日差しが照り付ける、カラッとしたイタリアの朝。
少し寂れているが手入れの行き届いた小さなアパルトメント。
「おはようございます、リゾットさん」
「ああ、おはよう」
隣人同士は爽やかな朝の挨拶を交わしている
……かに見える。
なまえの方は自分が持ちうる愛想という愛想をフル動員していた。
別に彼が推しキャラだからというわけでない。そんな思考ができていたら、なまえのトリップ生活はパラダイスであっただろう。
なまえにとって事態はもっと切迫していた。
ここはジョジョ世界なのである。
なまえが元いた平和な世界に比べれば修羅の国といっても過言ではない。
もしかしたら道端の猫がスタンド使いで、うっかり尻尾を踏んだだけで殺されるかもしれないし、ネズミに生きたまま喰われるという悪夢に見舞われるかもしれない。
そういう危険がゴロゴロ転がっている世界なのである。
──恐怖だ。
恐怖以外の何物でもない。まさしく一寸先は闇。犬も歩けばスタンド使いに当たる。
なまえの場合は歩かなくても当たってしまった。
なんと自宅の隣人がリゾットだったのである。
このことを知った時のなまえのショックは計り知れなかった。
なまえはトリップしてきてからずっと周りに対して八方美人と言ってもいいくらいに愛想よく、誰からも反感を持たれないよう、波風立てぬよう過ごしていた。
それこそ道端の猫にさえ気を遣っていたのだから、なまえの努力は涙ぐましいほどである。
だからこそ隣人が暗殺チームのリーダー・リゾットだと分かったなまえはそれまで以上にこの世界へ自分を連れてきた神を恨んだ。
幸いにして愛想を振りまいた成果により、ご近所ネットワークの輪に上手く溶け込んだなまえが集めた情報では、リゾットはあまり頻繁には家に帰ってきていないし、部屋に他人を連れ込んだりもしていないそうだ。
そこから隣室はおそらくアジトなどではなくリゾットの個人的な住まい、もしくはセーフハウスの一種だろうとにらんでいる。それに少しだけなまえは安堵した。
これで隣室は暗殺チームのアジトなんていう設定だったら、貯金がいくら心許なくともなまえはすぐにでもホテル暮らしを始めていたことだろう。
いつでも夜逃げできる準備はしつつ、リゾットの様子をバレない程度に探っていたが、なまえの予想に反してリゾットはまともな隣人であった。
アパルトメントのルールは守るし、挨拶をすれば礼儀正しく応えてくれ、不審な行動も一切しないし、服装もまともだ。
──よし、これなら貯金を溜めて引っ越すまでなら大丈夫だろう。
そう判断したなまえだが、話はここで終わらなかった。
どうにか貯金をためて早く出て行こうと決意した矢先に、リゾットとは逆隣に引っ越してきた隣人も、またなまえの頭を悩ませた。
そちらは原作キャラではなかった。
キャラではなかったが、世間一般的にあるご近所トラブルを持ち込んできた。
夜中に爆音といっていい、騒音。
それが、毎日。なまえの耳にダイレクトアタックをしかけてきたのである。
しかも、注意を促したところで聞きもしない。猫も真っ青な八方美人の面をかぶっているなまえでもブチ切れそうになった。
右の隣人は暗殺者、左の隣人は騒音魔。
とんだ事故物件である。
なまえが良心的な不動産屋だったら、まず入居者を募集すらしない。
遠まわしに死んでほしい相手に勧める程度にとどめるだろう。
ここで問題なのは、なまえにスタンド能力はない。
だが、ここはジョジョ世界。修羅の国。スタンドも幽霊もいる世界。
騒音に悩まされ続け、頭がほどよくシェイクされたなまえは、もしかしたら何かしらのマジカルパワーが働くかもしれないと、騒音魔を模した藁人形を探し始めた。
俗にいう、丑の刻まいりである。
正気なら何を考えているのか分からない行動である。騒音により正常な判断ができなくなった証拠だ。
だが、なまえがこのイタリアで売っているのかでさえ分からない藁人形を探し当てるより先に事態は急展開した。
──なんと騒音魔が緊急入院したのだ。
ついに自分にスタンド能力が発現したのか、騒音魔は元から何かしらの持病を患っていたのか、判断しかねたなまえが近所の情報通に尋ねれば返ってきたのは意外な返答であった。
「なんでも、急に口からカミソリが生えてきたーって騒いで入院したそうよ。まあ、元からおかしな人だったから薬でもやってたんでしょーね」
名探偵の資質などまるでないなまえでも、その証言だけで犯人が分かった。
真実はいつも一つ。
そして、いともたやすく行われるエゲつない黙らせ方に戦慄した。
「えっ、コワッ。下手したら死んでない? なんでギャングすぐ殺そうとするん? 沸点低すぎでは…?」
自分のことを棚に上げて藁人形を用意しようとした人間とは思えない感想である。
あらためて隣人は怒らせたらヤバイと再認識したなまえだが、それでもいかばかりかリゾットに感謝の念を覚えた。
まさか暗殺者に感謝する日がくるなんて、なまえの平凡な人生では思いもよらなかったことだ。つくづくジョジョ世界の物騒さが伺える。
「しばらくお見かけしませんでしたけど、またお仕事で遠くまで行かれていたんですか? せっかく帰って来たんですから今日ぐらいはゆっくり休んだ方がいいですよ」
「ああ、そうだな。ありがとう」
それからは今まで以上にリゾットへは愛想よく、今では挨拶だけではなく雑談まで交わす仲になっていた。
平和な現代日本人とジョジョ世界の暗殺者という埋めようのない深さで価値観が違うため、何が逆鱗に触れるか分からない。
うっかり怒らせたり、逆に気に入られたりしないようリゾットの様子にはなまえは細心の注意を払っていた。
元々空気を読むのが相対的に上手い国柄で育ってきたため、そんなに苦ではなく今では“よき隣人”の関係を築けている
── となまえだけが思っている。
※※※
リゾット・ネエロにはチームのアジトのほかに一つだけセーフハウスを持っている。
真面目なリゾットは仕事に何かあればと基本的な生活の拠点もアジトにしているが、極たまにセーフハウスでのんびり過ごすこともあった。
そんなセーフハウスであるアパルトメントの隣室に、東洋人が越してきたのはしばらく前の事だ。
イタリアーノにしても体格が良いリゾットに比べれば、華奢過ぎるほど華奢な娘であった。
その華奢で気が弱そうな外見に反して、娘は無愛想と言ってもいいリゾットに対しても物怖じせずに挨拶をしてきた。
「初めまして、先日こちらに越してきたなまえと申します。隣室の方ですよね?」
これにはリゾットも少し驚いた。リゾットは外見的に決して話しかけやすい態はしていない。むしろ、どこかしら漂う凄みのある雰囲気に周りは無意識に気圧され、同じアパルトメントの住人でも話しかけられることはないと言っていい。
おそらく彼女は人懐っこい性質なのだろう。
そう片付けたリゾットにとって、その隣人は、それ以上の印象を本来なら抱かないはずだった。
だが、彼女はリゾットが自身で思うよりも、リゾットの瞳に映り込んできた。
近所のマダムと雑談に興じて、楽しそうな無邪気な笑顔。
──万華鏡のようにコロコロと変わる表情は、きっと一日中眺めたとしても飽きることはないだろう。
道端の猫にすら気を遣いながら優しく撫でる仕草。
──細く柔らかな白い指先には自分が到底持ち得ない慈しみが込められていた。
遠くを見つめる、きらきらとした瞳。
──きっと彼女の視界に映る世界は、自分のそれとは違い、美しいのだろう。
それらが、目を逸らそうとしてもリゾットの瞼裏にまで焼きついて離れなかった。
けれど。
ただ、それだけだったらリゾットはすべての想いに蓋をして、何もかも見ないフリができた。焼きついて離れない光景すら、自分とは違う世界のものとしてなかったものにできた。
そう、できたはずだったのだ。
── いつも明るい彼女が、泣いている声を聞くまでは。
夜中に隣室から聞こえる、声を押し殺したような嘆き。
リゾットは暗殺を生業としているが、思慮深い男である。
その毎晩すすり泣きながら故郷を恋しがる彼女の様子に何かひとかたならぬ事情があり帰れないのだろうと、無性にリゾットの庇護欲が掻き立てられた。
芽吹き始めた恋心に庇護欲まで煽られてしまえば、あとは落ちるだけだった。
騒音魔を追い出したのはそれが理由である。
その追い出し方が容赦ないGoingギャング方式だったため、なまえをビビリ上がらせているとは知るよしもない。
……リゾットは思慮深い男だが、暗殺者を生業としているためか、やはり普通とは感覚がズレていた。
隣室から女のすすり泣きと怨嗟すら滲ませる独り言が毎夜聞こえてくるのである。しかもなまえは寝付きが悪いので、下手をしたら1時間以上は呟き続けている。軽いホラーだ。
普通の感覚の持ち主なら、まず庇護欲よりも先に、その只ならぬ狂気と言っても過言ではない様子に恐怖を抱く。
なまえもとんだ事故物件な隣人である。
100年の恋も冷める事案だが、リゾットの惚れた欲目と常人とは掛け離れた感覚ゆえだろう。
そんななまえをリゾットは辛いことばかりでも明るく隣人への思いやりを忘れない健気な娘だとも思っているのだから、ある種、釣り合いがとれていると考えられなくもない。
── リゾット・ネエロは隣人を愛している。
「おはようございます、リゾットさん」
「ああ、おはよう」
その、普通ならとるに足らない、ささやかなやり取り。
それだけが、心を満たす全てでも。
隣人は密かに愛する