第八夜 印をつけましょう



 なに、あれ。

 ふに、と柔らかいものが潰れる感触。その温いとも冷たいともいえぬ不思議な温度。どれもが目を覚ましても、数日経っても、どれだけ擦っても忘れられなかった。隙あらば擦ってしまっていたため、とうとう額の一部が赤くなってしまった。いやだってなにあれ。え? 額に、え、な、は? なにあれ?!

 そうして眠れない夜を越すこと数度。日夜悩み続けた私は、ついに本人に直接聞くことを決意した。自分だけでは答えがでないと分かりきっていることをいつまでも一人で悶々悩んでいたって仕方ない。

「っあのっ、どらどらちゃ――」
「はーいグッモーニン。そんじゃおてて繋ごうね〜」
「あっはい」

 先に起きていたどらどらちゃんの姿が視界に入るなり飛び起きる。けれど有無を言わさない笑顔を前に、呆気なく流されてしまった。

「うーむ、もう見れないとなると急に寂しくなるものがあるな……きみ、次はまたあのTシャツ着てきてよ」
「えー、まあいいけど……じゃなくて! まえ、この前の!」
「前?」

 すっとぼけた顔の彼女をじっとり睨む。どらどらちゃんは居た堪れなそうに緋色の瞳を揺らした。

「……この前がなにかね?」
「なにって……お、おでこ、き、きす、した」
「ゴーレム?」

 ツッコミをスルーして目で抗議する。どらどらちゃんは、落ち着かないのか逸らせない瞳の代わりにそわそわと指を動かしていた。中手骨の間をすりすりと擦る指が擽ったい。

「あの、アー……ほら、もしかしたら一度した場所はノーカン、とかあるかもしれないだろう? 同じ指示が二度もくるなんて妙だから裏読みしたのだよ。念には念を入れただけさ」
「な、なるほど……? でも私は手にしたけど大丈夫だったよね?」
「それは私が場所を変えたからだとも。前回目覚めることができたのは私の機転のおかげといっても過言ではないな!」
「……そうかなぁ」

 どらどらちゃんは得意げにそう言い切ってふふんとしたり顔をしたが、どうしてもそうは思えず、眉の力を抜くことができない。ただの直感だけど……別に同じ場所にしたってクリア判定になってた気がする。私が猜疑を湛えた表情を崩さずにいると、彼女は急に顔をぐしゃりと顰めて「ああもう!」と不機嫌そうに犬歯を見せた。

「どこにキスしたって別に構うことないだろ。なにか問題でも?」
「は?! か、構いますけど?! なに言ってんの……?!」
「そんな驚くことがあるかい? だって我々は恋人じゃないか」
「コッ……?!」

 いきなりどんな開き直り方だと絶句して狼狽する私に、どらどらちゃんは「おや?」と、片眉をひょいと上げた。

「初めにそう指示があったことを忘れたのか? その時『恋人としてよろしく』と最初に言ったのはきみのほうなんだが?」

 今度は私が睨まれる番だった。恨みがましいといった視線に思わず身を縮こめる。私から言ったんだっけ……? で、でも、それはだって、そうしないとどうにもならなそうだったから、仕方なくなのに。

「い、や、でも……あの――」
「恋人だから、」

 彼女にしては低い声が言葉に被ってきて遮られた。握る力が増し、彼女の滑らかな手が一層強く押し付けられる。

「こうやって手を繋いで――」

 ふわりと空気が動き、整った相貌が急にぐっと寄ってくる。驚いて反射的に目を瞑った次の瞬間、目尻に柔いぬくもりを感じた。

「――こうして、キスもするんだろ」

 そっと姿勢を但し、彼女はほとんど吐息だけでそう囁く。独特の赤が、すぐ目の前で仄暗く光っていた。思考を止めて呆然としていれば、不貞腐れた面持ちで「違うの?」と問われる。その詰るような声音にびくりと肩が跳ねた。

「ぁ……ち、ちがわ、ない……?」
「だよね!」
「エッ?!」

 雰囲気に呑まれてしまった。でも本意ではないことは、まごついた返事やどっちつかずに上がった語末、そして呆然とした表情で敏い彼女には充分伝わっていたはずだ。にも拘わらず、彼女は爛漫な笑みを作った。今日一番のとっても可愛らしい笑顔だ。しかしごめんね冗談だよと言ってくれるのではという淡い期待を抱いていた私は、呆気なく裏切られたことにさらに動揺してしまう。

「え、え?!」
「じゃ、次は君の番だね」
「次?!」

 恋人問題も突然のキスも『だよね』ショックもまだ乗り越えられていないのに、えっなに次?! 君の番?! さらりとした無慈悲な宣告にぎょっと身体を強ばらせる。「ん」そんな私を気にせず、彼女はお行儀よく目を瞑ってついと顎を上げた。瞳は穏やかながらも固く閉ざされていて、私がキスを返すまで開かれることはないだろうとなんとなく分かってしまい、眉尻が垂れる。選択肢は、ひとつしかないみたい。やりようのない感情が、きつく噛み締めた歯のさらに奥、喉から切れ切れの唸り声として変換される。えーん、なんだこの頑なさは……。これはもうやるしか……やるしか、ないのか……。大きく息を吸って、ゆっくりと身を乗り出す。息を止めて目を瞑り、頬骨の辺りへと一瞬だけ唇を触れさせた。急いで離れるつもりだったけど緊張のせいで身体が固くなっていて、うまく動けなかった。本当にゴーレムになってしまった気分だ。

 ホッと小さく息を吐く。押し付けていた時間は多分一秒も満たなかったけど、もう学生時代の卒論発表会並に神経がすり減った。あああ疲れたよ〜……。

「あははっ! きみ、ぎこちなさすぎでしょ!」
「ピッ」

 完全に距離を取り直す前に小さな頭が倒れてきて、すり、と猫のように肩口へと擦り付けられる。いきなり過ぎて再び呼吸を止めてしまった。叫びたかったところをなんとか奇声に留めたことを褒めてほしい。胸の中から上がった弾ける笑い声が耳朶を揺らす。

「なんでそんな楽しそうなの……」
「恋人とのキスだぞ。楽しいに決まってる」
「ミッ」

 ずっと聞きたかったことを絞り出すが、なんてことないとでも言いたげに、謳うような声で返される。また死にかけの蝉みたいな鳴き声をあげてしまった。こい、こいびと。こいびと? えっ本気でそう思ってる? それとも酸いも甘いも噛み分けた吸血鬼として経験なしニンゲンを揶揄しているだけ? 判断が付かず――というかこれに対する相応しい返答も分からないため声を出せなかった。ええ、なに、なにこれ……本当になに〜これぇ……もしや弄ばれてるんですか……?

「……きみは?」
「へ?」
「さっきから煮え切らない反応ばかりだし……――もしかして、いやだったの?」

 細い線のような頼りない声色は、聞いたことがないものだ。髪の中へ差し込まれた手が遠慮がちに動く。眉一つ動かさず平然とキスできる人と同一人物とはとても思えないような触れ方に、ふとどらどらちゃんは髪を撫でる仕草だけはなぜかずっとぎこちないということに気が付いた。その奇妙な拙さに、ぐちゃぐちゃになっていた情緒が少しずつ鎮まり、混乱が解けていく。

 所在なく浮かせていた手を細い腰へ回して彼女を抱き締めると、視界の端で尖った耳がぴくんと動いたのが見えた。どらどらちゃんの後頭部を緩く撫でる。

「いやじゃないよ」

 前回も、もちろん今も。ただずっと困惑していただけだ。嫌悪感を覚えたことは一度としてない。なにもかもが不慣れなため、おかしな反応をすることしかできないが。そこはもうそういうおもちゃだと思ってほしい。とにかくイヤなわけじゃないのだ、本当に。
 ……ただその理由が果たして『恋人だから』なのかは、いまいち確信が持てない。なんならその設定はさっきまで忘れていたくらいなんだから。まさかどらどらちゃんがそれを覚えていて、且つその設定を忠実に守って行動していただなんて、夢にも思わなかった。夢なのにね。つってな!

「最後のクソギャグなに? クソさにびっくりして死ぬかと思った」
「えっごめんそんなに……?」
「うん。……ま、イヤじゃないなら、とりあえずはそれで充分だよ。とりあえずは」

 空気が一気に和らいだので私も安心する。念押しのような復唱は気にしないことにした。ちょっと意味がよく分からないし。
 どらどらちゃんはもぞもぞと動いて体勢を変え、私の首へ手を回し抱き着き直すと、首の付け根へ一度顔を埋めた。それから腕を回した状態のまま僅かに身を離し、隙間を作る。目と鼻の先に現れたどらどらちゃんに瞠目する私へ、彼女は満足気な微笑みを深めてからちょこんと唇を尖らせた。耳元でしたちゅっという音に身を引きかける。けれどしっかり抱き着かれていたので大した逃走にもならなかった。

「ダッッッなっ、なに?!」
「なにって、二回目のキス指令」
「あ、ああ、そう……」

 そういえばそうでした……問題のダブり指令……。どぎまぎと上擦った返事をする私に反し、彼女は機嫌よくころころ笑った。猫のようにゆるりと細まった瞳に、うっと息が詰まる。催促されている……。一目瞭然だった。手じゃだめ? とか言い出せる雰囲気では到底ない。腹を括って、彼女と同様耳の縁――は、ちょっとハードルが高かったので、ほっぺに唇を触れさせる。唇を離した途端、彼女は抱き着くのをやっとやめ、口を手で覆いくすくす笑いはじめた。離れてくれたのはいいけれど、なん、なんだその反応はァ……。

「う、ン、ふふ」
「えーん、なにわろてんねん……」
「ごめんつい。だってかわいくて」
「なにいってんの?」

 急にあっさりと落とされ、素で返してしまった。どうしたこの子。えっどうしたこの子! この前距離近いとかってお説教してきたけど私よりよっぽどじゃん! え?! こわっ。若干の怯えを抱きつつ、いつものカードを探して首を回す。お決まりの流れになら指示が更新されているはずだから。見つけたカードへ急いで手を伸ばす。

「はい次、次は、えー……『印をつけましょう』!……?」
「えっ」
「印……? なんの? どこに?」

 なにか物が追加されているのかと部屋を見回すが、相変わらずこの部屋にはなにもない。なんのこっちゃと脱力する。ここにきてとうとうバグっちゃった? 予兆はあったよね、直前のダブり指令といい。

「う、あ、あー……でき、う、いや、私はできる、けど……」
「えっそうなの?……なんで私はできないの?」

 私と彼女の違いといえばまあ色々あるが、最たる例といえば種族だろう。急に吸血鬼にしかできないことを要求してくるなんて理不尽では? この部屋はずっと理不尽だけれど、これはいくらなんでもひどい。「できないっていうか」憤慨する私に、どらどらちゃんはまた歯切れ悪く唸る。

「いや、できなくもない、とは思う。多分だけど……」
「本当? ならやろ!」
「ええ……本気?」

 これこそ選択肢は他にない。当然と熱意を込めて頷く。彼女は悩ましげに眉根を寄せていたが、やがて諦めたように息を吐き、そろそろと上目遣いをした。

「……牙が刺さってしまうかもしれないから、できるだけ動かないでくれよ」
「え、なに――ひッ……?!」

 またどらどらちゃんが私の首元へ顔を近付けた。熱い生き物が首筋を這ったような感覚に声が高く裏返る。一拍遅れて彼女に舐められたのだということが分かった。なに、なにを、えっ? 混乱からどらどらちゃんを押し返そうとしたが、それより早く、こちらの動きを制するように両肩を軽く抑えられた。濡れた箇所に唇をぴっとり押し付けられ、皮膚を軽く吸われる。背筋が粟立つようなむず痒い触れ方に暴れたくなってしまう。全身にぎしりと力が入った。いつも鳴らされる口付けの音とはなんだか違う水音が鼓膜へ届き、それにもさらに羞恥心を煽られる。なにがなんだか分かっていない私の肌をそうして何度か吸った後、彼女はようやく顔を上げた。赤らんだ頬で気まずそうにしている。

「……って感じなんだけど」
「……は……?」
「いや、多分……印って恐らくキスマークのことかと」

 どらどらちゃんは強ばった顔で弱々しく口角を吊り上げた。きすまーく。彼女の台詞を、時間をかけて読み込む。印は、キスマーク。

「…………む、むり。いやむり。え? むり。むり! むりむりむり!! むり!!」
「うん、ですよね。……でもきみ、眠気きてる?」
「ないです……」
「じゃあつまりそういうことだよ」
「むり〜〜〜?!」

 口を叩くようにパシッと抑えた。何気なく触れた首筋がちょっと濡れていて、その事実にただでさえ沸騰直前くらいに高くなっていた体温がまた上がる。

「でも一生ここにいるわけにもいかんだろ」
「いやほんとにむり〜〜〜……なん、だけど、それはそう……」

 一生目が覚めなかったら現実の私はどうなってしまうのだろう。それに食糧のないこの部屋で一生を過ごすのも不可能だ。なにより、私一人ならまだしもどらどらちゃんがいるのだから。ていうかさっき元気いっぱいで『やろ!』とか言ったばっかりだし……。

「ね、ちょっとがんばってみない? 教えてあげるから」
「うう、う…………はい……」
「いい子だね」

 私を鼓舞するように微笑した彼女は、明るい色をした髪を片側に寄せ、鼻先を横へ向けてか細い首筋を晒した。深呼吸を数度してから、やけに重たい頭をふらりと近付ける。どらどらちゃんはそんな私の項へそっと手を添え、宥めるように撫で動かした。なんでこんな時だけ滑らかに撫でられるのか甚だ疑問だ。

「一度軽く舐めたらやりやすいから、最初に――そう――それで、唇全体を押し付ける感じで……口を窄めて何度か軽く吸ってみて」

 彼女の教えに従い、無心で繰り返す。ひと吸いする度に逐一皮膚を確認してみたが、なかなか赤くならない。私作、生まれて初めてのぼやぼやした楕円のような不格好なキスマークは、どらどらちゃんの時よりもずっと時間をかけて完成した。どらどらちゃんの肌の透明感に大感謝。目立つのはあれだが、薄くてもちゃんとキスマークしましたよ感でるの、助かる。ヤケクソ達成感でから笑いしながら、そのまま後ろに倒れた。今日だけで恐ろしく精神が摩耗した。苛む眠気にはこの疲弊も絶対換算されているだろう。どらどらちゃんが白い天井を遮ってひょっこりと視界の中に映りこむ。

「顔真っ赤」

 それはどらどらちゃんもじゃんか。

 そんな反論を音にすることは、残念ながら叶わなかった。そもそも本当に赤かったかすら、視界がボヤけていたせいで定かではないけれど。




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