泡沫であれ、恋心


 あの後家へ電話をかければ、やはりドラルクさんがでた。予想に違わず、強制送還されていたらしい。ちょっとだけホッとした。『元の世界』に帰ったのでないかという可能性も頭を過ぎっていたから。
 軽く買い物をしてから家に帰り、扉を開けて真っ先に視界へ飛び込んできたのは土下座だった。ぎょっとしたし普通に引いた。いつからしてたんだ。
「すみませんでした」
「なにが」
「…………八つ当たりして。あ、あと置いてけぼりにして」
「あのあと幼女に『おねえさんまいごなの?』って無邪気に心配されました」
「ごめん」
「いずれ帰るってそういうことかーって思いました」
「申し訳ありませんでしたァ!」
 逆切れすな。吠えるようなヤケクソ叫びに目を眇めつつパンプスを脱いで家に上がる。その動きに合わせて立ち上がったドラルクさんは、流れるように私の手から買い物袋を取った。……そういえば本当に今更だけど、この人って色々手馴れてるよな……。
「わ、牛乳二本も買ってきてくれたの? 助かるありがと。でも重かったでしょ。……て、なにその顔」
「別に。それより八つ当たりってなんですか」
「グッ流せたと思ったのに……!」
 ドラルクさんが悔しげに歯を食いしばった。流させるわけないでしょ、なんの脈絡もなくいきなりあんなに空気悪くしといて。「……だって」ドラルクさんは暫く唸って抵抗したが、私が引かないと分かると、観念して口を小さく動かした。
「だ、だって……きみがあんまり無防備だから――」
「私? は? 私が? 悪いと? 仰るつもりですか? まさか? え? は?」
「ごめんうそ、うそですいまのは間違え悪いのは二千パーセント私です大変失礼致しました撤回します。えっと、あの、あの――あっ、ホームシック! ホームシックでむしゃくしゃしてましたすみません!」
 うん。やっぱり悪いのは私じゃない。ですよね知ってた。しかしなるほど、ホームシックか。こちらに来てから三ヶ月以上経っているし、それであれば情緒の不安定さも頷ける。ちょうどジョン君ロスしてたし、納得のいく理由だ。得られた回答に満足したので、手を洗うためにドラルクさんを追い抜かして洗面所へ向かう。洗面所に入る直前、背後からなぜか「ひどい」とかいう批難の言葉が聞こえたので振り返った。ドラルクさんは拗ねた顔をしていたけど、私だって多分負けず劣らずな顔をしていると思う。その証拠に、ドラルクさんは少し戸惑った表情を浮かべた。
「ひどいのはどっちですか」
「……いや、八つ当たったのはたしかに悪かったと思ってるよ」
「それじゃないです」
「え、じゃあなに」
「教えません」
「えっ?!」
 今度こそ扉を閉め切り、鍵もかけた。手を洗ってシートでメイクを軽く落とし、揉むようにしてクレンジングを顔に広げていく。顔面がドロドロになる感覚にそろそろかなと、勢いよく水をだし、扉向こうで未だなにやらギャーギャー騒いでいる声をかき消した。お椀にした手のひらはあっという間に満タンになり、ビシャビシャとあっちこっちに跳ね返って洗面台を濡らしていく。それでも私は水の勢いを弱めなかった。前傾になって手の中へ溶けた顔を突っ込むと、冷たい水が油分をふやかしていく感覚がする。数度それを繰り返し、メイクが完全に落ちたかという頃合で顔を上げた。鏡に映った私の顔は、しばらく水に浸かっていたせいか冷えて白くなっている。そんな頬を水滴が走り、ぽたぽたと落ちていった。なんの感慨もなくそれを少し見詰め、やっと水を止める。ドラルクさんの声は、もう聞こえなかった。
 私が無防備なんじゃない。あなたが人の心に入り込むのが上手すぎるのだ。だいたい、帰るというなら最初から変に関わろうとしてこないでほしかった。そうしたら、私はこんな生産性のない感情を抱くことはなかったのに。改めて顔を見て話したら、そんな思いはますます強くなっていた。
無論、これが八つ当たりだという自覚はおおいにある。それでも憤りを覚えずにはいられない。だって私だけ振り回されて、馬鹿みたいじゃないか。みたいもなにも、実際その通りなんだけれど。
 ◆
 最近牛乳の減りが異様に早い。中身のほとんど入ってない軽い箱を冷蔵庫から取り出し、ドラルクさんに話しかける。
「ドラルクさん、これないですよ、もう」
「えっ――あー、しまった、そうだった……」
 ドラルクさんはあちゃーと顔を顰めて包丁を置いた。シチューを作ってくれると言っていたけれど、この量では無理だろう。中身を覗いて、彼は「ごめん」としおらしく謝った。
「このところ、やけに喉が乾いてね……アー、しまったなぁ」
「最近暑くなってきましたもんねぇ」
 つい先週に世界は梅雨明けを迎えていて、外でもちらほらと蝉がわんわん鳴き始めていた。窓を開けていても夜は蒸すし、水分補給の量が増えるのは仕方ないことでもある。
「カレールーはないし、しょうがない、ポトフにでもするか……」
「あ、買ってきますよ、私」
「……スーパーで?」
「はい」
「だめ、却下」
 善意をばっさり切られた。なんでだ。
「……多分今日あいついるし」
「あいつ……田中さん?」
 ドラルクさんはむっつり頷いた。いたっていいだろう。彼はあの店の従業員なんだから、むしろいて当然じゃないか。
「なんでそう敵視するんだか……」
「してませんけど?! 別にあんなヤツ敵でもなんでもないが?!」
「うるさ」
 エプロンを外しながら顔を顰める。財布をポケットにいれていると、「おい!」と怒鳴られた。
「なに出掛ける準備してるんだ!」
「だってもうシチューしか受け付けない口になっちゃったんですもん。胃が完全にシチュー」
「えーん! 今度絶対作るからァ!」
「いやです、今日がいい」
「突然の駄々っ子! そんなキャラじゃないでしょきみ!」
 ドラルクさんって私をどういう人間だと思ってるんだろう。一瞬そんな引っ掛かりを覚えたが、とりあえず今は牛乳だと飲み下し、競歩で玄関まで向かう。パタパタと追いかけて来る音が辿り着く前に靴を素早く履き、勝ち誇った顔で玄関口から廊下を振り返った。
「なにか他に買うものとか――……ドラルクさん?」
 ドラルクさんは廊下の途中、洗面所の前で立ち尽くしていた。こちらから唯一見える横顔は愕然としている。
「どうしました?」
「……うつってる」
 鏡、わたし、映ってる。
 細長い人差し指が力なく上がり、洗面所を指す。ぽつりと落とされた言葉を一拍遅れで理解した。慌てて靴を脱いで彼に駆け寄り、倣って洗面所を覗く。鏡に映っているのは、当惑する私と、青白い顔をした長身痩躯の男。本当に映ってる……どうして急に――いやそれより。
「あの、この鏡ってこんなに曇ってましたっけ」
「いや……」
 ドラルクさんが毎日磨いてくれているおかげで、鏡はいつも隅から隅までピカピカだった。それなのに今は全体的に黒っぽく霞んでいる。こころなしかその霞はゆらゆらと揺れているようにも見えた。鏡の中で二人目を見合わせ、私たちはそろそろと鏡へと近付く。ドラルクさんは私を庇うように片腕を構え、少しだけ前を歩いた。一歩進むごとに濃くなっていく靄は、目の前まで来ると完全な人型を象り、一人の男を映し出した。
「――御祖父様?!」
『やっほ。久しぶり、ドラルク』
 驚愕するドラルクさんの声が耳朶を打つ。鏡に現れた背の高い、黒衣を纏った男――ドラルクさんの『御祖父様』は、表情筋を少しも動かさずごく自然に受け答え、朗々とした深い声音でかるーく挨拶をして、すっと胸前でピースを作った。向こうからもこちらが見えていて、声もちゃんと聞こえているらしい。話の通りお茶目というか泰然としているというか……動じなさがすごい。戦慄していれば、高い位置から緋色の瞳がぎょろりと落とされる。……あれ、この目、どこかで――。
「なぜ御祖父様が――あっやっぱり今回のこれは御祖父様の仕業だったんですか?」
『ちがうよ』
 ドラルクさんは剣呑な響きを宿した声で詰問したが、おじいさんは即座に否定し、ふるふると首を横に振った。
『ちがうけど、迎えに来た』
「……え?」
 短く切り落としたような凍りついた声は、私のものではない。だって私は、声をだすこと自体できなかったから。
『――帰ろうドラルク。みんな待ってる』
 みんな。家族や友人。ドラルクさんはいい人だから、彼を待っている人は沢山いるんだろう。ああ、あとジョン君。ドラルクさんも、会いたがっていたもんね。ふと突き刺さる視線に気付き顔を上げれば、おじいさんがつぶさに私を見つめていた。平坦な表情や、波風一つない赤い目からは、彼の祖父が何を考えているのか読み取ることはできない。先程それをどこか不気味にも感じたけれど、今はなんだか怖くない。忽然と心に穴を開けられたような、不思議な感覚に包まれていた。「そ、」引き攣った音が隣から絞りだされる。
「それって、いますぐ、ですか?」
『でもいいし、じゃなくてもいい。どうする?』
「えーっと、そう、ですね……私は――……」
 言い淀んで言葉を途絶えさせたドラルクさんは、首を僅かに回してちらりと私を見た。なんで私を見るんだろう。私になにか言えって? そんな、いま私が言えることなんて、そんなの――。
「…………買い物行ってきます」
「えっ? いやあの、今それどころじゃ――」
「今日は!」
 引き留めるように伸びかけていた手を、顔も見ないで振り払う。無駄に大きな声をだしてしまったことを反省し、調子を整えるために一つ息を吐いた。
「……今日は、シチュー、作ってくれなきゃいやです」
 反省しすぎたせいか、今度は蚊の鳴くような声になってしまった。静まり返った空気が居心地悪くなり、私は無言で鏡に背を向けて早足で玄関へと向かった。

「牛乳よく買ってますよね」
「え……ああ、今日はシチューなんです」
「なるほど」
 話しかけられて、そこで初めてレジを担当していたのが田中さんだったのだと気が付いた。家からスーパーまでの記憶がほぼない。いつの間に……。二本の牛乳がレジ袋に入れられていく。あ、エコバッグ、玄関に置きっぱだ。
「……シチューの美味しいお店知ってるんですけど、あの、今度――」
「行きます」
「えっ」
 差し出された袋を受け取り、食い気味で答える。目を丸くする田中さんを、正面からしっかり見た。
「ぜひ行きたいです。連れて行ってください」
 田中さんはいい人だし、これまでずっとお断りしてばかりだったし。なによりシチュー好きだし。そろそろ私も、彼にきちんと向き合わなきゃと思っていた。だからこれは、決して気の迷いとか、自暴自棄とか――失恋したから、とかではない。

 いずれ帰ると分かっていた。散々いい聞かされていたからそれはちゃんと理解していたし、置いていかれる覚悟だってしていた――つもりだった。けれど所詮、『つもり』は『つもり』でしかなく。いざ可能性を突き付けられると、こうも傷付いてしまうのか。帰らないでと、縋りたくなってしまうのか。自分の弱さに辟易する。

 ああもう、あんな人、好きになんてなるんじゃなかったなぁ。

 一人分だけ伸びるいつも通りなはずの影が、今はとてつもなく寂しいもののように見え、泣き出したいような気持ちに駆られた。
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