めぐり逢う日など


 喉の乾きで目が覚めた。カーテンの向こうはもう明るい。今日も今日とて、外はきっと暑いのだろう。室内は冷房でキンキンに冷えてやがるため、いまいち実感が沸かないが。なんなら寒いくらいだ。エアコンのリモコンは目の届く範囲には見つからない。膝を軽く曲げて爪先を丸め、寝こけているドラルクさんにますます擦り寄る。こんな甘えたな行動は俯瞰するととても恥ずかしいものだろうが、まあでも寝てるしいいでしょ。なにより、まだ私の傍にいるのが悪い。
 さてどうしようかな。目の前の穏やかな寝顔を見つめたまま悩む。喉は乾いていたけれど、このぬくもりからは抜け出しがたかった。
 ドラルクさんがむにゃむにゃと唸りながら、鼻の付け根に少し皺を寄せる。なんの夢を見てるのだろうと思った矢先に、「さむ……」という掠れ声が鼓膜を揺らし、同時にぎゅうっと抱き締められた。寒いんかい。寝言が面白くて、あとはまあ、こうやってくっつけるのが嬉しくて、含み笑いをしながら腕の中でもぞもぞ動き、ドラルクさんを見上げる。手持ち無沙汰に皺を揉みほぐしていれば、ドラルクさんは徐に瞼を持ち上げた。とろんとした瞳がしばし虚ろに揺れ、やがて奥から光がじわりと昇ってくる。そうして私をみとめたドラルクさんは、くしゃりと相好を崩した。
「おはよう」
「おはよ、ございます」
「うわ、ガラガラだ」
 ちょっと待ってて、なんて言ってドラルクさんはなんの躊躇いもみせずにパッと立ち上がり、キッチンへ向かった。ぽっかり空いたスペースに、微妙な気持ちになる。布団を中途半端に被ったまま起き上がった。私は結構な時間、離れたくなくてもだもだしてたんですけどね。ふーん。即決。あっそうですか。ふーん。なんとなく解せなくて先程のドラルクさん同様に、自分の眉間へ皺が刻まれるのが分かった。
「なんで怒ってるの」
「怒ってません。ありがとうございます」
 水の入ったコップを受け取りながら、ツンと顔を背ける。「怒ってるじゃん……」困惑した声を聞きながらコップを傾けた。一気に半分ほど減ったコップを両手で包み、波紋を見つめる。いや別に、怒ってるっていうか……ちょっと寂しいだけ。改めて口にするのは恥ずかしいし、言ったら泣いてしまう気がした。コップに口をつけ、水と気持ちを一緒くたにして体の奥へと流し込む。
「……起きたら、帰ってるかと思いました」
「私がそんなに薄情な男に見える?」
 おどけたような口調で悪戯っぽく肩を竦められたので、私は目と眉の幅を近付けて「見えます」と断言する。ドラルクさんは意外そうに目を見張り、ぱちぱちと瞬きをした。
「あんなひどい抱き方をされたんだから」
 不貞腐れた気持ちで睨むと、ドラルクさんはきゅっと目を眇める。そして反論も言い訳も――謝罪を述べることもせず、ただ黙って私の頭を撫でた。
 私の『ひどく』は、端的にいえば『いたく』の意味合いをもっていた。苦痛を覚えるほど乱暴にしてほしかった。ドラルクさんと一度でも『繋がれた』という事実さえあれば、餞別としてはそれで十分だったから。行為に快楽や甘さは求めていなかった。
 そんな期待に反し、昨日のドラルクさんはどこまでもやさしく丁寧に私を溶かした。そんなまるで恋人同士のそれかと錯覚してしまうくらいの熱を注いだくせに、一度も『好き』とは言わず、口付けすらしてくれなくて。
「ドラルクさんのたらし。女泣かせ。ばか。意地悪」
「……返す言葉もありません」
 ぺしぺしと腕を叩けば、がっくりと項垂れた。
「でも大好きです」
 ずっとずっと大好きです。
 あなたと過ごした日々は生涯忘れません。
 今までありがとうございました。どうかお元気で。
 幸せになって、とはさすがに言えなかった。でもドラルクさんだってそんな言葉は求めていなかったんじゃないかな。
「こちらこそ、ありがとう」
 初めてみる下手くそな微笑みに、そんなことを漠然と思った。
 ドラルクさんは、その夜、元の世界へと帰った。
 ◆
 冷凍庫まで侵食する作り置きのタッパーは、可能な限り時間をかけて消費した。毎日少しずつ、大事に、一口ひとくちを噛み締めて大切に味蕾へと乗せ、カタツムリの歩みよりもゆっくり咀嚼する。しかしそれでも食べ物だから限度があり、タッパーの中身はあっという間に空になってしまった。
 真夏の熱を木枯らしが浚い、燃えるような紅葉を冷たい白が朧にしていく。そうして季節は巡り、桃色の別れを舞わせる春が再び訪れた。私にとっては全ての始まりの、懐かしくてかなしい季節だった。これだけの時間が経つのに、家の扉を開けるたび、未だに期待してしまう。あの日のように、ひょっこり現れるのではないか、と。愚かな渇望を抱いたまま、半年以上の月日が過ぎようとしていた。
 ドラルクさんの夢を、もう何度も何度も見ている。最初の頃は、名前を呼んでくれた。けれど今ではもう、眉を下げて笑った彼が踵を返して遠ざかっていくのを、ただ見ることしかできない夢へと成り果ててしまっていた。薄暗い部屋で一人目を覚ます度、死んでしまおうかなと思ってしまう。だって死んだら、私も別の世界へ――ドラルクさんの元へいけるんじゃないか、なんて。
 忘れない。忘れたくない。
 でももう、私はドラルクさんがどんな声をしていたのか、思い出すことができなくなっていた。もしかしたらそのうち顔を描くこともできなくなるのかもしれない。顔を黒塗りにされたドラルクさんが夢に現れた時、自分が正気を保てる自信がなかった。
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