかった。いったいどこへ向かっているのだろう。
「隊長、どこ行くんですか⁈」
「起きたばっかのくせに足速!」
「普段からそんくらい動けよ!」
遠くの方がにわかに騒がしい。煩わしさを覚えたので遠ざかろうとしたのだが、足はなぜかそちらへ向かった。体調不良のせいか、じわじわと心臓が逸りだす。やがて、白いスーツ姿の集団を視界に捉えた。薄い青の病院着のようなものを着た包帯だらけの男を取り囲んでいる。
「まだ安静にしてなきゃ――」
「ええい喧しい、どっか行ってろ! きっとどこか、この辺り、たしかにいるはず――」
中心にいた病院着の男が吠えるように怒鳴り、荒々しく私の方を振り返った――視線が交わる。かちりとどこかで音が鳴ったような気さえした。
見つけた。
耳朶を打つ音はない。けれど、私も男も、たしかに口を同時にそう動かした。爛々とした蜂蜜のような金の瞳に、行かなきゃという使命感が込み上げてくる。衝動に突き動かされるまま、金に引き寄せられるままがむしゃらに地面を蹴った。男も周りの人間を押し退け、こちらへ走ってきていた。
広げられた胸の中へ無我夢中で飛び込み、訳も分からず細い首へと縋り付く。そんな私を受け止めたはいいけれど、男はたたらを踏んで地面に尻餅をついた。それでも私の背中へきつく腕を回したままだ。
座り込んだ体勢で男の首元へ鼻を擦り付けると、ドクドクと速い血潮が薄い皮膚の下を流れているのがわかった。無性に牙が疼く。本能的な興奮で歯がカチッと鳴ったが、ふわりと鼻腔を擽った消毒液の匂いと石鹸の匂いに理性が戻ってくる。こんな石鹸の香り、嗅いだことがないはずなのに、どこか懐かしいような気がして不思議だった。
「すきだ」
耳のすぐ横で急き込んで紡がれた声は、涙でガラガラだった。うなじにぽたぽたと生暖かいものが落ちてくる。
「きみが好きだ、愛してる――分からないけど、でも、ずっと言いたかった。ずっとこうしたかった」
誰だか分からないのに。初めて会うのに。なぜかかなしくて嬉しくてたまらない気持ちになる。泣かないで。逢えたんだから、それでいいじゃない。そんな思いを込めて、男の後頭部をひと撫でし、抱き締められたままほんの少しだけ身を離す。鼻先が触れ合わせ、口元を緩めた。
「わたしもあなたがだいすき」
声をだしてようやく、自分も彼と同じだけしゃくりあげていることに気が付いた。目蓋が熱く、涙でべたつく。ぼやけた視界に移る人間のくしゃりとした笑顔を見ると、ますます目が溶けていくような気がした。男の顔に私の涙が落ち、痩せこけた頬を伝っていく。「泣かないでよ」自分だって泣いているくせに、男は困ったようにそう言って、私の目元を撫ぜた。
私たち、どうして泣いているのだろう。涙の理由も、喉を締め付けるこの切なさの意味も、なにも分からない。
分かるのは、この言葉とぬくもりと――そして口付けを、私はきっとずっと待ち侘びていたのだろうということだけだった。
それこそ、この世に生まれ落ちるよりも、ずっと前から。
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