移ろう季節と染まる心
色鮮やかな花々が青々とした葉へと姿を変え、日の入りの時刻もすっかり遅くなり、世界は梅雨を迎えようとしていた。夏至も迫っているということもあり、十七時も過ぎたというのに空はまだまだ明るい。昼間かと見間違えてしまいそうな青天井の下、ベランダでせっせと洗濯物を取り込んでいくドラルクさんをぼんやり眺める。手伝うといったが断わられてしまった。畳むときこそちゃんとやらせてもらおう。そう決意しながらゆっくり目を瞑る。頬を掠める風は、ほんの少しだけ夜特有の湿り気を帯びていた。
そうしてなんとなくウトウトしていたが、不意に鳴った通知の音に微睡みを破られる。携帯を見れば、田中さんからのメッセージが入っていた。連絡先を交換して約二週間。田中さんとのやりとりは、このように細々と続いている。最初は少し警戒していたけれど、彼は思っていたより普通の人で、妙な長文や連投もなければ、振ってくれる話題も返しやすく、話を盛り上げるのも上手な人だった。絆すのがうまい。ナンパし慣れてるのかも……なーんて。そんな軽薄には見えなかったし、ただ純粋に、真摯に私と向き合ってくれているのだろう。いい人だ。
彼からのメッセージは【映画に行きませんか】という旨のものだった。続けて送られてきたURLに表示されている作品名を見て、少し悩む。あー、これ、この映画ね……。世間的にも話題になってもんね。私もまあ、気になってはいた、んだけど……。うーん、なんて返そう。断る、いや悪いかな……でもなぁ……。返事に迷い、画面をじっと見つめる。
「――その映画なら」
耳のすぐ傍からの低い声。肩と、それから心臓が大きく跳ねて咄嗟に息を詰めた。
「前に私と観に行ったろ」
顔の真横にドラルクさんの息遣いを感じる。下手に動けば、口が当たってしまうんじゃないかという距離だ。いつの間にか洗濯物を回収し終わって部屋に戻ってきていたらしい。伸びてきた指がすいすいと画面を勝手にスクロールしていく。ドラルクさんは画面を見ることに集中していて、私の動揺には気が付いていないようだった。
「……ほー、それなりに続けてあげてるんだな。それもまた、随分と心配りした優しいお返事ばかりしてさしあげてるようで?」
「……勝手に読まないでください」
別に普通の会話しかしてないのに、なんだその含みを持った物言いは。画面を胸元へ押し付けて伏せる。さりげなく身を引いて距離をとりながら振り返り、不機嫌そうなドラルクさんを睨む。彼は悪びれた様子も見せず――どころか鼻を鳴らしながら――、屈めていた身を起こした。片手で持っていた洗濯籠からバスタオルを取り出したかと思ったら、顔に向かって投げつけてくる。タオルだからいたくはない、ふかふか、柔軟剤のいい匂い。でもそういう問題じゃなくて。
「なにするんですか!」
「いいから手伝って」
スタスタと隣まで回りこんだ彼が乱暴に腰を下ろすと、ソファが沈んで僅かに揺れた。一瞥もくれないでさっさと畳み始めたドラルクさんにムッとする。言われなくたってやるつもりだったのに。……しかしだからといってこの台詞をわざわざ口にするのは、さすがに子どもっぽすぎると分かっていたので、私は黙って首元に巻き付いているタオルを畳み始めた。
なんだか最近、こういう母親っぽいことをよく言われている気がする。『携帯見過ぎ』だとか『寄り道するな、真っ直ぐ帰宅しろ』だとか。中学生みたいな扱いをされている。小言が増えた原因として考えられるのは……やはりストレスだろうか。掃除洗濯に加えて食事の世話まで任せるのはやっぱり過剰労働だったのかも。ナシに戻してもらおうか……。
「服がほしい」
「え――エッあっ、いいですよ、分かりました」
思案を巡らせていれば、ドラルクさんが唐突にぽつりと呟いた。出し抜けな言葉に目を瞬かせて、膝上で広げていたTシャツから視線を外す。顔を上げた先でひどい仏頂面をしていたドラルクさんに狼狽え、ほぼ反射的にオッケーをだしてしまった。こ、こわい。え、そんなしわくちゃのピカ様みたいな顔になるほど今の服いやだったの。たしかに今彼が持ってる服は全て春物だし、来る夏に向けてそろそろ新調してもいいかもしれない、が……まさかそんなあからさまに臍を曲げたくなるほど不満だったとは。抱え込むくらいならもっと早く言ってほしい。
「言っとくが、私の服じゃないからな」
「え?」
「きみの服だ」
「……えっ?」
◆
「いやぁ、今日は実に有意義な休日だったね!」
「はあ……」
休日、ドラルクさんは午前いっぱい、そして午後にも食い込むほどの時間を使って私の服を選んだ。フードコートでホットミルクを片手に機嫌よく笑う彼に生返事をする。心なしか不健康な色合いの肌もツヤツヤ輝いて見えた。
「楽しかったならよかったです」
私はすごく疲れたけど。
そんな本音はなんとか喉元でとどめ、余計なことを言う前にと遅めの昼食であるハンバーガーに齧り付く。久しぶりのジャンクフードは味が濃くて美味しかったけど、以前よりしょっぱく感じて数口で飽きてしまっていた。何気なく動かした足の爪先がテーブル下の買い物袋をつつく。いくつも並んだそれらは、私が散々連れ回された証でもあった。
「本当に楽しかったんですか?」
「うん、それはもう。非常に満たされたとも。今度はそれ着てお出掛けしようね。あ、一つちょうだい」
「え? あっ」
ドラルクさんがトレーの上にだしていたしおっと萎びたポテトをひょいと一つ摘んで口に運んだので、珍しさで瞠目する。いつもは勧めたって滅多に食べないのに。「うわー、この体に悪そうな味!」しかめっ面のような笑い顔でいたく楽しげにしている。相当ご機嫌らしい……本当にずっと私の服を選んでいただけなのに。
「店名は例のごとく微妙に違うが、やはり私の世界のものと違いはなさそうだな。ってどうした、そんな微妙な顔して」
「いや……ただ、ドラルクさんって尽くすタイプなのかなぁって」
「さあ? きみがそう思うならそうなのかもね。まあ尽くすもなにも選ばせてもらっただけだが」
人の服を選ぶだけで満足って、私なんかよりよっぽどじゃないか。いつかの意趣返しのつもりでそう言ってみたが、ドラルクさんは指先をウェットティッシュで拭き取りながら軽く返すだけだった。……単に女性用の服を見るのが好きなのかな。
「今日はありがとね。付き合わせて悪かったよ。疲れたろう?」
「まあ。でも服の新規開拓もできたので、私も楽しかったですよ」
疲れたのは事実だが、ドラルクさんはどのお店でも真剣に選んでくれたから。『悪かった』なんてことはない。気分転換になったならなによりだ。
「夕飯もどこかで買って帰ります?」
「なんで? 作るよ私。ていうか作らせてよ」
気遣いからの進言は拗ねたような声で一蹴されてしまい、私はあれれと首を傾げた。料理をすること自体は苦に感じていない、ということだろうか。うーん、ドラルクさんのストレスゲージ、よく分からん。
「さて、帰ろうか?」
「はい? まだ帰りませんよ」
「え、まだ買いたいものあるの?」
「ええ。ドラルクさんの服です」
「……はい?」
ハンバーガーの最後の一口を薄くなったアイスティーと一緒に胃へと流し込み、包装されていた紙を折りたたむ。トレーの上を片付け、ぽかんとしているドラルクさんへ、にっこり笑った。むしろ私的には、こっちの方がメインなんだから。
◆
これで終われるわけなかろうとドラルクさんを半ば引き摺るようにして向かったメンズブランド店――の試着室で、私たちは今すし詰めになっています。大きな姿見に映っているのは私だけだけれど、個室はひどく狭苦しかった。試着室なんて大人二人で入る用に作られていないのだから、それも当然だ。「おい」向かい合わせで硬直していると、ドラルクさんが沈黙を破った。恐る恐る顔を上げ、じっとりとした瞳に身を竦ませる。
「手を繋ぎながらどうやって試着させるつもりだ」
「…………がんばってください」
「考えナシか!」
だって、と外に聞こえないよう配慮しながら顔を下げて泣き言を洩らす。「だってじゃない」と切り捨てるドラルクさんの声も、律義に潜められていた。
ドラルクさんに似合いそうなパンツがあったので諦め顔のドラルクさんにあてがってみたり――はたから見たらただ空中に翳してるだけだけど――していたら、店員さんに話しかけられたことが運の尽きというか。「こちら非常にお身体にフィットするデザインなので是非ご本人様にもご試着いただいて実際に履き心地を〜」みたいなことを言われた気がする。多分、『これ買いたいなら本人と来た方がいいよ』っていう親切な助言だったんだと思う。しかし急に話しかけられたことへの驚愕、虚空に話しかけたり商品を変に持ち上げる等の奇行を見られたんじゃないかという怯え、さっき食べたバーガーでの胸焼け、満腹感からくる若干の眠気、午前中の疲労、その他諸々の事情で一気にパニック状態へと陥った私は正常な判断ができず、店員さんの親切を正しく汲み取ることができなかった。『試着、ご本人様は一応いるけど、でも手を離したら着る間もなく家に帰っちゃうだろうし』なんてぐるぐる考えた結果「じゃあ私が着ます」と宣言してしまったのである。全然『じゃあ』じゃない。店員さんもご本人様って言っただろ話聞いてたかこの女と思ったに違いない。しかしそこはさすがプロ。一瞬驚かれはされたけれど、そんな侮蔑を表立って向けられることはなかった。すぐ隣からは「おいなに口走っとる」とか言われたが。そうして試着室へと案内され、ごゆっくりどうぞと扉を閉められ――今に至るというわけだ。
「私だってきみに試着してほしかったけど我慢したのに」
頭上から深い溜息が聞こえてきた。「だいたいね」言い含めるような切り出しに漠然と不快になる。
「いつ帰る身かも分からないんだよ、私は。そんな男へ与える服に金をかけてどうする」
淡々と、しかし呆れをたしかに滲ませた声。言外に『不毛だ』と言われているみたいだった。
「……そんなこと」
あなたがいずれは帰るのだろうということくらいちゃんと分かっている。そんなの――そんなこと今更言わないでほしい。
本心からの反論が胸中で渦巻いたがなんとなく音にしたくなくて、言葉を中途半端に切る。絞り出した声は、潜めていたからだろうか、自分でも不思議になるほど震えていた。返事のかわりに繋いだ手へと弱く力を込める。……なんか今の私、正論で諭されて拗ねる子どもみたいだ。ふと自分を客観視して気付き、後悔して手に込めた力を抜こうとする。けれどドラルクさんのほうから強く握り返されて目を見開いた。弾かれたように顔を上げて彼を見たが、ドラルクさんはどこか気難しい表情で、視線を下へと落としている。視線が合わないまま、繋がっていた手がドラルクさんの肩へと導かれた。
「そのまま肩に手置いてて」
「え、でも……」
「大丈夫だから」
離れようとした指先を咄嗟に握れば、先程とは打って変わった穏やかな声音で宥められた。恐々と言葉に従って肩に手を置き、固唾を飲む。瞬きをしても、ドラルクさんの姿が消えることはなかった。安堵と困惑に包まれる私へ、彼はほらねというように口元を緩める。
「初日の夜だって背中に触れているだけだっただろう? つまり身体のどこかしらを少しでも接触させていればいいんだ。そうすれば強制送還にはならないはずだよ」
「そっか、そういえば……」
ドラルクさんの強制送還は、幾度かの実験により、瞬き――というより、恐らく、『私“が”彼を視界から外す』のが条件だということが分かっていた。それがここにきて急に新たな事実の判明。
「全然気が付かなかったです」
「うん、えっと、あの…………私もたった今、その可能性に気が付いた。ほんと今。この瞬間ね。ほんとだよ、うそじゃない、いやマジなんで」
「そうですか」
やたらと念を押すみたいに主張されたが、最初から別に疑ってない。分かっていると頷けば、ドラルクさんは顔を背け、「…………ごめんなさい」と呟いた。なぜ謝る。
「じゃあ、あの……着替え、どうぞ」
「はーーーっ……はい」
溜息のあとの小さな返事は、観念したような声だった。沈黙の個室に、ベルトを外す音と、店内BGMであるボーカルのない古い洋楽が流れる。扉の外からの音楽は少しだけくぐもって聴こえ、この空間だけ周りから切り離されているような感覚がした。そのせいか流れる空気がゆったりしていて、首の後ろがそわそわしてなんだか落ち着かない。自由な方の手を自身の胸の辺りに置いてぎゅっと握り締める。あとついでに目の置き場にも困り、細かい瞬きを繰り返した。 ドラルクさんがパンツに足を通しているのか、目の前でもぞもぞと動いている。下を、着替えを見る気は当然ないんだけど、でも見ちゃいけない、見るな見るなと思えば思うほど、なんかこう、そういう意識が逆に働いてしまって、みたいな……。ああもういいや、目を瞑ろう。ぎゅっと瞼を閉ざして口を引き結ぶ。こうしてしまえばうっかり見ちゃうみたいな間違いを起こすことも――……ていうか、なんか、この状況……冷静になるとすごいあの――お、おかしいんじゃ。男女がこんな密室で――。
「はい、終わっ……」
「……え? 終わったんですか?」
「…………終わったけど。なんで目閉じてるんですか」
「や、別に……」
お着替えシーン見ちゃいそうだったのでとはとても言えないので、曖昧な笑みで返事を濁しながら瞼を上げる。硬い声通りの硬い表情にまさか心が読まれてるんじゃないかと危惧しつつも、しれっと彼の足へと視線を向けた。
「――あ、素敵です!」
「……ありがと」
やっぱり似合うと思った! 声量に気を付けながらもにっこり褒める。けれど返ってきた声は言葉ほど嬉しそうな響きをしていなかった。不貞腐れたような顔のまま本日二回目の深い溜息を吐き出した彼は、ゆらりと頭を傾けてくる。肩口へゴツンと額が落とされ、急な密着に心臓が飛び跳ねた。
「な、えっ、ど、どうしましたか?」
「別にぃ……」
別にぃ、な人はぐりぐりと押し付けてきたりしないと思う。でも体勢的に身動きもろくに取れなかったため、彼の気が済むのをどぎまぎしながら待つ他なかった。
◆
その後ドラルクさんの分の服も購入し、私たちは帰宅した。スーパーの前を通った際、窓ガラス越しに田中さんと目が合ったけれど、私もドラルクさんもこれ以上持てないからさすがに買い物できないため礼儀として軽く会釈だけしたのだが、田中さんはなぜか呆然としていた。
「――さ、夕飯はなにが食べたい?」
すっかりストレスフリーなご機嫌顔でエプロンを身につけながらリクエストを募集するドラルクさんに、たしかに有意義な休日だったなあと思った。
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