第七夜 キスをしましょう
有名海外ブランドのショップへパジャマを買いに赴き、あっこれかわいいな、と何気なく見たパジャマのタグを三度見した。急に服を持つ腕が重くなった気がする。普通の服でもここまでするものは買ったことない。別にいいことがあったわけでもないのに、自分へのご褒美にしてはやりすぎだ。尻込みして手にしていた商品をラックへ戻しかける。しかしこれを着た自分を彼女に見せたいという気持ちと、『たしかにいい大人がいつまでもクラTで寝るのもな……』という気持ちも切り捨てきれなかったので、思い切って購入した。いいことはこれから作ろう。寝るのに相応しいパジャマを着用しての就寝は睡眠の質向上にも繋がる……らしいし。着てみて数日経つが、そんな宣伝文句の効果はまだあんまり実感できていない。すべすべな肌触りは気持ちよくて快適さは感じるので、とりあえず今後に期待である。
「はよ。何日ぶり?」
「五日」
「同じだ。流れる時間に差異はないんだな……おっ?」
そうして謎部屋招集。起き上がった私を見るなり、どらどらちゃんは小さく声をあげた。片眉がひょいと上がった、ちょっと感心しているような顔に口が緩みそうになる。精一杯の澄まし顔をし、両腕を広げ彼女に自分の格好がよく見えるようにしてみせた。
「どう?」
「いいじゃないか、素敵だよ」
「やった! ね、触ってみて」
率直な褒め言葉に今度こそ我慢せず頬を溶かした。へへ、買ってよかった! 服のすべすべさを共有したくてほら、と曲げた腕を突き出すと、彼女は袖口を指先で控えめに摘んだ。
「ほお、なかなかに上等なサテン。これは寝やすいだろう」
わあすべすべだね〜キャッキャってしたかっただけなんだが、生地ソムリエされた。さすが二百歳……。いい生地を纏うと寝やすくなるのは万界共通認識らしい。とりあえず頷いておき、ついでに手を繋いでおく。カードは確認してないけど、どうせ指示のほとんどは変わらないんだから。私たちは手を繋いで見つめ合って雑談、までは疑問を持たずスムーズに行えるようになっていた。
「努力賞クラT人間が奮発したな。どんな心境の変化?」
「心境っていうか……どらどらちゃんが可愛いと思ってくれたらいいなって思って? どらどらちゃんのために買ったようなものだよ」
年齢やらを省みて客観視したときの痛さの可能性に気付いてしまった、よりかはマシと思える理由を口にする。彼女は口を閉じて真一文字にした。さっきまで歓談していたはずなのに急に険しい顔つきになったどらどらちゃんに狼狽える。
「え、かわいくない?」
「…………かわいいけど」
不穏な語尾と固い表情に、自然と私の顔も曇ってしまう。けど、なんだろう。言葉の続きを待つが、一向に紡がれない。彼女はなにか言いたげにしながらも、むっつりと黙り込んだままだ。さっきまでの嬉しかった気持ちが嘘みたいに萎んでいき、冷水のような不安感が胸を中心にじわりと全身へと広がっていくような居心地の悪さに襲われる。つい服を見下ろしたくなったが、目を逸らしてはだめなのでなんとか堪えた。
「……これ、そこまで似合ってないかな」
私の年齢にしては可愛すぎたのだろうか。パジャマ姿を人に見せる機会もないし、高い買い物をしたということにテンションが上がってそこまで気が回っていなかった。吹けば消えそうな灯火みたいに情けない声に、どらどらちゃんはまたさらに顔を顰めた。噛み締められた下唇にひっそりと皺ができる。
「……にあってる。似合ってるよ。年相応に大人のレディって雰囲気もありつつ華奢に見えて、シンプルながらもきみにぴったりなデザインだし可愛いと思うよ。……本当によく似合ってるから、そんな顔しない」
繋がっていない方の手が伸びてくる。親指で目の下をそっと撫ぜた彼女は、仕方ないなというように眦を落としていた。
「私が、アー……その、色々と言い淀んでしまったのは、きみの言葉に、少し驚いてしまったからで」
「え?」
「ほら、私のために買った、とか言ったろ?」
それがなんなのかと躊躇いがちに頷けば、彼女はもどかしげに口を歪めた。
「あんな文句、普通はなかなかサラッとでんだろ。恋人いたことないとか嘘じゃん」
「いいいいたことないなんて言ったことないですけど?!」
「いや隠す気なかっただろ。なにを今更。ああ、言っとくが、小学生時代の『私たち好き好き同士なの〜』はノーカンだぞ」
うっと黙り込む。なにせそんな経験すらなかった。なんだそのマセガキの例は。
「でも友達にはこのくらい言わない?」
「い、言わん。きみのパーソナルスペースどうなってるんだ」
「えー……周りの子もわりとこんな感じだけどな」
「周りの子……」
「うん」
彼女はまだ納得できないのか、怪訝そうに頭を少し傾けた。なんとなくその仕草を真似しながら、補足してみる。
「女同士なら普通じゃない?」
分かりやすくなったはずだ。それなのに彼女はなぜか呆気に取られた様子でぽかんとした。のも一瞬で、たちまちぶわっと頬が赤く染まり上がる。彼女はわなわなと口を震わせたが、またしても音を発することなく静かに結んだ。
「どら――」
手が持ち上がったので、咄嗟に言葉を呑み込んだ。彼女の顔へと導かれていった手に、指示が例のもの――『キスをしましょう』へ変わったのだと理解したが、しかしそう分かっても困惑する。だって普段より強めに唇を押し付けられていた。いつもは触れるか触れないかだし、あっという間に離れていくのに。唇の柔らかさをこんなにしっかり感じたのは初めてだ。一、二、三……しかもかなり長い。彼女が口付けた体勢から微動だにしないので、寝たのかと思ってしまったくらいだ。たっぷり十秒近く経ってから、やっと彼女はちゅ、というささやかな水音を立ててゆっくり頭を上げる。聞き慣れたはずの音は、どうしてかいつもよりわざとらしく響いて聞こえた。知らず詰めていた息をそっと吐き出す。なぜか呼吸も躊躇われるくらい張り詰めた空気だった。
ひっそり安堵していれば手をぎゅっと握られたので、何気なく彼女を見る。
「……」
「……あっ、ごめん、私もやらなきゃだよね」
抗議の瞳を差し向けられ、僅かに狼狽えつつ彼女と同じことをする。さっきまで緊張していた反動か、逆に今のほうが心持ち穏やかに任務をこなすことができた。なんなら今までで一番スマートだった思う。覚束無さはもはやゼロ。手にキスくらい慣れたものだ。それなのに彼女はますます機嫌を損ねたように眉をひそめた。な、なに、なんなのこの子さっきから。
「……えい」
「わっ」
急に腕を引かれ、彼女の方へと倒れ込んでしまう。頭を抱え込むようにして抱き締められていた。
「え、あ、指示変わった、の?」
当惑しながらも空いた手を回して肩甲骨あたりへ添えるが、やっぱり彼女からの返事はなく、ただぎゅうと力が加わっただけだった。……また受け身の姿勢をとっちゃった。でも今回はしょうがないよね。なんか機嫌悪い感じだし……。触らぬ美少女に祟りなし。私は人形。どうぞお好きになさって下さい。
しばらくの間は、そう抱き枕に徹していた。けれどあんまり続く無言の時間が心許なくなってきたに加え、体勢もじわじわとキツくなってきていた。どらどらちゃんは私より小柄なので、抱き込まれているこの体勢は首と腰が痛い。彼女の腕の中でもぞもぞ身動ぎをして収まりのいい位置を探していれば、後ろ髪を梳かすように撫でられる。指示が更新されたみたいだと察し、私も彼女の真似をして後頭部へ手を伸ばした。
「『キスをしましょう』」
「へ?」
ずっと黙りっぱなしだったどらどらちゃんがようやく声を発した。かと思えば、紡がれのは数個前の指令。腕の力が弱まったので身を起こして彼女と向き直る。赤い瞳は脇に置かれたカードを捉えていた。お馴染みのカードには、どらどらちゃんが今さっき口にした文章が輝いている。
「え、ネタ切れ?」
「かもね」
つまらなそうに肩を竦めた彼女にハッとする。これはチャンスでは。ハグはできなかったけど、今度こそ私が先手を打てるのでは? やってやるぜという意気込みを抱いて善は急げと彼女の手をとる。漲る気合いの効果もあり、もたつくことなくサッと素早く一度キスをすることができた。ついさっきもやったばっかだしね。パッと軽やかに白い手を解放し、どうだと彼女を窺う。どらどらちゃんはきょとんと目を見張っていた。
「んふふ、ちょっとは成長したでしょ!」
「そうだね」
胸を張る私へどらどらちゃんは眉を下げた微笑みを浮かべる。それから目を伏せ、かかる睫毛の影を濃くした彼女は、なにかを思案するように薄く開いた口許に軽く曲げた指を添えた。何を考えているのか、いまいち読み取りづらい表情だ。私が見守る中、彼女は膝立ちになって私の頭を両手でやんわりと抑える。前髪が横に寄せられ――それから数拍して、額をふわりと撫でた息遣い。
「……え、」
「――おやすみ」
頭を後方へと柔らかく離され、ぽふんと枕へと頭が沈んだ。ミッション達成を伝える微睡みが凄まじい速度で意識を侵食していく。瞼の重みのせいで、私を見下ろしている彼女がどんな表情をしているかは、見ることができなかった。
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