―――― 嗚呼、買物なんて明日にすればよかった。
まだ忘れられない彼が向こうに見える。わたしよりも先にこちらに気づいていたらしい彼に近づかれていて、逃げ場がない事を悟る。

仕事をやめてから、私は携帯番号も変えて何も彼と繋がれるものをなくしていた。
そして生活圏を限定して極力家から出ないようにしていれば顔を合わせることはなくなった。

彼からすれば不審に思われたことだろう。
何も言わず、急に仕事もやめて連絡もつかなくしたのだから。

義理堅い彼の事だからすごく心配してくれて……
いや、夢を見るのはやめよう。きっと怒っている。

目の前の、視線だけで人を殺せそうな仏頂面が無言で私を見据えていた。


「お、お久しぶりです」
「ああ、本当にな」
「さ、寒くなりましたね!」
「ああ」
「…………」

久しぶりの中原さんとの会話は数秒も経たないうちに終了し、沈黙が流れる。
はっきり言って気まずい。そう遠くないのに前は何をあんなに話していたのかわからなくなる。

そのまま立ち去ろうとするわたしを中原さんは「送っていく」とぶっきらぼうな声で引き留める。
上手く断る言葉すら見つからず、無言のまま二人で並んで歩き始めた。


「…………」

「…………」


こっそりと窺うように横顔を見て ―――― すぐに後悔した。

嗚呼、好きだなあ。

不機嫌そうに細められた目が遠くを見つめる様も、さりげなく私を車道からはなす仕草も、歩くペースを合わせてくれることも。

それは離れた時から、何一つ変わっていない。
風が吹いて、彼が帽子のつばを直す。
そして私を気遣うようにチラリと視線をよこした。

それを見ただけで寒さの所為だけではなく、鼻がツンとした。

その視線一つで、私の想いに息を吹き返させる。
死にかけだった私の想い(心)が、鮮明な痛みをともなって、息を吹き返えそうとしていた。

いやだ、好きなのに、忘れたくない
―――― こうしていることすら、なかった事になんてしないで

心のどこか遠くで咽び泣くような、自分の声がきこえる気がして。



この人との溢れ出る思い出と、自分の想いにじわりと涙が滲みそうだ。

はやく、はやく帰ろう。
自然と早足になる。

「おい、なまえ」

だから、彼に呼び止められた時、私はもう彼よりもずっと先にいた。
足を止めたけれど、振り返れなかった。


「手前が何を悩んでいるのか知らねえし、興味もねえ。
……勝手に距離を置かれたのも丁度良かった。俺は手前とダチでいるのはやめてえと思っていたからな」

そう云われて、身勝手にも息が詰まった。自分から距離を置いたくせに、彼からはっきりと言われたことに唇を噛んだ。


いいじゃない。これで諦めがついたんだから。
泣くな、泣くな。……これ以上は嫌われたくない。

「わかりました。ごめんなさい、私、一人で帰り……」

「なまえ、俺は手前が好きだ」


聞こえたものが信じられなくて

息が、止まった。
云われた言葉を理解するまでに、数秒間固まる。


「手前とはダチじゃなくて、恋人になりてえ。
手前が勝手に距離を置くなら、俺も勝手に俺のしてえようにする」

ツカツカと近づく音がする。
私の目の前に周りこんだ中原さんが、ニヤリと口の端を上げる。


「手前が好きだ。だから……逃げられるなんて思うなよ」

いつの間にか取られた手は、視界に映る目の前で恋人のように指が絡められていく。
その指と指が絡まる感触に、ぞわぞわする。
反射的に手を引こうとしても、余計に手は強く絡められてビクともしない。それに気を取られているうちに、彼の顔が間近に迫っていた。


「俺がマフィアだって気づいてんだろ? 今さら距離と取ろうなんざ、遅すぎんだよ」

掠れるような低い声は、明確な甘さを孕んでいた。蜜のようにねっとりとした甘さだ。

なのに、その瞳だけは違った。
ぞっとするほどの透明な空色。それが獲物を狙う猛禽類のような色に染まる。


「覚悟しろよ、なまえ」


絶対に逃がさない。
雄弁に語る瞳に、息を呑んだ。



荒々しい愛の旋律



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